
第一指南 観るべきは何か・・・
占い師の観るべきは何か?先に答えから述べるのなら、それは「運」という事になります、前世や在りもしない世界観を以てして因縁や魂を説く様な者は占い師の本質からは遠くかけ離れた行為をしています。
相談者の悩みを聞きその解決策、あるべき姿勢、取るべき道、これらを本人の「運勢」の元に示す事が占い師のその存在意義でしょう、実はこれがとてつもなく大切な事となり、その一方で深刻な現実を浮き彫りとします・・・それは・・・
多くの占い師というか、すべての占い師が「運勢」を観ていないという致命的な問題点が上げられます。
故にオカルト、霊感や神秘に始まり神秘に終わる様な出口がどこにあるのやら分からない様な話をするのです。
又、人相家は「相」を観ます、書物などに書かれている「相」に照らし合わせて判断しますがこれも占いの本質から言えば間違っています、「相を見る」のではなく「相の中に運勢の流れを観る」のです「相」だけ見て判断をしても「当てもの的」に終始するだけで「運勢の流れや人生の流れ」は判断出来ません。
西洋占星術、東洋占星術、九星気学など所謂「星」を見る占法も様々各占法の方法に則り運勢を判断しようとしますがこれも「星」を見ているのであって「運勢」を観ているとは言い難い・・・四柱推命、算命学、紫微斗数、タロットカードなどなどもこれら全て「運」を何故見る事が出来るのか?何故人の運勢を判断出来るのか、その原理、原則が実は漠然と曖昧に終始しているか若しくは理論破綻しているか又は根本的に間違っているかのどれかです、そして致命的な問題は何処まで行っても「個人差が出てこない」事にあります、同じ生年月日、同じ性別では運勢の違いがどう違うのか・・・例えば九星気学では「理論に始まり理論に終わる」と謳っていますが確かに理論はとても大切で先ずは理論が無ければ始まりません、占いを神や天からの啓示の様に思っているのならそれは大きな間違いです。
でも運勢という見えないものを判断する時に「理論に始まり理論に終わる」様ではいつまで経っても運勢は観えて来ません。
占法の確立に際して理論は必要ですが「運勢」とは「生の状態」で判断しなければいけません、つまり「人の運勢を直に直接見る事」が現場に於いてはとても肝心な事になります。
其仙流に於いて言えば「無相」も「麻衣神相法」も「陰陽論、造化論、三才論、三義論」などなどで一貫していますが、現場で理論を振りかざした所で人の運勢は観えて来るわけではありません。
この「人の運勢を直接観る方法」が確立出来なかった為に人は長い年月を掛けて様々な間違った占法を編み出す事となったのです。
例えば、ここに骨を折った患者さんがいるとします・・・手当、治療を施すのにお医者様はどうしますか?当然レントゲン写真などを使って直接に患部を見て判断をしますね?
又、車が突然動かなくなりました、修理工場に持って行って修理を行う時にも故障個所を直接見て判断します、「運勢」もこれと同じです個人の運勢を直接観ない事には根本的に判断は出来ません、様々な占い師が様々な占法を用いて様々な理屈を付けてそれぞれの主張をしていますが、どれも間違いです。
相談者は「今、目の前の悩みを解決したいのです」「現実を生きるのに空想や神秘、オカルト、霊感の入り込む余地はありません」
これらに応えるには「人の運勢を観る」事が不可欠です、故に運勢を直接観る事が出来ない占い師は所詮「占い師ごっこ」「お遊びの延長」「占いを根本的に勘違いをしている」占い師と言えるでしょう。
目に見えない「運勢」を「見る」事は叶いません・・・故に「人の運勢を直接」に「観る」別の方法が求められるのです。
又一歩踏み込んで言うならば、例えば医療の現場に於いては様々な医療技術が日進月歩で進歩していますが「命そのものを見る事」は今だ出来ません、また例えばどんなに科学が進歩しようとも「地震」を予知出来ません・・・この様に現代科学が及ばない事に「占い」の力を以てして臨める領域は確実に存在します、ですがその為には「目に見えないものを直接観る」事が不可欠となります。
「見る」と「観る」の違いは如何なるものかと言えば・・・
「見る」は単純に「両の目を以てして見る行為」です、一方「観る」とは「察する、感じるを含みます」少なくとも「見えない」ものを観ようとする「心構え」が必要となります、それが「察する、感じる」です、又「見えない」ものを「観る」には「見える」ものを遮断する事が必要となります、故に其仙流の「無相」は「瞑想法」が最も初心から入るに適しており、一生に通じてこれを極めれば仙人級となれるのです、
巷にいる目を開けた状態で運勢を見るという様な占い師は間違いなく偽物です。
「あとがき」
運勢を「観る」とは皆さんが思う以上に大変難しく、生まれ付き見えますとか、私には人に見えないものが見えます・・・などという様な生易しいものではありません、ですがその原理、原則は非常に単純です、単純ですが「奥が深い」のです、この「奥が深い」という事と「複雑」と古の占い師ははき違え、結局は間違った占法や直接運勢を見えなくても見えているという思い込みが生じる結果となったのです、「人の人生を左右しかねない事をするのが占いです、故に肝要な事は直接に運を観るにあります」又「これ以上の事は在りはしない」という事を肝に銘じなければいけません。
第二指南 伝えるべきは何か?
第二義も現代占いの濁り様、曲がり様、淀み様を浮き彫りにする議題です。
占い師は相談者に何を伝えるべきなのか・・・一見難しいと思われるかもしれませんが大きな意味で言うならば「生き方を説く」のです、しかも個人個人に合わせた生き方というものを説くのです。
ここで一番気を付けなければならないに事は「在りもしない世界観」「神秘に始まり神秘に終わる」「根拠の無いオカルト、霊感」「前世論」「出口の無い事」「方向性を示さない」・・・この様な事をしている様では指南者、占い師とは到底言えません。
占いとは「現実的問題を現実的に解決する、又はその助けをする行為」を言います、先に上げた様な「神秘に始まり神秘に終わる、前世論、オカルト、霊感」などなどは「現実的問題を解決する」という事からは本質的にかけ離れた行為です、何も解決しない様な事を言って何の価値があるというのでしょう。
又、占いを「物事を当てる」行為つまり「当てもの」とする占い師も沢山いますし相談者側も占いとは当てて何ぼ・・・と根本的に間違った前提がまかり通っています、一見して当てたら確かに凄いかもしれません、これこそ奇跡だ!本物だ!凄い!となるでしょうが、本質的には間違っています、冒頭に占いは「生き方を説く」仕事だと言いました、生きて行くには最低限の成長が求められます「道を開きたい、開運したい、もっと豊かになりたい」などなど人は思いますがそれなら尚の事「成長、努力、忍耐、知恵」などなどが求められますが「当たった」から「成長出来ますか?」「努力が出来ますか?」「道が開けますか?」・・・答えは当然・・・無理ですね、「当てもの式の占い」も本質をはき違えている占いのスタイルの一つです。
又、相談者の求めている答えを基本的には伝えるべきですが、その相談者が都合の良い答えだけを求め、都合の悪い答えを受け入れないという事も現場では多々あります。
「相談者の目線に立つ」「相談者の心を汲む」「相談者の背景を思う」この様な姿勢は当然必要ですが、相談者の求めている答えに終始してしまい本質的な事を述べない様ではもう一つ「腕の有る指南者」とは言えません。
占いとは時に相談者の求めていない答えや、受け入れ難い答えなどを伝えなければいけない事も多々あり故に「万人に認められにくい仕事」でもあります・・・万人に認めてもらう占い師、指南者などは返って怪しい側面が付きまとうわけです、でも一般の多くの占い師は万人に認めてもらう式の占いをやろうとします、これがすでに本質的でない占いの始まりなのです、万人に認めてもらう占い、万人に認めてもらう姿勢は一定必要でしょうが、占いの本質は「相談者に本質的な事を言えるか」です、決して万人に認めてもらう事ではありません。
またここで一つ考えてほしい・・・占いとは何か?
「安心を与える」「不安を取り除く」「道を示す」どれも正しい事ですが、占いの現場は相談者にとって「学びの場」でもあるのです。
「開運には本人の成長が前提」となります、つまり「努力、知恵、忍耐」などが求められるわけですが、占いの現場に「答えを求めに来る」という考えの相談者が沢山います、それもある側面正しいのですが、占いの現場とは「学びの場」という意識が望ましい。
「答えを求める」は場合により思考もせず、考えもせず、深く考察しない相談者もいます、占いとはやはり占い師の言った言葉を考え、深く考察し自分の日頃の行動に当てはめ考え、「自習自得」するという姿勢がある人の方が成長し、豊かな人生を送りやすくなります。
故に占い師や指南者は相談者の相談内容に答える時にその答えの中に少しでも「成長の種」を含んだ事を言うべきです、しかもその成長を本人の現状や成長の速度、人間性、人格を加味しながらもその人らしく人生を豊かにする「成長の種」でなければいけません、世間一般的な常識、良識、養いを述べる事も構いませんが、やはり「個人に合わせた」事を述べる事が望ましい、それが「無相使い」なら出来るはずです、人の生き方、価値観、どの程度の成長過程にいるのか・・・などなど見えないものが観える術(すべ)を持っているのだから。
「あとがき」
人の人生を説く事が占い師の意義である・・・故にその指南に「成長」を含んだ事を述べる事が本質的に腕の有る占い師である・・・ここで一つの注意点が・・・それは「成長」を含んだ指南を述べるとは言ったもののそれが数年先、数十年先という様にずっと先の未来や将来の事に終始しても相談者の反応は鈍いものです、核心を突いた事、本質的な事を指南しながらも「足元の課題」「目の前の課題」「今、現在の課題」を指南しないといけません、数年先、数十年先の事を述べながらも「今」を改善できる事を伝えなければ相談者の気持ちや心に届かない場合も有り得ます。
「長期的な課題=人生の課題」でもその一歩は目の前にあるはずです、故に相談者の「半歩先」「一歩先」の課題を指南出来る占い師がより腕が有る占い師と言えるでしょう。
この「一歩先と半歩先」は厳密に言えば大変な違いがあります、「一歩」は既に一歩を踏み出す意思があり場合により一歩を踏み出していますが「半歩」はまだ実際には足を踏み出していない段階も含みます、心や気持ちがまだ一歩を踏み出していない状況が考えられます、一歩を踏み出すにはその一歩を踏み出そうとする心の変化を与える事を指南しないといけません、それが「半歩」の段階なのです。
故に厳密に言えば「一歩先か半歩先か」と言えば「半歩先」を指南出来る事がより腕の有る占い師と言えるでしょう。
でもこの「半歩先」を言える様になるには大変な下積みや苦労、修練、人生観の養い、人格の養いなどを求められますが、占い師を目指すとは当然にこの様な事を鍛錬する事です。
又占いとは「生き方を説くお仕事」と先にも何度か述べましたが「課題」を含んだ指南が出来るかどうかも大変重要となって来ます。
「課題」とは問題点や解決しなければいけない事という意味です、人生に於いてどんな人も自らの人間性の問題点を持っているはずです、「生涯の課題」「人間性の課題」「心の課題」・・・様々な課題があると思いますが、個人個人に合わせた「課題」を含んだ事を指南しなければいけません。
この「課題」を的確に伝える事が出来るかどうかも占い師や指南者にとっては高い水準で求められます。
相談者に何を伝えるべきかという問題は占い師や指南者にとっては占いに対しての根本的姿勢を問われる大変重要な問題を大いに含んでいます、全然的外れな事を述べてもその意義が失われます、本質的でない事を述べても意味は左程も無いでしょう、その時々によって伝えるべき内容は多岐に渡りますが人生を左右しかねない事を述べるお仕事です、当然に的確に何を伝えるべきかの心構えと養いは必須と言えるでしょう。
第三指南 「是非」と「課題」
相談者の相談というものは大きく分けると「是非」と「課題」とに分ける事が来ます。
「是非」とは「良い悪い」「可能、不可能」「肯定、否定」「前進、後退」「成す成せない」という様にある物事の「可否や当否」を判断する事です、一方「課題」とは第二義でも何度か出て来ましたがある物事や事柄、人物の「解決しなければならない問題」「乗り越えなければならない問題」という事です。
「是非」も「課題」も個人の運勢を正しく解釈、理解、読まないと根本的な部分にズレが生じたりします、ここに指南者側の思い込みや間違った前提があると正しく占断出来ません。
「是非」を判断するにしても「課題」を判断するにしても、どちらも重要な問題ではありますが、敢えてどちらがより重要性があるかと言えば「課題」になります。
これは「課題」を解決、乗り越えて行けば「是非」の問題は軽くなる傾向があるからです、「可否」を問うより「解決しなければならない事を解決」する・・・この繰り返しを行っていくと次第に「可否」の問題が軽くなったり、可否の問題自体が消滅したりします。
「課題」といっても大小様々存在します、単純に問題のスケールの大小、問題の根本的複雑さ、人間性の高低、人格の有無、徳の有無、などなど簡単に解決、乗り越える事が難しい事も多々あり得ます、その「課題」を解決するのに数年、数十年掛かる事も十分にあり得ます、そこに一定以上の指南者側の相談者に対する「真心」「真摯な姿勢」「真剣な覚悟」が望まれます、ここがしっかりと腹に収まっていなかったら次第にボロが出て相談者に見抜かれます。
「是非」も「課題」も正しく本質的に指南出来る指南者を目指しましょう。
第四指南 指南者の命懸けの姿勢
相談者の相談と言っても様々あります、恋の悩み、家族の悩み、仕事や出世の悩み、より発展する為の相談もあります。
例え学生さんの恋の悩みであってもそれは当人にとっては「真剣」な悩みであり相談です、確かに大の大人の悩みと人生経験もまだ未熟な学生さんの悩みを横並びにして同じ様に扱う事は出来ませんが当人に取ってみれば「自分なりに真剣な悩み」なのですが、ここに指南者側の正しい姿勢が望まれます、相談者の「目線」に合わせた指南を心掛けると共に「半歩先、一歩先」の指南を示す事はとても大切です、その「半歩先、一歩先」の指南の中に「大の大人の悩みと学生さんの恋の悩みの人生観の差」を説いた事を述べなければいけません。
一方で相談者から見た我々指南者というものを想像出来るでしょうか?
我々がどの様に見られ、どの様なイメージで捉えられているのか?
我々指南者は時に相談者を「励まし、怒り、叱り、褒め、成長させ、見守り」様々な対応を相談者に合わせて行いますが相談者が皆、素直に聞いてくれ、受け入れてくれるとは限りません、時に年上の方も当然来店してきます、経験も専門も全く違う方が来られる事も多々あります、その様な状況の中で一定相談者から支持を受け、信頼される、頼られるのは我々指南者側の「真剣」な姿勢が有るか無いかで決まります「真剣」とは様々な意味合いが含まれます「真心、情熱、情、配慮」などなど相談者一人一人に合わせた「真剣」でこちらも対応しますが「真剣」という意味の根幹は「命懸け」という意味です。
命懸けで観るから「見えないものを観る」事ができ「相談者の心に響く指南」ができ「相談者を成長、開運」させる事が出来るのです。
例えその場、その時に理解してくれなくとも後々に気付いてくれる為にも「真剣にして命懸け」の姿勢は当然必要となります。
多くの占い師達が自分も「真剣」に取り組んでいると思っている事とは思いますが「本物の占いとは」を知らずして「占いに於ける真剣な姿勢」を本質的に理解、悟る事は難しいものです、昔も現代も多くの占い師達が「真剣勝負」と思いながらも実は「木刀勝負」をしているのです。
昔から言います・・・「試合をしてはいけない真剣勝負をしなさい」そうでなければ本質的に「腕」は上がらないし磨かれない。
第五指南 外れたならば・・・
占い師や指南者は皆さん「外したくない」という心理が強烈に有意識か無意識的かはさて置きあるとも思います。
でも初めから相談者が納得する指南が出来るものなのでしょうか・・・当然それは無理な話です、どんなに優れた占法や才能があっても未熟な段階というものは当然あります。
「外す、外さない」は「当たる、当らない」と同義なので「当たる」事が占い師として「腕」が有る・・・と皆さん思いがちですが、根本的に思い違いをしています。
其仙流が度々主張している事の中に「占い師は当たる当らないではない」といってはいますがだからと言って、巷にいる様な「癒し系占い師」も本質的には間違っています、「結果や現象を言い当てる」事は本質的でなく「結果や現象に至る流れを当てる」事が肝要でその上で個人に合わせた指南をするという事が占いの本質である、故に当てるという行為をアピールする事自体その必要性がありませんし本質的には無意味です。
現場では「外す」事も当然あるわけですが、そこで「言い訳、正当化、否定」をする様ではいつまで経っても「腕の有る」占い師や指南者にはなれません、相談者が納得いかないにしてもその根本的原因が指南者側にあるのか相談者側にあるのかを透明感を以って判断し、指南者側に問題があると分かれば素直に自らの非を認め、腕の無さを認め、未熟さを認め、相談者にお詫びをする・・・そして相談者の納得を得られなかった原因を自らが分析しそれを克服し乗り越える・・・この姿勢の積み重ねの先に「占い師としての玄人の姿」があるのではないでしょうか。
「外したら」素直に認める・・・自らの非を認めない者にその先は有りはしない。
第六指南 「謙虚」の養い
「謙虚」とは「控え目で、慎ましやかで、驕る事無き姿勢や心の在り様」を言います。
指南者や占い師たる者「謙虚」を心得ておかなくては様々な相談者や現場で通用は出来ません、相談者が納得出来ない指南をしても謙虚、相談者が納得する指南が出来ても尚謙虚。
其仙流にはその長き伝統の中に於いて「三度の謙虚」をいう心得があります。
其の一 頭を垂れ、謙虚。
其の二、腰を折り、謙虚。
其の三 心を込め、謙虚。
其仙流の無相使いなら人の二倍も三倍も何倍も謙虚な思いで現場に立ち相談者と向き合わなければいけません、こちら側の謙虚な姿勢に相談者も謙虚に指南を聞いてくれるのです。
指南者や占い師というものは「先生」という立場で又相談者からその様に実際「先生」と言われる事が多々ありその「先生」という呼ばれ方に慣れてしまい「先生たる言動」をともすれば忘れてしまいがちです、その様な未熟な自分というものがまだまだある段階は特に「謙虚」な姿勢を心得る必要性があります。
「謙虚」を教える立場の我々が「謙虚」を心得ていない様では指南者や占い師としての姿勢を疑われてしまいます。「相手に伝えたい事を伝えたいなら謙虚であるべし」「周囲からの理解、協力を得たいなら謙虚であるべし」「謙虚は徳始まりなり」
第七指南 察するべきを察するべし
この「察するべきを察する」は指南をする者にとってはこれ無くして指南者と言えないものでもあります。
例えば「不倫問題」で不倫に発展を求める人が間々いますが基本的に不倫に発展は求めずにいる事が前提とはなります、稀に発展を求めお互いが幸せになる稀有なケースがあります、又「夫婦の立場」で言うなら妻は夫より前に出ない、夫を立てる事がお互いの立場をより良い関係にするという前提がありますが、時に夫より妻が前に出る事によって家庭が上手く回る事もあります。
基本はあくまで基本であり、その基本にこだわり過ぎると「意外な事、意外な流れ、意外な運勢」を見落とす事になります、「察するべきを」見落とす様な事ではその腕はまだ未熟と言わざるを得ません。
「察するべきを察する」には「前提」があると察せません、つまり「透明感」を以って運勢を解釈しなければ本質的な運勢は観えて来ないという事です、我々指南者は相談者が本質的に道が開ける事に尽力すべきであって、そこに我々の個人的価値観を必要以上に介在させると観えるものも観えて来ないし、察すべきを察する事も出来ません。
又、この「察する」は=「感じる」という事でもあり、「どう感じたか」は指南の現場の経験を積み重ねて行くと、とても解釈や判断に重要な手掛かりとなります、これに熟練していくと瞬時に解釈が出来たり、更に奥深く解釈が出来たり場合により複数の問題を同時に解釈出来たりもします。
「察すべきを察する」は「正則的な人格の養い」つまり「高い見識、深い哲学、大きな徳」を養って初めて察する事が出来るものです、故に未熟な自分を受け入れながらも謙虚な姿勢で現場の経験を重ねて行くとその先に「察するべきを察する」という境地に立つ事が出来るでしょう。
第八指南 無暗に「愛」を語るなかれ
昨今はやたらと「愛や癒し」というフレーズが耳に聞こえて来ますが、「愛」は持っているか否かが重要で「特別に意識して行動で表現する」ものではありません、又「癒し」も「緊急事態」の時に必要なもので、日常的に「癒し」を求めるのなら温泉旅行にでも行けば癒されるでしょう。
殊更「指南」の現場で「愛」や「癒し」を口にする指南者や「愛」や「癒し」を求める相談者はその人生や生きる姿勢に根本的に致命的欠陥がある者と言えます。
「生きる」事を指南し、「人の人生」を指南し、「生き方を説く」事が我々指南者の本質的な勤めです、その「生きる」という事は時に過酷で、出口の見えない苦労の連続を強いられ、時に運命に翻弄され自分の人生を自分で選ぶ事も出来ない出来事や人もいます、又より充実した人生を望む、より成功を望む、更なる発展を望む・・・この様な時に「愛や癒し」が一体どれ程の役に立つのでしょうか、「無駄」だとは確かに言いません、人生に於いて「愛や癒し」は人の心に潤いを与えてくれます。
ですが一方で「愛の愛、癒しの癒し」は単なる「甘え、骨抜き、脆弱」になる危険性を大いに含んでいます、人生はそんなに甘くはないのです、社会はある意味で「実力社会、弱肉強食」の世界であって、これは「自然的」在り方なのです。
でも「人」には「心」があります、故に時に支え合い、傷付いた者を助ける「心優しい」側面が存在するのです、そう「愛」とは「優しさ」の形を変えたものです。
「優しさ」は必要ですが、それも過ぎたり、相応しくない場面での優しさは「曲がっていく」大元となります。
この「愛」という概念は古今東西、存在するものですが、昨今で言う所の「愛」は往々にして「西洋思想の愛」をその起源としていると言ってよいでしょう。
「愛」とは=「相手を思いやりながらもいたわる行動、表現」であるとするのが西洋の言う所の「愛」と言って差し支えないでしょう、確かに「愛」の本質を突いた側面でしょう。
ですが能々考えてほしいのは、この「愛」という概念を持つ西洋の人々は「相手を思いやりながら」と言いながらも「差別」をしますアメリカではユダヤ人差別、黒人差別、先住民差別、ドイツでもユダヤ人差別、イギリスでもアフリカ系の人種差別、西洋圏全般にある黒人差別、東洋人差別・・・これを西洋人の多くの人は「差別ではなく区別」だと主張します、特にキリスト教の原理主義者に多く見られる傾向です。
一方で愛を謳いながらもその逆の行為をするのは何故でしょうか?それは「愛」に対する考えに未熟な部分が存在するからです、確かにそれぞれの国によって差別に至る背景があり、またその原因も国々によって違いますが・・・。
そもそも「愛」という概念がハッキリとしていません「愛の本質」とは「全てを受け入れる、全てを開放する」という二極性の概念と其仙流では定義しています、例えば恋愛で言えば、ここに恋する青年がいます、美しく可憐な少女に恋心を抱いています、つまり片思いの状況です、いつ告白をすべきか・・・ある日突然その彼女から相談を受けます、その青年の友人に片思いをしているという相談です、青年はショックを受けます、その少女は恋の架け橋をその青年に頼みます・・・
「愛」の養いが不十分な者やどうしても自分の思いを伝えたいという者はここで協力はしないでしょう、逆に「愛」ある人の行動は、「自分の幸せ」より「相手の幸せ」を願う者です、それが「全てを受け入れる」という事です、そして相手を自分の思いで縛ったりせず、逆にある意味での開放をします、「自分の片思いの気持ちを自らが縛ったりせず、自分の思いをその少女に伝えないという、空(くう)へと開放」するのです。
この例で少し理解してもらえたと思いますが、西洋圏の言う所の「愛」は非常に未だに不完全過ぎる部分が多分に含まれており、本質的に他者を「思いやる」という事が不十分な時があります、基本的には「他者を思いやるとは100=0」なのです、100%の気持ちで相手を思いやるのが「愛」の基本精神です、そこを自分都合に60=40、30=70などなど、自分都合の「思いやり」をする所に西洋思想の愛の未熟さが存在します。
一方、東洋に於いては実はこの「愛」という概念は古から存在しており、「西洋の愛」の概念より、より進んだものへと昇華しています。
「西洋の愛」は「愛」を個別化しこの概念が人の心の在り様の「一つの最上の形」としている点と「東洋の愛」は「愛」とは「徳」を積む一つの形としている点に大きな違いが存在します。
古代中国でも「愛」は恋愛に始まり様々場面で求められる人の思いの形としていますが、ある意味最も身近にある「愛」とは「親、兄弟、肉親」としている所が特徴的です「仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌」という徳を積む為の「八道」の「仁」はより完成度の高い「愛の側面」を捉えたもので、己に勝ち、他に対するいたわりのある心を指します、又「孝」は親や目上の者に対する「愛」の在り方を説いています、家族愛、師弟愛、親孝行などがそうですね、又「悌」は弟や妹、後輩が兄や姉、先輩などに対する「愛」の在り方を説いています、兄弟愛などがそうですね、又「愛」と言っても「慈しみ、いたわり、見守り、慈愛」などなど東洋の愛の概念はその場面、場面で微妙な違いを含んだ豊かな「愛」の概念へと昇華しています。
西洋の愛という概念がいけない、ダメだと言っているのではなく、西洋にも優れた愛の概念の側面はあり、又東洋の愛の概念にも未熟な側面はありますが「愛に始まって愛に終わる」様な指南を心掛けている様では未熟も未熟な指南者となります。
それは何故か・・・「愛は最上では無いからです」人の持つべき精神の一つに「愛」という未完成な概念は時として「害」を生み出す可能性があります、「愛」そのものを持つより「愛を含んだ徳」を持つべきであります。
それが「仁の精神、和の精神、孝や悌の精神」なのです、故に「愛」を取り出し「愛」を述べ、その指南が「愛に始まり愛に終わる」「癒しに始まり癒しに終わる」様な指南者は指南者に非ずです。
「まとめ」
「愛」は持っているかどうかが先ず重要で持っていれば自然と言動に出るものです、それをわざわざ「愛」という言動を用いらなければならない状況はかなり限られた状況です、例えば「恋愛」「夫婦愛」「親子愛」などは確かに「愛」そのものを含んだ指南が求められる時もありますが出来るだけ、「愛」「癒し」を使わずに「愛」「癒し」を表現出来る深く、豊かな「表現力や解釈」が理想となります。
「愛」は昇華すれば大変、それ自体が徳に根差したものとなりますが、「愛」を未熟に理解し、言動に含ませ又他者に求める様な行為は非常に稚拙と言わざるを得ません。
「愛」とはそれほどまでに難しい側面があるのです、単純に幼子が母を愛し、母が我が子を愛する、そこに「理屈」は存在しません、それが「愛」の本質ですが時と場合により大変「理屈」を含む可能性も多々あります、例えば、お金を沢山持っている人は余裕があるだけ寄付が出来るでしょうが、お金にあまり余裕が無い人は寄付をしたくても限られた金額しか寄付が出来ません、これはそれぞれの理屈、理由です。
ここに人の未熟さや自分都合の「理屈」を用いると突然に「愛」が稚拙なものへと落ちぶれたものとなります、先に上げた西洋の人種差別などがそれに当たります。
「愛」を正しく理解し養い、その上で必要に応じて「愛」を含んだ事を述べる事が望ましく、無暗に「愛」を語るは「罪」を生み出している事にも通じます、能々気を付けるべし。
第九指南 「相応しい」を心得るべし
何事も「相応しい」言動を心掛ける事は大変良い事です、相応しい言葉、行動、思考、心掛け・・・この「相応しい」が多少は外れる事くらいは個性や面白み、といった範囲内で済みますがあまりに相応しくない言動を重ねて行くと「空気が濁り」「流れが滞ったり、止まったり」「不快感を与えたり」となります。
又指南の場に於いて・・・という意味合いでの「相応しい」は「相談者の目線に合わせる」という事になります、相談者の目線に合わせながらもその半歩先、一歩先、更にその上での十歩、二十歩先を述べる事が、真に腕の有る指南者です。
例えば・・・其仙流は人生を生きるに「徳」を目指しながらの生き方を説きます、相談者に「徳」の話をして直ぐに理解し、日頃の自分の生活と関連付けして理解出来れば良いのですが、相談者によっては「徳」を深く理解出来ない段階にいる相談者も沢山います、その様な人にいきなり「徳」の話をしても理解出来ないでしょう、又必要ない!若しくは意味不明な事を言う腕の無い占い師!と思ってしまうかもしれません。
確かに「徳」は人類の誰一人欠ける事無い目指すべき、養うべきものですが、あまりに独りよがり、自分都合の人生、哲学無き人生、真剣さを思い違いしている、学びの浅い者、という様な者に「徳」の話をしても「相応しい指南」とは言い難いものです。
「まとめ」
「相応しい」指南を心掛けるにはどうすれば良いのか?
それは、「相談者の目線に合わせる」事がかなり重要となります、その一方で「本質的な指南」というものも指南しなければいけません、「相談者の目線に合わせる」と言う事は場合によって「本質的でないが相談者の望んでいる答え」を指南すると言う事にも通じます、故に相談者の目線に合わせながらも本質的な事を述べる事が求められます。
指南者側の「価値観」を前提に指南をするとそれは相談者の人生ではなくどこか指南者の人生観となります、これはともすればどの様な指南者にもあり得る落とし穴で能々自らを「無」と律する事が望まれます、又先に説明しました通り、相談者の「今」を指南しながらも「半歩先」「一歩先」の課題を述べながらも五歩先や十歩先、二十歩先の指南も心掛けなければいけません、常に十歩先、二十歩先の指南が必要というわけではありませんが、その時々に応じて正しく流れを読み指南する事が肝要です。
この「相応しい」は「相談者の求めている指南」という事と「本質的な指南」と二通りに分ける事ができどちらも大切な姿勢となります、両方の指南を述べる事が出来る腕を磨いて行く様に・・・。
第十指南 有名無力、無名有力
人はどちらかというと「有名と無名」なら「有名」になりたい、「有力と無力」なら「有力」を取ります、その様に「有名有力」となるには先ずは「本物」を目指さなければいけません、又「本物」とは何か・・・という事も深く理解しなければいけません。
事この業界に於いては「有名有力」を皆さん謳いますが、本質やその中身は「有名無力」の有り様です、命懸けの相談者に本質的に応えているか、真剣な相談者に真剣に価値ある指南が出来ているか、価値を生み出す様な指南が出来ているか・・・・非常に残念な状況と言えるでしょう。
目指すべきは「有名有力」とはいかなくとも「無名有力」という域には到達せねばいけません、それには正しい正当な「実力」を身に付けなければいけません。
昔から言います「本物に成りたければ本物から学ぶしか無い」「一流に成りたければ一流から学ぶしか無い」と言います、言葉通りの意味で、二流から学んでも二流を超える事は出来ません、偽物を学んでも本物には成れません。
名声は高く名は有名、でも実力は無い・・・この様な「有名無力」の有様の占い師や指南者の多いこの業界ですが、「有名有力」を目指しながらも「無名有力」を肝に据えるべきです。
「無名有力」を養っているから「その時」が来たら「有名有力」となるのです、本来指南者とは「実力」があるのなら「有名、無名」は関係ないのです。
有名になりたいがあまりに「有りもしない世界観を謳う」「本質的でない過度な宣伝」「本質を曲げる様な言動」・・・この占い業界は既にこの様な占い師達の台頭に因って濁り曲がり淀んでおり、「本物、本質」が偽物たちによって「偽物、不本質」となってしまっている状況です。
第十一指南 自ら限界を作らない・・・
占い師の元には様々な相談者が来ます、難問珍問を抱えた相談者や非常に突破が難しい相談内容、頭を抱える様な相談内容・・・この様に指南の現場に於いては到底相談者が望む様な、喜ぶような、納得する様な指南は難しいと思ってしまう事も多々あり得ますが、それでも知恵を絞るのです、それが出来るのが我々指南者なのですから、我々指南者が相談者の相談を投げてしまったり、高を括ったりしてはもうその人は誰にすがり、誰に相談したら良いのでしょうか?
我々指南者は相談者にとって「最後の砦」「最後の法」「最後の知恵」なのです、我々指南者がさじを投げたらそれは「指南者に非ず」です。
指南業とは「教え導く」事と思われがちですが、確かにその様な側面はありますが、更に一歩本質に迫るなら、指南業とは「教え育てる」と言えます、「導く」と「育てる」の違いは深く大きい・・・。
「導く」とは「ある地点までの道のりを示す」事を言います、これも大変「腕」が問われ、「導く」事が出来るまでの実力を養うには相当の努力と下積みを積まねばなりませんが、導く流れや地点が分かっていればある意味簡単です。
一方で「育てる」はまさに時として忍耐の二文字を強いられる事もあります、人が成長するにはそれなりの時間が掛かります、それが本質的成長と成ると尚更です、場合により数年、数十年掛かります、親が我が子を教え育てるのと同じです、何度も躓き、迷い、一喜一憂しながらもお互いが成長して行くのです、その親が自らに「限界」を作ればその子供はどうなるでしょうか、恐らくその子供は本来の成長が出来ないでしょう、故に人より苦労をし、成長にも時間を要するでしょう。
「育てる」とは「相談者と一緒に道を歩くかの如く、相談者に真心を以って向き合う」事です、故に自らに「限界」を作るとそこで育てるという流れが終わるのです。
相談者に成長を提供する事が我々指南者の勤めなのに「限界」を作る様な事ではお粗末な「腕」となります、自分も幼い時や未熟な時に親や学校の先生、周囲の友人、仕事場の上司や先輩、同僚から育てて頂いたはずです、未熟な頃の自分を棚に上げて「高を括り、見下し、限界を作る」・・・この様な道理があってはならないはずです、我々指南者は「人の成長に直結する」お仕事をしているという自覚を強く持つべきであり、我々指南者が適当な事を言えば相談者は響いてくれません、高を括り、見下せば相談者は二度と来てはくれません、限界を感じた指南をすればその指南自体、限界が生じます。
どこまでも「相談者の為の指南」を心掛け、道を開くのには「忍耐の二文字を相談者と指南者のお互いが覚悟」をし、「常に造化の精神」で事に臨むのです、この様な姿勢でいると自然と「限界」を感じても何とか突破しようと知恵を働かせ、努力をします、この様な姿勢が指南の本質的な姿でしょう。
第十二指南 「見下さない」姿勢
指南業というものをある程度こなしていくと大なり小なり多くの指南者が陥る落とし穴があります、それは相談者を「見下す」事です。
その多くが「無意識」に相談者を見下しているのでしょうが、この「見下す」という行為は多くの相談者が敏感に察知し反応します、指南者が見下していると相談者が感じたら高確率で二度とその宅占事務所には訪れません。
これは「相談者を傷付け」「自分のお客様を一人失い」「占いに対する信頼を損なわせ」「占い業界への疑念を生じさせる」という幾つもの罪を犯す事になります、何より相談者を成長させ、開運させるというお仕事に就いている者として有るまじき姿勢です。
「毎回程度の低い事を聞いて来る」「成長が鈍い」「周囲に迷惑や不快感を与えている事に気付いていない」「どこまでも独りよがりな生き方」「自分が優れていると思い込んでいる」確かにこの様な相談者が来ると我々指南者側の心も辟易(へきえき)とし知らずの内に見下してしまう・・・
分かります、一定理解出来ますが、それこそ指南者としての「腕」の見せ所なのです、理解力があり、素直に指南者の指南を聞き入れてくれ尚且つ深く感じ考えてくれる・・・この様な相談者ばかりなら我々指南者は心から嬉しく思いますが、この様な相談者ばかりならその「腕」はある意味で限界が生じます、どの様な相談者が来ても、どの様な相談内容でも一定しっかりと実力を示す事が出来る・・・それが結局は相談者の為であり自分の腕の養いの為でもあるのです。
「見下さない」・・・我々指南者が強く心に戒めとして持つべき心得です。
第十三指南 占いに神秘を求めない
占いは神秘である、占いは神の領域である、占いは神変不思議なものである・・・確かに占いにこの様な側面が無いわけではありませんが、大前提に「占いに神秘を求めてはいけません」
それは何故か・・・指南の現場で「神秘」を指南する必要が無いからです、占いとはあくまで「現実的問題を現実的に解決する」ものです、「現実」と「空想や妄想」「根拠無きオカルトや心霊、霊感」と結び付けて鑑定をする占い師の風上にも置けない者が多々お役に立ってます顔をする昨今ですが、現実に仕事や恋愛、家族、進路、就職、人生・・・・様々な問題に悩んでいる人に「根拠無き前世の話」や「生霊や悪霊」「有りもしない世界観」を指南しても根本的に問題解決や生きるヒントを指南している事にはなりません。
この問題は大変、深刻で相談者だけでなく我々占い師の中にも「占いに神秘を求め」占いとは「神秘である」「心霊である」などなどと間違った思い込みをしている方が沢山います。
この様に「占い」を正しく理解できない、又思い違いをしている占い師は本質的に相談者のお役には立てません、又相談者に於いても「占い」とは「神秘であり心霊だ」などと思っている人はその生きる姿勢に致命的問題点がある人と言えるでしょう。
今起こっている問題や希望は「現実的起因」が存在するはずです、それを「非現実的な神秘」に求めると「正しい道の開き方」「本質的な生き方」「正則的な成長」が行えず結局は道を誤ります、指南者が相談者に正しい生き方を説けなければその存在意義はありません。
占いは確かに「玄妙で玄奥」であり、ある意味「神秘」でもありますが、それは例えば自然の理そのものが美しく神秘である、春夏秋冬の四季の廻りそのものが美しく不思議である、朝日が昇り夕日が訪れるこれ自体が神秘なのです、あくまで「現実に神秘を求め見出すべき」で「非現実的な事に神秘を求める」は曲がり濁る原因となります。
何が神秘なのかをはき違えるとその大元に狂いが生じます、昔から言います・・・「動機は善であれ」この言葉は「何を目指すも自由だがその動機(大元)は善でなければ、曲がってゆく元となる」という戒めの言葉です、「占いに神秘を求める」という行為はこの戒めの言葉と同じで、相談者を占う姿勢や指南そのものが曲がり淀んで行き、最後は人の人生を預かっているという気持ちが希薄になり害を成す占い師、指南者となり果ててしまいます。
「神秘」とは「人知を超えたもの、人知では計り知り得ない様」という意味です、文字通り「人知を超えた」事柄を人知で計るから正しく理解できず、作為的に曲がり歪め解釈するのです。
この「神秘」の玄妙さや奥妙さというものは到底生半可な人格では正しく理解が出来ません、故に先ずは普通の感覚で、現実的な事を現実的に感じ、何か問題や障害が現れても現実的に解決するという思考や行動が大切です。
孔子が昔「鬼の事は語らない」と語っていた様ですが、大変人格者として正しく立派な姿勢だと思います、これは孔子がよく皆から様々な事柄に精通している孔子先生だからきっと鬼(幽霊)の事を尋ねても応えてくれるに違いないと思い様々鬼の事や摩訶不思議な事、死んだ後の事などの質問があった様ですが、孔子は「鬼の事は語らない」と返答をしたそうです。
この孔子の言葉の意味は、是非も価値も理由もその根本も分からない事を無暗に口にしてはいけないという事です、是非多くの人にこの言葉を見習ってほしいものです。
第十四指南 「指南」の言葉に責任を負う 其の一
昨今は自分の指南に責任を負う、自分の指南に命を懸ける、自分の指南に人生を懸けるという様な骨のある指南者がとんと皆無になっている様です。
「相がその様に出ていますから」「カードがその様に出ています」「卦がその様に言っておる様です」とか相やカード、卦のせいにしている様な口ぶり・・・確かにそうなのでしょうが、その相なりカードなり卦なりを解釈し言葉にしているのは我々指南者なのです、その言葉を相談者は信じるのです。
故にそこに一定の我々指南者側の「責任を負う」姿勢が求められます、又「相がその様に出ている」「カードがその様に出ている」「卦がその様に言っています」などと口にする指南者や占い師は本質的に腕が有りません何故ならば「卦やカード、相」がその様に出ているのですから、そこに腕は問われません「カードや卦、相」を見る事が出来るならば別段自分でなくても誰が見ても同じ事になるからです。
これは多くの占い師の落とし穴で「指南の言葉に責任を負う」「実は誰が見ても同じ」この二つは二つで一つの問題として指南者が超えなければいけない問題です。
人の運勢は単純ではありません、「裏に何が潜み、何が含まれ、何が起こり得るのか」この様な事を正しく観て行くには、そこに「責任を負う」という姿勢の積み重ねから次第に相談者に鬼気迫る指南という領域へと到達して行くのです、又それ故に占い師個人個人に、「この占い師では無ければならない」という相談者・・・つまりお客様が付くのです。
「指南の言葉に責任を負う」・・・確かに責任を取ると言っても取り切れるものではありませんが、相談者の人生を預かる務めです、安易に「占具」のせいにせず、安易に「結果」を求めず、本質的な指南を責任を負う覚悟で構え、臨むのです。
第十五指南 それでも良い所を指南する構え・・・
我々、指南者や占い師は「個人の運勢を観て、その是非や課題を指南する」事がその勤めですが、とかく是非や課題、特に課題の話になった時には相談者の「悪い所」に話しが集中しやすくなります、一定当然な事ではありますが、「責める言い方や口調」には配慮が望まれます、責めるばかりの口調と時にオブラートに包んだ様な表現やヒントとなる言い方も指南者として当然養っておく必要があります、否定口調、責める口調で鑑定をされても相談者の中には受け入れる事が出来る人と、受け入れられない人や場合により反発する人も出て来ます、言い方一つ、表現力一つで伝わり方は様変わりをします。
一方で悪い所や注意するべき所を指南する事も大変重要ですが、「良い所」を指南する事も高い水準で求められます、何故ならば「人の行いの悪い所や欠点」は目に付きやすく、運勢もこれと同じ事が言え、その人の運勢上の良い所があまりに高水準でない限り悪い所が目立ちやすくなるからです。
勿論、時と場合に因りますが終始、悪い所の話しをしてしまう指南者や占い師はその腕や実力にもう一つ「殻」を破る事が望まれます。
トータルで運勢を観て良い所と悪い所とを見比べて良い所より悪い所が多い相談者の場合、それでも良い所を先に指南する必要のある相談者もいます、要するに「一度持ち上げる、よいしょする、少し遠回りな言い方、包む様な表現」とでも言えばよいでしょうか、我々の指南の表現に一定の配慮が必要です。
多くの相談者は自分は「出来る人、レベルが高い、才能が有る、自分の判断は高いレベル、自分の人間性は高い」などなどと思い込んでいる可能性が非常に高いものです、その様な相談者に「貴方の判断は間違っています、貴方は周囲にもっと感謝をすべきです」などなど場合により相談者の思い込んいる真逆を指南する事も現場では沢山あります、その様な相談者を相手に「核心、本質」をいきなり述べても受け入れられない、反発されるという事になりかねません、場合により相談者が心の中に一方的に「この占い師、腕が無い」と決め付けられる可能性すらあります。
では何故、この様な事が起こるのでしょうか?確かに人は良い所より悪い所が目に付きやすいものですが、理由はそれだけでは無いはずです・・・。
考えられる理由は以下のものがあります。
・相談者を見下している。
・相談者を育てる意識が無い若しくは低い。
以上の二つが現場に於いて相談者に指南やアドバイスが受け入れられない大きな原因です、それぞれを説明しましょう。
「相談者を見下している」
第十二義でも述べましたが、これはあってはならない事でもあります、多くの指南者や占い師が通る道でもあります、見下しているつもりは無いが結果的に見下している事や明らかに見下しているものまで細かい違いはあるでしょうが「相談者を見下している」行為は強く我々指南者や占い師が戒めとしてあってはならないと肝に銘じるべきものです。
「程度の低い質問、何回も同じ過ちをする、人として誤った言動を正しいとする、傲慢な相談者、世間知らずな相談者、独りよがりな相談者」などなどこの様な相談者の相手は確かにこちらの心が折れそうになる位に疲労感がとてもあります、指南者や占い師側の指南やアドバイスを理解してくれる素振りを見せて自分都合に解釈するとか、何度言っても理解しない人、本質をはき違えている人などは我々、指南者や占い師にとってもかなり骨です、その様な繰り返しをする内に次第に「相談者を見下している」言動を取ってしまう事もありますが人は自分を見下している言動に「敏感に察知」します、「相談者がこの占い師、自分を見下している、馬鹿にしている」を悟られてしまったら高確率でその相談者は二度と訪れません。
理解力の低い相談者の原因は幾つか考えられます「間違った又は未熟な思い込み、考える力の養い不足、ある思想に染まってしまっている」などなどがありますがこの様な相談者には数年、数十年真剣に向き合っていく覚悟が求められます、一方で理解力の低い相談者に必要なものというか相談者の多くに必要なものでもありますがそれは「気付き」と言えます。
この「気付き」を数年、数十年掛けて指南をし物事の本質をアドバイスしてくと次第に「透明感が生まれ、素直にものを観る事ができ」結果的に理解力や見識が深まっていくのです、相談者の成長を促す事が我々指南者や占い師の意義ですから「見下したり、見限ったり」する様では相談者の成長の機会を逆に奪っている事に結果的に通じているのです。
その時々の、現場現場の、相談者一人一人の問題点は様々ある事でしょうが、我々指南者や占い師は開運する為、充実した人生を歩む為の成長を指南する立場ですから、その我々が相談者を見下したりする様では本末転倒です、能々肝に銘じるべき心得です。
「育てる意識の希薄さ」
我々指南者や占い師は「個人の運勢を観て、開運を提供する」事がその存在意義です、当然相談者により又、相談内容により数年、数十年お付き合いをしなければいけない事がありますが「開運には成長が必要」と言う前提が存在します勿論、時と場合に因りますが基本的に成長無き開運は本質的でないと其仙流では定義しています、つまり相談者を育てる事が指南者や占い師の「腕」が問われる所です、当然時間が掛かる事も十分考えられます、同じ過ちを数日、数週間する所ではなく数年、数十年繰り返す相談者も多々います、それでも一歩でも一センチでも例え一ミリでも前に進ませる為の指南をすべきなのです。
人が成長するのに簡単には成長しません当然時間が掛かる事もあります、その間の時間を共に歩むが如くに「相談者を一歩でも成長させる姿勢」が求められるのです。
相談者の質問に対して「答えのみ」を答えるのとその答えに対して更なる課題を同時に指南をするのとでは次第に雲泥の差が出て来ます、昔から言います・・・「相談者を育てる事が出来ない指南者や占い師はもぐりの者」である・・・と。
そして成長を成した相談者を「その成長を評価する、成長を褒める、共に成長を喜ぶ」事も我々指南者や占い師は当然必要となります、悪い所や欠点などつまり課題を述べながらも相談者の良い所も同時に指南出来る様な心構えが指南者や占い師の本質的な「実力、腕」となるでしょう。
第十六指南 最善の更なる最善、改善の更なる改善 其の一
相談者の相談に対して指南をする・・・でも更なる良い手立ては無かったか、更なる良い結果を得る指南は出来なかったのか、更なる成長を指南出来なかったのか・・・つまり「改善の改善」「改良の改良」「指南の指南」「核心の核心」・・・これは我々指南者や占い師にとっては永遠の課題とでもいうべきものです、時間を置く、経験を積み重ねる、考え方を変えてみる・・・すると以前した指南よりより前進出来る指南が閃く事もあります。
実はこれは一見して相談者に対してもっとキメの細かい指南を意識するという事だけに思いがちですが、とても重要な要素を含んでいます、それは「指南者や占い師は相談者を育てながらも我々指南者や占い師も相談者に育てられている」事に通じます。
師匠から、昔はよくこの様な事を言われました「指南者は相談者に育てられる、故に謙虚に構えなさい」と耳にタコが出来るほど言い付けられました、簡単で単純な相談内容を持って来る相談者もいますが、中には難問珍問を持って来る相談者、それに付け加え理解力の低い相談者や程度の低い相談者などが来て非常に頭を抱える日々を送ってしまうと、ある日「もう一歩の指南に届いていない」事に気付き気持ちを入れ替えた記憶があります。
「改善の改善の指南、改良の改良の指南、より核心に迫る指南」これらを意識する事は相談者の為であると同時に我々指南者や占い師の成長の為でもあるのです、お互いが育て育てられる関係が指南者と相談者との健全な関係性でもあります。
改善の更なる改善・・・非常に高度に難しい問題でもありますが、常に意識したい心得でもあります。
第十七指南 豊かな表現、相応しい表現を養う
進む進まない、やるやらない、成功するしない、などなど指南は結局の所は可否、成否、是非を述べやすくなるものですが、単純にそれらの指南を相談者に指南するのと、相談者に合わせた言葉選びを含めた指南とでは、相談者のその成長にも差が次第に出て来ます。
相手の心に届く表現、響く表現、的確な表現、今は分からないかもしれないけれども本質的な表現などなど相談者一人一人に相応しい表現、理解しやすい指南はかなり高い水準で求められます。
ある事の可否が可なのか、否なのかを述べるだけにそこまで神経を使う必要があるのか・・・?という方もいるかもしれませんが、それは相談者の「成長」を理解していない、無視している様な指南者の言い分です。
豊かな表現力は時に「厳しい表現、優しい表現、淡々と述べる表現、ふんわりとした表現、迫力のある表現」などなど様々ありますが、幾つかのコツがあります。
一つ目は「らしさ」です。
相談者らしさがどこに在り、どの様な生き方をしているのか、どの様な価値観を持っているのか、つまり相談者個人の「個性」を指南に含める事です、例えば「AさんとBさんとどちらと結婚すれば良いでしょうか?」という質問に「Aさんと結婚した方が良いです」で終わるより「Aさんと結婚した方が貴方らしさを出せますが、Bさんと結婚をすれば貴方が自分らしさを我慢しなくてはいけなくなるので、Aさんがより相応しいのではないでしょうか」という指南がより真に迫る表現となります。
二つ目は「本質を得ているか」です。
相談者の相談内容の本質、相談者が何を望んでいるのか、又その上での本質的指南が出来ているか。
物事は白黒だけでは図りにくい事も多々あり得ます、時に黄色や赤色、青色などなど物事は二分出来ない事も十分考えられます。
運勢を観る、謀る、判断するには大変「微妙を読む」事が求められます、先ほどの例で言えば「赤色」でも「真っ赤なのか、薄い紅色なのか、桃色に近い赤色なのか」などです、物事はほぼ常に「微妙を含みます」その微妙を見出すには「本質」を得ているかどうか、つまり正しく運勢を観る事が出来ているかが問われます。
三つ目は単純に「言葉の表現力を日頃から養っているか」です。
一つ目二つ目を十分にこなしたとしたら後は「言葉選び」です、これには日頃の養いがものを言います、日頃から和歌や短歌、詩を勉強する、哲学を学ぶ、一文字一文字の意味を深く学ぶなどなどですが、其仙流では先人達から受け継いだ表現力の養い方があります、幾つか例を上げておきましょう。
・「リンゴ」を「赤色」「甘い」を封じてどう表現するか。
これは現場に於いて絶大な威力を発揮します、「リンゴ」をそのまま相談者に伝える事が出来ない様な時に相談者自身に気付いてもらう、察してもらう様な時に必要となります。
徐々に条件を増やしていき、「みかん」を「黄色」「時に酸っぱいが時に甘い」「丸い」と言う様により難しい条件を増やす事により表現力を養う事が出来ます。
言葉が多い事は大変良い事でもありますが、昨今は無駄に言葉が多く言葉の乱れが多く見受けられる現代です、当然見えない運勢を観ているのですから自然とある程度は言葉数に頼る事にもなりますが、常に言葉数に頼る事は下の下の指南者のやる事で、「本質を突いた指南、気付きを含んだ指南、核心を得た指南」が出来ると言葉数には頼る事はありません。
これらは、先ず初めに「運勢の微妙さを読む、観る」事が前提となり、その上での表現力となります、ここをはき違えると「上手く表現する事に終始して」しまい、指南者や占い師の本文を忘れる事に成りかねません。
上手く表現をしたとしても「本質を欠いた表現」は見る目を持った相談者は一発で見抜きますので、取り繕うとしても時すでに遅しとなります。
故に相談者が尋ねて来た時からすでに真剣勝負の姿勢が望まれるのです。
また一方で「相応しい表現」を気にし過ぎて「生温い表現」になると相談者は育つ者も育たない事にもなります、相談者に分かりやすい表現を心掛ける事は大変重要ですが、それ以上優しく言葉を選ぶと本質を欠く指南に通じる事にもなり得ますので、「優し過ぎず、難し過ぎず」な表現が求められます。
個の表現力も指南者や占い師たる者として生涯養っていくべき学びです。
第十八指南 指南者の命懸けの姿勢 其の二
指南者や占い師はその指南をする所に「命懸けの姿勢、真剣な姿勢」がかなり求められます、会社の経営の相談などが来た場合はその企業の命運を左右しかねない事を述べるのです、又その企業には従業員、スタッフがいます、又その家族もいます、多くの人の人生を左右しかねないのです、又重い病気の相談者が来たとしたらどうでしょう?手術や治療法の相談や死後の相談などを受けます、これも生半可な事はいえません、又政治家の政治の相談などは多くの人の生活や地域の大きな事柄に密接に関係します、これもかなりの覚悟を以って指南しなければいけません。
いつどの様な相談者が来るか分かりません、又この占い業とはこちら側から相談者を選ぶ事は出来ません、だれがいつどの様な相談を持ち掛けられても大丈夫な心得と構えは求められて当然です。
「その様な相談者は来た事が無い」「その様な重い相談者はお断りさせて頂いています」「そんな重苦しい相談は先ず来ないでしょう」・・・などなど多くの占い師がそう思っている事でしょう、ですがそれは「自らの腕が無い」か「真剣、命懸けの意味を理解出来ていない」か「占い業をやる資格が無い」のどれかでしょう。
先ず我々占い師や指南者の「命懸けの構え、真剣な姿勢」があってこそ初めてその様な相談者が来ます、ですが一方である日突然、真剣な命懸けの相談を持って来る相談者もいます、その様な時に底力の無い、実力の無い、見せかけの占いをしている様ではたかが知れています。
又「重い相談、真剣な相談」を珍しいと取る占い師や指南者ももう一つ「占い業とは」が分かっていないと言わざるを得ません。
占い業、指南業とは様々言えますが「人の人生を説く」お仕事です、人が人生を生きて行くのに軽く軽々に生きて行くとどうなるでしょうか?当然人生も軽くなり、運勢も薄弱となります。
又日々の同じ仕事でも一生懸命にひたすらに一生懸命に仕事をこなす人は単純な日々でも真剣に生きていると言えるでしょう、この様な人は運や道が開けやすくなります。
何気ない日々、何気ない日常、何気ないいつもの風景・・・ただ漠然と生きていると当然「何気ない」ものからは何も得られません、真剣に生きて、命懸けに生きて、真剣勝負で生きて行く・・・すると「何気ない」ものから不意に大小の発見や気付きがあったりします。
又、昨日知らない事を今日知り得た、昨日知らない人と今日知り合った・・・これも小さな奇跡の一つと言えます、この小さな奇跡を小さいからと捨て置く事は人生を真剣に生きているとは言い難いものです、小さな奇跡を大切にし日々の日常の中に小さな発見や気付きを丁寧に扱い、小さくとも真剣に生きる、命懸けで生きる、真剣勝負をする・・・その中で生まれた悩みや目標を指南者に相談に来る・・・つまり相談に「重いも軽いも無い」のです全ての相談は「真剣」なのです。
占いは遥か古から存在しています、古代中国では占い師が国の政治や戦での作戦を司っていたのです、日常の悩みから命懸けの相談まで全てを観ようとするからこその指南者なのです。
第十九指南 お題、鑑定料は「価値に見合う」を心掛けるべし
本来、占いとは「高級」なもので、様々な意味合いで高級です、その存在自体が貴重で高級なのです、故に腕の有る占い師は当然に高額な鑑定料金を頂いても其仙流は一向に構わないとしています。
一般に耳にする事で「あの占い師はお金儲けに走っている、占い師はお金儲けをしてはならない」などなど間々耳にしますが、これは大変大きな間違いです、占い業、指南業も当然商売ですのでお金儲けを目指さなければいけません、そうでないと生活が出来ません。
これを言うと「お金儲けに過ぎる、あまりに高い鑑定料金は占い師としての人格を疑う」・・・などと言われます、これは一般の相談者側に占いに対する理解不足が原因です。
そもそも占いとはかなりの「専門職」なのです、例えば「弁護士、司法書士、建築士、医者」まだ沢山専門職は存在しますが、どれを見ても分かる通りその利用料金が高い専門職ばかりですね。
占い業や指南業もこれと全く同じ事なのです、問題の肝心要は「腕があるか、実力があるか、その指南に価値があるか」という事です、価値の無い指南では例え千円や二千円でも高いと感じるでしょう、又価値と言っても「本質的な価値」があるかが高い水準で求められます。
昔から言います・・・「指南業の料金は相談者が料金を決めるものだ!」価値を感じて頂いたら、設定料金より高く支払ってくれるものです。
その料金に見合う「本物の実力」を養い「価値ある鑑定」を心掛ける様に・・・。
第二十指南 現場での指南の基本
日本には驚く程の人口の占い師がおり、恐らくは世界一占い師の人口がいると思われます、又そのアドバイスや指南の仕方もその人口に比例し様々な指南やアドバイスのスタイルが存在します・・・
「今の苦労の元凶は貴方の前世の行いに因るものです」
「貴方の不運の原因は貴方に取り憑いている生霊のせいです」
「貴方が成功したのは貴方のご先祖様がお守りしているからです」
「貴方の魂は七色に輝いています」「貴方からは負のオーラが出ています」
などなど、責任感も実力も無いデタラメで本質的でないアドバイスをしても何の意味も価値も無く、下手をすれば相談者に対して開運を示す事がその意義であるのが我々指南者なのに相談者を不幸に突き落とす事にもなり得ます。
昔から言います・・・「占いは人生を説く事、道を開く知恵を指南する事、成長を示す努め」である・・・現代の多くの占い師はこれが出来ておりません、それはやはり「本物」を知らないからという事に起因します。
現場で何を口にするのか、何をアドバイスするべきか、その基準や基本が出来ていない占い師が占い業をやっているのが現代の占い業界なのです。
この指南業や占い業に於いては一応の基本、基準が遥か古から存在します。
①=相談者の目線に合わせた指南が当然求められる。
②=①の上で更に本質的な事への指南を感激感動を以って述べる。
③=②の上で、相談者一人一人の「課題」を述べる、それも先ずは「半歩先の課題」その後に「一歩先
の課題」を述べ、場合に因り半歩先一歩先の指南をした後に「十歩先、二十歩先」の指南。
④=これも場合に因り、相談者が「気付かない、取りこぼす」様な事を指南する。
以上の三つ乃至(ないし)四つの段階、心得が基本となります、それぞれを説明しましょう。
「相談者の目線に合わせた指南」
これは相談者が悩みに対して何を求めているか、という事です。
当然本人の求めていない事を述べる時も有り得ます、例えば・・・
「片思いの人に告白して良い返事をもらえますか?」という相談に対して「恐らく相手の方も貴女に好意を抱いています、上手くいきますよ」と言ってほしいのでしょうが、場合によっては「残念ながら貴女に対してはお友達の関係でいたい様です、恋仲にはなれないでしょう」という事も十分あり得ます。
相談者の相談に対して「是か非」を述べるという違いは有るにしても「相談者の問い」が何かを知り、理解し、又その思いを感じ、その是非を述べるのです。
相談者の求めていない様な事や関係ない事を突然述べても相談者に響く指南は出来ません、先ずは相談者の求めている答えなり、方法なり、道筋なり、是非を述べる事が絶対的な基本となります。
「本質的な指南」
これは①の「相談者の目線に合わせた指南」をやった上での事ですが「核心に至る指南」を述べるという事です。
多くの相談者は「自分に都合の良い答えが欲しい」「自分の価値観、人生観、判断力以上の考えが出来ない」「物事の本質や道理が分かっていない」などという状態で相談に来ます。
例えば「生活が苦しいのですが、他にもアルバイなどを掛け持ちした方が良いでしょうか?」という相談があるとします、「今は苦しくとも今の正社員の仕事に一生懸命打ち込むべきです」と指南したとします、相談者は釈然としない心持でしたが、現実的に他に仕事を掛け持ちする事も難しくそれから二年が経ち、上司から栄転の辞令が出て金銭面での苦労は報われました。
この様な事は実は指南の現場に於いてよくある事です、この場合は相談者は「お金」に軸を置いて相談をしているのですが、「本質」は違っていたのです、この相談者がこの時何とかして仕事を掛け持ちしていたら、恐らくどこか仕事に懸命になれずその日その日の仕事を作業的にこなしていたでしょう、その様な姿勢で仕事をこなしても栄転の辞令は出なかったでしょう。
仕事を「一生懸命に打ち込む」という事は苦労も努力、忍耐もした事でしょう、その甲斐あって結果も徐々に出て来るでしょう、そして人間性も養われた事だと思います、だからこそ栄転の辞令が出たのです。
当所の様な「お金」に軸を置いて指南をし安直に安易に、そうですねほかにアルバイトを掛け持ちすべきですね、若しくは転職をすべきですね、などという指南をしていたらどうでしょうか?
未来は決まっていません、何も定まってもいません、未来は「人の自由意思の元に因る選択の連続」であると其仙流では定義しています。
でも「より本質的」という軸を以って指南をすべきでしょう。
「課題を述べる」
これも①の「相談者の目線に合わせた指南」と②の「本質的な指南」を行ってからの事ですが、相談者の相談に対して指南をした後に「より道を開く為に、より充実した人生を歩む為に、よりらしい人生を送る為に」今後に対しての課題を指南する事も高い水準で求められます。
又、今望んでいる事が達成が無理だとしてもその問題点を示し、克服する事に因り新たな道は開け、新たな可能性が生まれる事もあり得ます。
そこで一つの注意点が・・・「課題」と言っても「半歩先の課題」と「一歩先の課題」とがあります。
「半歩先の課題」とは文字通りの意味ですが「一歩より更に手前の課題」を意味します、又一歩を踏み出せない状態で心は一歩を踏み出さなければと理解しているのですが、体が一歩を踏み出せない状態を指します、又はこの逆で体は一歩を踏み出そうとしているが心が追い付いていない時もあります、この場合は本質的に一歩を踏み出せる指南をしなければいけません、それが「半歩先の課題」という事です。
「一歩先の課題」とはその一歩を踏み出す意思が既にある場合に行う指南と言え、「何かを目指す、何かを成そうとする、成功、成長する」などの課題という事です。
多くの相談者が「望みはすれども、努力を怠ります」つまり「課題」を無視、又は気付かない、又は分かっていてもやらないという状態に陥ります。
これをやっている限りは永遠に望みは叶う事はありません、それでも我々指南者や占い師は例え同じ事でも何度でも今目の前の半歩先、一歩先の課題を指南するのです。
ここに指南者や占い師としても一定の実力が問われます、「是非」を述べる事は「本物」と言う条件は当然付きますが、ある程度経験を積んでいくと次第に分かりますが「課題」は相談者個人の問題点を指南するのです、それこそ千差万別に課題は存在します、それを指南するという事は物事の本質と核心を正しく、又高い水準で得るだけの人格が求められます。
つまり指南業の実績だけの積み重ねではこの領域に達する事は非常に難しいのです、指南業の修行修養を重ねながらも人格を養う「深い哲学、高い見識、大きい徳」の養いが求められます。
又、時として半歩先、一歩先の課題を述べた後になるとは思いますが「十歩先、二十歩先」つまり数年先、数十年先の指南をする事もあり得ます、それが当たっているか的を得ているかは一度横に置くとして、数年先や数十年先の指南は多くの占い師達がしているとは思いますが、基本的には無意味となる事が多くなります、何故ならば数年先、数十年先の指南を相談者が覚えている事が無いからです、そしてもう一つは数年先、数十年先の出来事より今日や明日、数週間先、数か月先の「現実」が大切で大事だからです。
ですが時としてこの「十歩先、二十歩先」の指南は人の人生や運勢を大きく、又大回りに指南する時に必要となる事があります、例えば企業の数年先、十年先の展望を観る時や企業の業績の浮き沈みを数年先まで見通す時、今の現状のままで数年先に志は遂げているのか、などなどを見る時には十歩先、二十歩先の指南が求められます、
この、「十歩先、二十歩先」の指南も大変な「腕」が問われ、例え細部は違っていても大筋の流れは当てなくてはいけませんが、時として細部に渡り説得力のある指南が求められる時も当然あります。
足元の課題、目の前の課題を乗り越えながらの数年先、十年先の課題を述べる事が結局は人を「成長させ、道を開き、充実した人生を歩む」事になるのです。
「気付かないもの、取りこぼすものを掬い取る指南」
相談者は往々にして悩みの答えを聞くと気が済む、納得するで終わるという傾向がありますが、その一方で相談者が「気付かない事や、取りこぼす大事な事」も多々あります、これは「本質的な指南」と重なる部分もあり又指南者にとって非常に重要な所でもあります。
例えばここに彼氏と結婚をすべきかどうかを悩んでいる女性がいるとします、結果的に結婚をすべきと指南したとして、でもこのままでは将来離婚の可能性や夫婦仲が悪い状態、家族間の温度が低く充実した家族の在り方を成せない・・・この様に判断したらその問題点(課題)は今あるはずですから、結婚をすべきと指南しても一喜一憂せず、「より今後も幸せになる様」に指南しなければいけません、「彼氏を立てましょう、彼氏を後ろから支えましょう」「わきまえを持ちましょう、分別を養いましょう」などと今後の憂いを無くす為に必要な指南をしなければいけません。
もう一つ例を出しましょう、ここに介護のお仕事をしている方がいるとします相談内容は資格を取得しより上を目指すべきかどうかという事です・・・鑑定結果としては資格の取得は大変有効に感じたので資格取得を勧めましたが、もう一つ気になる事を感じたので能々観てみると、その方は「資格、経験、規則、マニュアル」などと言う事にばかり気を持たれている様でした、そこで・・・。
資格も今後の為には是非取得する様に頑張ってほしい所ですが、もう一つ肝心な事を忘れがちではその資格も意味がありません、それは「資格、経験、マニュアル、規則」なども確かに大切ですが、介護者はご老人です、人生の最晩年を過ごされている方達です、貴方は「資格、経験、規則、マニュアル」が頭の中で優先的に意識している様ですが、「人」を扱っているお仕事と言う意識が薄れている様です、お年寄りの身のお世話をさせて頂いている、という「心」のこもった仕事も意識すべきでしょう、その上での「資格、経験、規則、マニュアル」ならば大変、活かされるでしょうが、お年寄りのお世話をさせて頂いているという「心」の意識が低い様では先々困る事になります、「心」を以って接する事をしっかりと腹に据えて下さい。
この様に「相談者が求めている答えの更に上を行く様な指南」「答え以外の大切な事柄を言う指南」「より核心に迫る指南」これらが現場に於いて実は求められる事でもあります。
相談者の求めている答えを指南する事は当然必要ですが、相談者の求めている答えが全てでは無く、求めている答えが「本質的でない、核心に至らない、道理を欠いている」という事も往々にあります、この様な時こそ人の在るべき姿、あるべき道、あるべき道理、道義を説く事も我々指南者の大切な意義でもあり、同時に相談者に「本質的な気付き」を指南する事も忘れてはいけません。
「まとめ」
これら四つの心得が指南をする基本となります、これらを見ても分かる通りに有りもしない世界観、オカルト、霊感、神秘性、心霊などが介在する余地などはありません、占いは現実的な問題を現実的に解決する術(すべ)なのですから、当然指南も現実的なお話しに終始しなくてはいけません。
今の貴方の不運の原因は貴方の前世の行いに因るものですとか言われても現実的解決策が無い以上本質的な意味や価値はどこにもありません。
相談者の目線に合わせた事、つまり相談者の求めている答えを述べながらも本質的な事を指南する、そして本質的な開運や成長を成す為にも半歩先、一歩先の指南を述べる、そして相談者の取りこぼすもの、気付かないものを掬い取れる「腕」を磨いていく事が指南業、占い業の基本にして根本です。
巷に溢れている神秘主義の占いや、根拠も無いオカルト霊感の類、有りもしない世界観を謳うスピリチュアリストなどの行っているものは「占い」「指南」とは遠くかけ離れた行為であり、人を在るべき道へと説く事、本質的生き方を説くお仕事、開運を提供する事が我々、指南者や占い師の意義であるのに、全くの過ちを犯してはその存在意義も皆無となるでしょう。
又、本質的でない指南やアドバイスをしているとそれは相談者を間違った道、間違った人生、間違った生き方へと誘っている事にもなります。
これはとても「深く、重い罪と」言えます、現代占い師の多くがこの「罪」を侵している事に根本的に気が付いていません、それは冒頭にも述べました通り、「本物」を知らないからという事に起因していますが一方で多くの占い師が「自分の占法は本物だ!正しいはずだ!」という「願望や思い込み」の上で占法を選び修得しているからとも言えます。
現代に於いて大変根本的問題は、先ず「本物の占い師や指南者には簡単には成れない」と言う前提があまりにもハードルが低く成っておりド素人がいとも容易く人生を説く専門職の占い師に成れるというこの現実が致命的に問題でもあります、指南者や占い師というものは、運勢学の学びから始まり、人格を養う哲学を学び、様々な経験を成し徐々に「本物」に成るのです、それなのに現代占い師の多くは個人の未熟で間違った思惑や思い込み、価値観、人生観などを以ってして占い師を目指し名乗り、占いと言う行為をしています、これがどれほどの過ちを犯しているかの自覚も無いままに「我こそは本物だ」と皆さん思われいます。
如何に自分が様々な自己流の主義主張を謳っても本物の指南の基本は先にも述べました通り「相談者の目線に合わせた指南、本質的な指南、半歩先、一歩先の課題、本人も気付かない様な、見落とす様な事をも掬い取れる指南」です、皆さんもこれらから何かしら「本質的な指南の在り方」を感ずる所があるのではないでしょうか?
人はどこまでも「成長しなければ」いけません、「学ばなければ」いけません、「前に進み、前進しなければ」いけません、その支えとなる事こそが我々指南者や占い師の意義であり、それ故に指南の基本は当然心得ておかなければいけません。
第二十一指南 「芸」に遊ぶ
指南者や占い師はある意味「聖職者」です、人の人生を説き、成長や開運を示すのですから確かに「聖職者」の側面はあります。
ですがその一方で「聖職者」は「俗や世間」と交わる事がいけないと思われがちな面があります、「宗教者という意味の聖職者」例えば「神社の宮司、お寺の住職さん」などならば度が過ぎる「俗世」との交わりははばかられるでしょうが、我々「指南者や占い師」は逆に一定は「俗世」の事を知らなければいけません、あまりに「俗世」と遠く距離を取ると「俗世」が理解できず、一般の相談者に現実的な指南が出来なくなります。
又、孔子も「芸」事はたしなみ、楽しむ心構えがあった様で「音楽や踊り」「弓術、馬術」などを勧めています。
「指南者や占い師」だからと言っても一人の人間です、何も特別な事はありません、タバコも吸う酒も飲む、異性と愛し合う、博打も打つ・・・別に何の問題もありません、逆に本人が好きならば気休めに進んでするべきでもあります。
間々聞くのは「占い師なのにタバコを吸うなんて、信じられない!」「人を救う仕事の方が博打をするなんて・・・」「占い師が酒場に行くなんてあり得ない!」・・・この様な事を言う人は「指南者や占い師」を正しく理解していません、「過度に神聖視」しているだけの事です。
一方、肝心な事は「その仕事に遊びを持ち込む」事があってはいけません、仕事は仕事、遊びは遊びとメリハリとケジメを付けてからの「遊び」は全く以って行うべきです。
第二十二指南 俗世と距離を置く
二十一義では「俗世」と交わりを説いたにも関わらず、ここではその「俗世」との距離感を説きます。
これは、何も矛盾はしていません、どういう事かと申せば、世間を知る為、又楽しみの為にも「俗世と交わる」が「俗世に交わり過ぎれば」それは「俗物」となり下がるから一定の距離感は必要という意味です。
「俗物」とは一般では「名誉や利益ばかりを追い求める人」という意味ですが、更に一歩踏み込んで言うならば「名誉や利益」以外の価値を理解出来ない人の事を言います、更に踏み込んで言うならば「物事の本質が分からない」という事にも通じます、これは大なり小なり様々皆さん身近に存在する事です。
例えば「程度の低い者との交わりはしない」という心得があると「俗世」と交わりながらも周囲には一定以上の人間性を養った者が集まる、又「危うきに近寄らず」という心得があると「俗世」と交わるが揉め事に巻き込まれる事が無い、「本質が分かる」者はくだらない事で気を病まない。
「俗」と交わり過ぎると前述の逆の通りになります、皆さん心当たりがあるのではないでしょうか。
自分は違う、自分は正しい距離感で接している、本当にそうでしょうか?
「俗」は「俗」でしかありません、日本国民のほとんどが「俗」です、ですが「俗」に過ぎない様に「自らを戒め、反省し、深く思考する」そうする事によって多くの人はバランスを調整し、又少しずつでも学び、成長するのです。
「俗」は過ぎれば「低俗」となるべし。
第二十三指南 指南者の在るべき姿勢
二十一義では「俗世との交わり」を説き二十二義ではその「俗世との距離を置く」という事を説きましたが更にここでは一歩進んで、では指南者の社会や世間、俗世との正しい接し方は如何なるものなのか・・・説明して行きましょう。
ここに「ブロック塀」があります、その細い塀の上を我々指南者は歩いているのです、「右に倒れれば俗世にまみれ」「左に倒れれば世捨て人の人生」となる・・・その際どい境目を我々指南者は歩いて行くのです。
俗世を見詰めながらも、心は「空」の心でその俗世を見守るかの精神が求められるのです。
近過ぎると逆に全体が見えなくなります、遠過ぎると核心や本質が観えなくなります、故に指南者の世間との本質的な距離は際どく細い塀の上を歩くかの如くとなるのです。
初心者がいきなりこの様な境地には当然なれませんが「哲学を深く学び」「気付きの繰り返しを行い」「高い見識を磨く」この積み重ねを行う事により、「俗世」と交わりながらも心は「空」に近づいて行きます。
「空」の心を養った者は、俗世の煩(わずら)わしさに追われながらも心は縛られません、苦労の中に於いても楽しむ事が出来ます、そして・・・自然に素直に生きて行く事が出来ます。
「空」の心を会得した者、「空」の心に近づいた者は指南者としての姿勢が本質と言えます、逆にいつまで経っても「空」の心を会得出来ない、分からない者は「致命的に素直さが欠けている」者と言えます。
人は極端に生きるは帰って簡単ですが、微妙で絶妙な塩梅で生きる事は大変、人格を求められる事です。
第二十四指南 お題は下げても「価値」は下げてはいけない
ここ最近の占い業界を見渡して見ると、鑑定料金が一件、数万円~数十万円という高い料金と一件数百円~千円と安い料金とある様です。
勿論、高い料金でも安い料金でもどちらでも構いませんし料金設定は各占い師の自由でもありますが、安い料金の問題点は相談者が鑑定料金が「安いから来る」という側面があります。
「安いから」多少当たっていなくても、的外れでも構わない
「安いから」大した事では無いが何か問題があったら次も行きやすい
「安いから」親切な占い師と勘違いをする
初心者の時は安い料金でも致し方ありませんが「安い料金」でしか出来ないという占い師も沢山います、この様な占い師は当然に論外です、相談者や相談者の年齢層を考えて敢えて「安い料金」に設定する事は構いませんが、「腕」が無いから「安い料金」で鑑定をして相談者が大勢来るから「凄い、腕がある」という事は最低の占い師のやる事です。
この様に「安い料金」は様々な問題点を含んでおり、安い料金は時として「占いの価値そのものをも下げてしまう」事に通じる可能性があります。
「腕」は確かに有りながらも鑑定料金は安い事はそれこそ占い師の自由ですが「占いの価値」を下げておいて「腕が有る」という占い師のなんと多い事か・・・。
何事もそうですが「価値に見合うお題」を心掛けるべきで、それこそが適正価格というものです。
第二十五指南 土壇場で役に立つのか・・・
我々、指南者や占い師は日々様々な相談者を相手にします、恋愛相談、仕事の相談、人間関係の相談、健康上の相談・・・まさに千差万別に悩みは存在します。
よくある恋愛や仕事、人間関係などの相談は普通に指南業をやっていると経験が重ねられて来ます、経験が積み重ねられて来ると、相談者の心に刺さる言葉、響く言葉、染み渡る言葉などが余裕で出て来ます。
一方、「命懸けの相談、人生を懸けた真剣な相談、究極の相談」など日々早々あるものでは無い相談内容に対応出来て初めて「実力者」とも言えます、巷によくある普通の相談でも真剣な姿勢で観なければいけませんが、「よくある普通の相談」と「命懸けの相談」とを単純に同列にして比べる事は出来ません。
普通の相談も、命懸けの相談も当然大切に真剣に対応せねばいけませんが、学生さんやOLさんの恋愛の相談と末期の癌の治療法の相談とを同列に扱う事は出来ません。
どの様な相談者が来ても対応するからこその「底力」であり「実力」であります、しかし最近の占い師はこの「土壇場」「緊急事態」「尋常ならざる問題」などを観る事が出来ません、つまり腹の底からの実力が無いのです、これでは「本物」とは言えず、所詮は「占い師ごっこ」をしているだけに過ぎません。
「この占い師ならきっと何とかしてくれる」「どうにか突破口の知恵を授けてくれる」「この占い師の指南なら素直に聞ける」・・・指南者や占い師は日常の相談でも当然実力を発揮し対応しなければいけませんが、緊急時、土壇場での実力も発揮しなければもう一つ本物の指南者や占い師とは言えません。
土壇場で底力を出せるには「正しい占法」「本質的な成長」「正則的な姿勢」これらを習得して初めて出来ます。
第二十六指南 生涯の仕事に出来るか・・・
我々指南者や占い師というお仕事は普通の仕事ではありません、「普通の生活基盤を成す様な仕事でも無く、当然腕が無ければ収入も雀の涙しかありません、又下積み時代は貧乏も経験します」「人に紹介される時も場合により色眼鏡で見られます」・・・この様に「指南者」や「占い師」という存在は一定社会や一般の人から距離感を以って接さられる事はあります。
どうしてこの様な扱いとなるのか・・・それは占い師や指南者が「怪しい、詐欺師、嘘を言う、誤魔化しの仕事、人を騙す、お金儲け」などなどのイメージが付き纏うからです。
ではどうしたらこの様な悪いイメージを払拭する事が出来るのか?・・・それはたった一つしかありません、「本物に成る」しか有り得ません、「本質的に運勢を観る、本質的な指南をする、本質的な姿勢、本質的な学び、本質的な成長」この五つを以って、後はその積み重ねの先に「本物と成る」のです。
そもそも、現代占い師の99%の人は晩年まで今の「占い師」の仕事をしているのでしょうか?
恐らく違う仕事をしているのではないでしょうか、周囲を見渡してみたら昔は「占い師」をしていたなんて人はいるものです。
「生涯を通して指南業」に従事する指南者や占い師は他人からどう色眼鏡で見られようが「胸に指南者としての誇りを抱く者」です、又多くの方から「尊敬や感謝の意」を以って接して頂けます、つまり「徳」を積んでいるのです、その様に「徳」を積めるから生涯を通して指南業が出来るのです。
占い師や指南者になりたい、目指したい、と思う事は一向に構いませんが、生涯に通用する「指南者、占い師」に成るには、「生涯を掛けて指南業に従事する」という意気込み、決意が先ずは問われるでしょう。
第二十七指南 清貧の徳
「清貧の徳」とは、「貧しくともその心は清い、貧しくともその貧しさの理由に胸に誇りを持つ」という様な意味合いです、現代では中々この様な養いを行う者は稀有でしょう。
我々、指南者や占い師は初心者の時や駆け出しの時、下積み時代には当然「腕」も無く収入も微々たるもので生活をするだけの収入を「指南業」だけで得る事は中々出来ません。
それでも相談者が相談に尋ねて来たら自分は貧乏だという事は微塵も感じ取らせず胸を張り、謙虚に真摯に相談者と向き合う、そして「腕」や「鑑定結果」に納得して頂いたらお代を頂く・・・。
今日は一組来た、今日は二組来た、今日は零組、今日も零組・・・こんな事は当然当たり前に起こります、だからと言って安易に、安直にお金儲けに走る様では、「所詮な占い師」「たかがの占い師」です。
例え生活が苦しくとも指南業とは「聖職」です、運勢を観て人の人生を説き、開運へと至る成長を指南する「高潔で高尚、高級な仕事」です、「腕の無い」時でも指南業に従事しているという「高潔な思い」を胸に「貧乏に甘んじる」のです、「本物」に至る姿勢が正しければ次第に必ず相談者は付いて来ます。
又、この「貧乏」という段階を経ない指南者は人生の機微を悟っているとは言い難い者なので、人生を説くに限界が生じやすくもなります、この「貧乏」な段階を経る事により人生の浮き沈み、甘い辛い、裏表などを学んで行くのです、そして次第にお客さんが付いて来て収入が上がり落ち着いて来たら「驕る事が出来ない」のです、「貧乏」は人の心を屈折させるか人の心を磨くかの両方の作用を持っています、そういう意味でも「貧乏」は「占い師や指南者」に成れるかの一つの修行なのです。
其仙流ではこれを「清貧修行」と言っています。
第二十八指南 本質的にお役に立つとは・・・
其仙流では代々「指南業」とは「本質的にお役に立つ」かどうかである、そこから道を逸れたらそれは「指南業」では無い唯の「お遊び」か「害を成すもの」と言って強く戒めています。
では「本質的にお役に立つ占い」とは一体何でしょうか?ここを多くの占い師や一般の人がはき違えているものだから今や占い業界は「混沌」としています。
「本質的にお役に立つ占い」とは・・・「現実的問題を現実的に解決する」です、例えその時に解決できずとも、対応策を指南出来なければいけません、現実的問題は様々あります「お金の問題、生活苦、仕事、人間関係」様々あります、収入が低く生活が苦しい・・・この様な相談に「スピリチュアルや気学、姓名判断、タロット」などがお役に立つでしょうか?
病気で苦しんいる人が治療法の相談に来たとして自分の占法がその相談者のお役に立つかどうか真っ向から見詰め、自分に問うてみて下さい、その選択によってはその相談者は「死ぬ」可能性もあるのです。
又経営の相談で尋ねに来た相談者がいたとして、今現在経営難とまではいかなくとも今度行われる企業間契約を取る事が出来れば難を超えられる、でも契約を取る事が出来なければ・・・この様な相談に対応できますか?自分のアドバイス一つでその企業だけでなくそこで働く人やその家族全員が路頭に迷う事になるのです。
「指南業」は常に「責任」を背負わなければいけません、夢や幻の世界観、夢見る夢子ちゃん、神秘に始まり神秘に終わる様な「占い師や指南者」では到底務まるお仕事ではありません、「本質的に役に立って」こその「指南者」であるのです。
第二十九指南 占いに於ける価値とは
指南者や占い師は「運勢を観た上で個人に合わせた、開運、成功する道、幸せになる道、成長」を指南する事にその存在意義があります、つまり「開運」という価値を提供出来るか・・・という事に非常に重きを問われます。
巷にある様な「解説式占い、分析型占い、当てもの式、神秘占い、癒し系占い、ネット占い」これらに「本質的な開運」を提供出来る事が可能でしょうか?
又、「価値」と言っても、その「価値」を相談者が「価値がある」と感じてくれるかは別の問題です、ここは非常に高度に難しい問題でもあります。
相談者は望んでいる答えを求めて来ます、でも我々指南者は常に相談者の望む答えを指南出来るかは相談者の「運勢」に因るのです。
例えばある女性が・・・片思いの人がいるんですけど、その人に思いを告げて応えてくれますか?という相談に「恐らくは無理です、彼は貴方とは良いお友達でいたいようです」と指南したとします、そして更に課題をそこで述べました、「貴方は、時に棘が出る所があります、我を張らずに素直を養わないとこの先良い異性が現れても大変苦労しますよ」と指南したとします、この指南の最大の価値所は課題の「素直の養い」を指南した所です。
ですがよくあるのは、否定的な答えを述べたら、肯定的な事を述べてくれる指南者や占い師を支持するという相談者がいます、この様に相談者が常に「価値」を感じてくれるかは相談者の「人間性、人生観、人格、見識」などに大変左右されます。
それでも我々指南者は安易な指南をしてはいけません、人生がまだ未熟な相談者に対しても出来るだけ分かりやすく指南をし、尚且つお金儲けは最低限必要としてもお金儲けに過ぎてしまい本質を欠く様な指南をする様ではその指南者は先が知れています。
「価値」はそれを「価値」と認識しなくとも「価値」なのです、「本質を欠く」指南に一体どれだけの価値があるというのでしょう。
又、一方で「価値」とは違うというか「別の価値」もあります、それは「楽しませる」という事、未だ人生が未熟な者や、人間性、人格の養いが未熟な者は指南者や占い師に対しての「相談の仕方」「尋ね方」「活用法」が分からないという相談者も沢山います、悩みはあるけれども漠然と聞いてしまう、悩みも左程無いけれども好奇心で尋ねに来た、相談事はあるけれどもどう言葉にすれば良いのか・・・この様な相談者には「楽しませるという価値」「悩みをまとめる、整理するというお手伝い」「本人も気付いていない本人の課題」などを提供する事が良いでしょう。
・病気の人に「治療法を指南」して「安心という価値」を提供する。
・会社の経営で悩んでいる経営者に「経営の改良点を指南」して「会社が健全化になるという価値」を
提供する。
・子供が生まれない夫婦に「子供がいなくとも幸せに生きる人生を指南するという価値」を提供する。
相談者は「悩んで」いるのです、その悩みを解決してこそ、その人生を支えてこそ、その悩みに対しての対応を示してこその「価値ある指南者」と言えるのではないでしょうか。
第三十指南 下積みを積むという意識
昔は指南者に成るには当然、下積み時代を経るという事が当たり前でしたが、一方で現代は外したくないという意識が働き過ぎてか、当たる当らないに関係ない「癒し系占い、分析型占い、解説式占い、スピリチュアルに代表される神秘占い」などが蔓延(はびこ)っています。
又「当てる」と言っても「いつ何が起こる」という様な「現象を当てる」行為が占いだと思い違いをしている者も多々いる様子・・・占いとは「現象に至る流れを当てる」行為なのです、未来は決まってもいないし、何も定まってもいません、「個人が何を望み、何を求め言動する」かです、つまり「個人の自由意思の元に因る選択の連続」が未来となって行くのです、未来が予め決まっているとしたら人は思考する意味も、成長する意味も、進歩する意味も全く無い事になります、それは何故か・・・「未来は決まっている」からという事になります。
遥か古もそうですが現代に於いても「正当」で「正しい」「運勢学」を学ぶ事自体非常に難しく、高度に理解を求められます、ましてや「目に見えぬ運勢を観るお仕事」ですから当然に「難しく、困難を極め」ます。
そうなると一人前になるのにどうしても「下積み」という段階を経る事となります、昔は指南者の下積みは「街易」とか「立ち見(たちけん)」と言い数年から数十年下積みを重ね初めて一人前の指南者に成って「宅占」を持てるという様なものでした。
「占いの館」「ブース」「ネット」などで占いをされている占い師が大変多いですが、その様な環境に真剣な相談をしに来る相談者が来るものなのでしょうか、甚だ疑問と疑念が生じます、その様な環境でいくら経験を重ねても下積みとは言えず、逆に「占いの館、ブース、ネット」の様な環境でしか占えない腕の無い占い師に成るでしょう。
ですが、現代は道路交通法によって道路の商業目的の使用は基本的に許可は下りず、正当な下積みも積めない状況であるのが事実でもあります。
ここは其仙流もかなり憂いを禁じ得ない所もあり、将来は占い業界も協会や組合などを組織し署名活動などをして「街易文化」を認めて頂く運動は必要とも思っています。
この様に正当な下積みを積みづらい時代にもなっていますが何より大切な事は「正当な下積み」からしか「正当な経験」は得られず、「下積みを積む」という意識は如何ともし難く必要という意識を持ちたいものである。
誰しもいきなり「プロ、玄人」に成れるものではありません、相当な苦労や努力、そして下積みが必要なのです。
第三十一指南 占いは「聖職」だが、それでも「商売」である
占いはある意味「聖職」と言えます、「人の生き方を説くお仕事、開運を提供するお仕事」ですから、当然「聖職者」の側面は存在します。
中によくあるのは「電話での鑑定や相談にお代を支払わない」相談者や、「メールでの相談にはお代を払わない」など「お代を払わない」事に遭遇する事があります、又開運商品を毎月購入されているお客様が電話などで相談を稀にして来ると毎月の開運商品のお代を支払っているのだから電話での相談くらい無料で良いだろうと思い込んでか鑑定料金を払わないお客様もいます、開運商品は開運商品で鑑定は鑑定ですから当然、別料金を支払うのが当たり前なのですが、相談者側の一方的で自分勝手な理屈でこちらが振り回される事があります。
又、支払いにしても毎回毎回、毎月毎月支払うのが当たり前なのに、二ヵ月ごとのお支払い、半年ごとの支払いなど、支払うにしても自分都合の支払い方を平気で行うお客様もいます。
この様な時にこちらから、別途お代を頂きますが・・・とか、別料金となりますが・・・とか、追加料金が発生します・・・などと言うと「お金儲けに走っている」とか「嫌々支払う」とか「その程度で料金が発生するのですか?」などと根本的にはき違えているお客様がいます。
コンビニでも駄菓子屋でも、スーパーやデパートでも一品一品に支払い義務があります、占いだけどんぶり勘定は何故起こるのでしょうか、やはりこれは「占いの価値が下がっている証拠」でしょう、それ程に「腕の立たない」占い師が占い師ごっこをしているから起こり得るのです、又もう一つの原因は我々指南者や占い師は「目に見えないもの」を取り扱っているから起こり得る問題とも言えます。
「目に見えない運勢」「目に見えない人生」「目に見えない人の思い」「目に見えない状況の流れ」などを観ますから起こり得る問題でもあります。
それでも少し考えたら料金がどこで発生しているか分かる問題でもあるとは思いますが・・・相談者には「少しでもお代を払いたくない」「少しでも安く」「あわよくば・・・」などという気持ちがありますから致し方ない部分でもあります。
でも人格が一定高い相談者や、良心や道徳の養いがある相談者、本物や価値が分かる相談者などは正規の料金の支払い方をします、又こちらも出来るだけ料金のメニューの説明に努力をする、都度説明する、などの工夫は求められます。
「聖職」でも「商売」です堂々とお金儲けをすべきですが、あくまで「正々堂々」とお金儲けをするという意味で悪徳商法を堂々とする様な占い師は社会的に根絶すべき存在です。
「聖職者」が「商売心」を出し過ぎていると勘違いをして「高い料金」設定をすると「お金儲けに走っている」と思われがちですが「本来、占いとは高潔、高尚で高級なもの」なのです、当然お代は高くなるものです、「目に見えないものを観る専門職」なのですから、当然高い料金を頂くべきです、一方若い相談者や経済的に色々と問題を抱えている相談者も当然にいる事でしょうから、そこの辺りは配慮が高い水準で求められます。
この占い業や指南業というのは「聖職」についているという誇りと「商売」をしているという商売人の心構えは車の両輪の様なもので片方に偏るべからずです。
第三十二指南 占いは「商売」だが、それでも「聖職」である
第三一義では占いは聖職であるが「占いでも商売」だから故に堂々とお金儲けをすべきと説きました、ここではその「聖職」にこだわってみたいと思います。
そもそも「占い業」に訪れる相談者は何かしらの「悩み」を抱えて来るのが当然です、何でもない軽い悩みから、重い悩み、人生を懸けた様な悩みと様々あります、又相談者の中にも裕福な人もいれば、普通の人や貧しい人もいます。
高い料金を設定したら貧しい人は相談に来れません、安い料金だと「価値を下げる危険性」も有り得ます。
又、高い料金を設定していると、安い料金の相談者に身が入らない事もあります、これは下積みが疎かな占い師に多く見られる傾向ですが、指南者や占い師は一様にこの様な事があってはいけないと肝に銘じるべきです。
「鑑定料が高い=腕が有る」=「根本的に間違いです」高い料金を頂けるという事はその指南に一定の説得力がある納得する所があるから払って頂けるとは言え、テレビや雑誌などによく出る、取り上げられる様な占い師、俗に言うタレント占い師などはテレビや雑誌、ネットなどで取り上げられるから自然と信用、信頼が漠然と出て来ます、故に「腕」が無くとも高い料金を頂ける可能性は多分にあります。
決して「高い鑑定料金=腕が有る」とは成らないという事は肝に銘じるべきです、ですが「腕」が有るなら当然に高い料金を頂いても構いませんが一方でその高い料金を支払う事が出来ない相談者にはどうするかは一定の構えが求められると其仙流では考えます。
高い料金を支払って頂ける場合は次の様なケースと思われます・・・
・「その鑑定に相談者が納得してもらった、感動してもらった、つまり実力がある」
・「相談者が裕福な場合、この場合は実力が有る無いに関わらない可能性が有ります」
・「その相談内容が占い師側、指南者側にとってかなり複雑、困難を極めるなどの内容の時、致し方な
く料金を高額に設定する場合」
この様なケースの時には高い料金を設定する事もあり得るでしょうが、これ以外の相談者はどうしたら良いのでしょうか?
例えば一般的な相談で鑑定料金が3万円もするとしたらどうでしょう・・・普通のサラリーマンやOL、主婦、などでは出せない料金でしょう、少なくとも何かあったら気軽に相談に行ける様な金額ではありません。
この様な場合、其仙流は高い料金も設定しますが、安い料金も受け皿として設定します。
しかし、ここで深く考えておかなければいけない事があります、安い料金を求めて来る相談者の中には「高い価値を求めておいて支払う料金は価値以下の安い料金を求めて来る」という相談者です。
これは非常に問題で、そもそも我々指南者や占い師は専門職です、しかも目に見えない運勢を観るお仕事です、それを例えば三千円や五千円という安い料金で観ているわけですから、そこには然るべき指南者や占い師に対する姿勢、誠意、わきまえなどが当然求められるはずですが、安い料金を求めて来る相談者の中には電話やメールでの鑑定には料金を払わない、鑑定とは別の商品、例えば開運商品などの購入に際して更に値引きを求めて来たりする相談者も沢山います。
この様なわきまえ無き相談者にはこちらも一定の姿勢で臨まねば歯止めが掛かりません、出来ないものは出来ない、出来かねる事は出来かねる姿勢、などが時に必要となります。
そもそもわきまえ無き相談者や、高い価値を求めておいて支払う料金は安く求めて来る様な相談者などは次の様な問題点が致命的にあります。
・「生きる姿勢が根本的に未熟」
・「過ぎる我流、過ぎる自己主張、傲慢」
・「周囲に不快感や迷惑を掛けている事に気付いていない」
・「物事を自分都合に解釈し過ぎる」・「生きる力が弱い若しくは貧弱、生きる炎が小さい若しくは無
い」
つまり「徳からかけ離れた生き方」「素直さの欠如」「人格の低さ」これらの問題点を抱えている人が、わきまえ無き相談や価値を求めておいて価値以下の料金しか払わないなどの行為をします、そもそもこの様な致命的問題点を抱えているのですから当然「運が無く、運に恵まれず、運が弱い」のです、その様な相談者は高額な鑑定料金のコースや開運商品を用いても先ずはその「生き方」から見直さなくてはいけないので、安い鑑定料金で対応するしかないのです、そして少しずつ本質的に成長し礼儀に則った対応が出来る様になってから、更なる発展を求める相談と共に料金も少しずつ上がって来るのが健全な指南者と相談者の在り方であり関係性でしょう。
運の無い、運に恵まれない、非常に不幸な状況、不条理な状況、理不尽な環境などにいる相談者は先ずは安い鑑定料金のコースから始めて頂いて、少しずつ成長と共に環境や状況に変化がでるまで忍耐するしか基本は有りません、これを昔は「苦労の段階」と言いました。
この「苦労の段階」の相談者は安い料金で対応するしかないのです、それ以上を求められても出来る事と出来ない事は当然あります、それは相談者が未熟だからです。
又一方で、「どうしようもなく不幸」「まさに誰の助けも援助も無い」「孤立無援」「運にも見放され、孤独」などというある種の究極の状況の相談者もおり、僅か三千円や五千円の安い鑑定料金すら支払う事が出来ない、辛い現実に追い詰められた相談者も間々現れます。
この様な相談者には我々指南者や占い師の出来る範囲での対応をするべき時もあります、必要以上に代金を出し渋る相談者はこの行為自体、既に徳が無く故に運に恵まれないのです、この様な相談者にはこちらもある程度の然るべき対応を以って事に当たるしかありませんが、一方で同じ運に恵まれない人でも「もうどうしようも無い所まで来てしまった人」「孤立無援」「孤独」「一切の助けも援助も無い」などの人にはこちらも商売人としてでなく人としての良心が問われる時もあり、時に格安や場合により無料で対応出来る範囲で対応をしてあげる心構えが必要な時もあります。
同じ運に恵まれない人でも、一方は「まだ最低限の運がある」「本人が思っているほどの悪い環境でない」「最悪の状況という程でもない」などの人はまだやるべき事、成長する事、突破できる事があるはずです、それを時を掛けながら成長しながら、行っていくのです、もう一方は「万策尽きた」「完全に孤独」「一切の援助も助けも無い」人は場合によりまさに「人生のどん詰まり」「人生の最後」にいる人です、この様な人に対してはやれる範囲での対応をしてこその指南者です。
何でもかんでも「お金儲け」にする様な指南者や低所得者に対する対応や、人生の最後にいる人に対しての受け皿が無い様な指南者には成るべからずです。
それこそ我々指南者や占い師は「聖職者」なのですから・・・。
第三十三指南 「救う」とは一体何を救っているのか!
我々指南者や占い師は時に「救う」という行為をします、又其仙流でも占いとは人様の運勢を救う事であると先人達からの言葉を代々受け継いでいます、又昨今ではスピリチュアルやヒーリング、その他の占法でも「救う」という言葉が躍っている様ですが、本質的に「救っている」のでしょうか?又「救う」とは本質的にどの様な事なのでしょうか?
これは現代の指南者や占い師が一定しっかりと考えておかなければいけない事です、ここをはき違えると大きく道を曲げる事にも通じます。
では、具体的に「救う」という行為はどの様なものがあるのでしょうか・・・。
・「人生を救う」=心療内科、仕事など、場合により信仰
・「命を救う」=お医者様、消防隊員、警察など
・「生活を救う」=警察、社会制度、仕事など・「権利を救う」=弁護士、司法書士など
これで全てではありませんが、これが現実的に「救う」という行為でしょう、ここにもう一つ付け足すとすれば冒頭でも述べました「人の運勢を救う」という事が上げられるでしょう、でもここで注意すべきは「運勢」とはあくまで現実的なものを言っているのであって、非現実的な「神秘論、心霊学、迷信」的なものはここには含みません、人は日々生きていると苦労や不幸に見舞われたりして、どの様に乗り越えて行くか、より道を開く為、より人生を充実する為などの悩みが生じます、これらは全て「運勢と直結」する事です、故に言い方を変えれば「運勢を救う」とは「人の人生や命、生活、権利など全てを救う」事と全く同じ事なのです。
ですが、一方で昨今特に多いのが「魂を救う」とか「前世の貴方を救う」とか「ご先祖を救う」などという「救う」という言葉を耳にします。
魂や前世が有る無いに関わらず、人生は「これからどうする」「これからどう生きる」に全てが掛かっています。
相談者:運が悪いんです、何か生霊でも憑いているんでしょうか?
相談者:いつも運が悪いんです、前世に何か問題でもあるんでしょうか?
相談者:パワハラの酷い上司がいるんですが、いつも近くにいるだけでこちらの心がイライラするんで
すが、きっと上司の魂が穢れているからだと思うんですが・・・。
などなど現実と神秘の世界、非現実の世界、オカルト、霊感をはき違えている相談者が沢山います、又占い師側も・・・。
占い師:あなたの前世に現世の不幸の原因がある様です、その原因を浄化しましょう。
占い師:貴方の不運の原因は生霊が憑いているからです、その生霊を祓って貴方を救ってあげましょ
う。
占い師:貴方の人生に苦労が多いのは先祖が成仏してないからです・・・。
などこの様な言葉を聞いた事があるのではないでしょうか、相談者側も「生霊がいる、運が悪いのが前世の原因、魂」などというものが存在するという前提で話をしています、占い師側も問題発言、根本的な間違いを多分に含んだアドバイスをこれまた多くの占い師が日々当たり前に行っていますが、ここで一番言いたいのは「救う」という事です、先の例の占い師の在りもしないアドバイスを耳にする事により一般の方は「占い=救い」というイメージを持ちます、その結果先の例の様な相談者の様に現実と非現実が入り混じった相談をする事になるのです。運が悪いのは生霊や悪霊のせいでもなく本人の生き方の問題であって、現世で苦労の人生でもそれが前世とは何の因果関係もありません、魂が穢れるからパワハラをするわけではありません。
この「救い」を行う存在というイメージが「ヒーラーやスピリチュアル」が存在出来る理由の一つでしょう、いつから日本人はこの様な稚拙な判断力しかない民族に成り下がったのでしょうか?平和ボケの象徴の一つと言えるでしょう。
「救う、救い」とはあくまで現実の世界での「救い」であって「魂」を救うなどというものは実は「幻想、妄想」に過ぎず、これに過ぎれば「心の弱い人、人格に欠けのある人、周囲に不快感を与える、周囲との距離がある、本質を得られない人」となります。
実際「占いで人を救う」とは非常に高度に難しく余程の腕と、占いに対する正しい姿勢が無いと出来るものではありません。
現代の占い業界で言う所の「救う」は実際「救う」になっておらず、「救いが欲しい」と思っている生易しい生き方の人や神秘や霊感オカルトを本気で信じている現実的に生きて行けない人などが生み出した妄想がほとんどです。
安易に「救う」などという事を口にせず、又安易に「救っている」と思い込まず、又安易に「救い」を求めずが肝要では無いでしょうか?
第三十四指南 相談者を一歩でも前に進める為の指南で在るべき
指南とはどこまで行っても「現実的」でないと本質的意味がありません、ありもしない世界観を謳ったり、神秘に走ったり、オカルト霊感に走ったりする様なアドバイスや指南は何の役にも立たないし、もしこれらを良きアドバイスだと受け取る様な相談者だとしたら、その人は非常に人格や人間性に根本的な欠けが生じている人か未熟な人かです、人は流行りや多数に偏っている情報を本物と受け取る傾向がありますが、「本物を見抜く目」は自らが養う必要は最低限求められます。
又我々指南者も相談者を少しでもちょっとでも、一歩でも前進させる指南に心血を注ぐ姿勢で運勢を判じ弁じるべきです。
「相談者を本質的に前進させる」・・・言葉で書けばたったのこれだけの文字数ですがとてつもなく大変で困難を極める事です、ここに集中できない様な指南者は「腕も実力も無い」指南者と言えます。
其仙流の言葉に「乾坤一滴」という言葉があります、最後の最後まで「絞り尽くす」様な指南を言いますがまさに絞り出す様な姿勢で無ければ「相談者を前進させる」事は出来はしません。
物分かりの良い、大変利発な人物ならさしてこちらも苦労はしませんが、皆が皆そんな理解力のある人ではない上に皆さんそれぞれの悩みを抱えています・・・又、一定我々がしっかりと構えておかなくてはいけないのは「思い違いをしている相談者」と「あまりに未熟な人格性の相談者」を相手にする時は普通の話しが通じない時があります、この様な時こそ「乾坤一滴」の姿勢で指南をしなくてはいけません。
一歩を前進させるのに数か月、数年場合によっては数十年も掛かる事がありますがその一歩を踏み出した時は指南者として当然嬉しく思い、又その一歩を進んだ事を素直に評価をすべきです。
第三十五指南 それでも・・・ 指南をする
如何ともし難く未熟な相談者や傲慢な相談者、理解力の無い相談者・・・日々様々な相談者を相手にしますが、この様な相談者が来るとこちらの心が折れそうになる程に気持ちは疲弊し、心は重たくなり、凄い心労が残ります、誰しも頭を悩ませる事です。
その様な気持ちからか「高を括ったり、自らの心で限界を作ったり、上から目線になったり」などとなる事もあります。
でも「相談者にとって指南の現場は学びの場でもある」と遥か古から言われている通り、相談者を成長させる事も我々指南者の努めです、又「相談者にとって指南の現場は学びの場でもある」と同時に「指南の現場は指南者の学びの場でもある」のです。
難しい相談者を成長させる為の指南を我々指南者が同時に現場で学ぶのです、其仙流の心得の一つに「相談者と指南者は共に成長し共に繁栄する」という言葉があります、まさしく共に成長をするのです。
確かにどうしようも無い相談者もいます、自らの犯した事を他人のせいにする、周囲のせいにする・・・この様な果てに行きつく所迄行ってしまい、もはや救い様の無い状況になってしまった人に対してでも少しでも出来る事を指南する姿勢は絶対的に必要となります。
我々指南者は常にその腹の底に「それでも指南する」という思いを据えて現場に臨まねばいけないのです。
第三十六指南 指南者は日常に於いても指南者としての意識は必要
指南者は仕事以外の時間・・・友人と遊んでいる時間、家族といる時間、恋人と食事をしている時間、一人でいる時間、つまりプライベートの時でも「指南業に就いている指南者としての意識」は常に心得として持っておかなくてはいけません。
「心や気持ちの中」に「指南者としての意識」が零、若しくは限りなく零となると様々な問題点や弊害が生じる事になります。
例えば指南者は常日頃から「学びを一般人より意識」しなければいけません、そうでないと日常のふとした気付きのチャンスを逃してしまいます、又「物事の本質を得る」事も一般人より意識を高く持っておかなければ出来るものではありません、様々な事に興味を持ち真摯に真面目にその根拠や本質を得る様に考察する・・・これらは全て常日頃から指南者としての立場を意識していると自然と身に付く事です。
プライベートの自分と仕事の自分を完全にパッチリと分けると必ず「欠け」が生じます、我々指南者の宅占事務所には非日常の悩みを持って来る相談者もいれば、極々ありきたりな悩みを相談に来る相談者もいます、故に常日頃から「指南者としての意識を持つ」事が出来なければ、「隙」が生じて、思わぬ結果や納得しかねる指南となる可能性があります。
仕事は仕事、プライベートはプライベート・・・でも「指南者としての意識は腹の底にしっかりと持つ」事が必要です。
第三十七指南 相談者との距離感
一口に相談者と言っても様々な人間がいます、真面目で礼儀正しい人、馴れ馴れしく厚かましい人、失礼な人、逆にこちらが学ばせてもらう人、元気をくれる人、こちらが同情を禁じ得ない人・・・まさに相談者は十人十色、千人万色です。
その相談者から「信頼」を得る事はこの指南業に於いては最も重要視しなければいけない事です、つまり「腕や実力」を示す事です。
ですが「信頼」を得る事も重要ですが、同時に「相談者との距離感」は一定保つ事が望まれます、馴れ馴れしい相談者は次第に礼儀を欠いたり料金の支払いもずさんになり支払うべき料金を払わない様になったりします、又感謝の意を示す意味や同情でサービスを色々として上げたらそのサービスを当たり前の様に思う相談者もいます。
又心が弱い相談者や、生き方が分からない相談者、運勢や人生が貧弱、脆弱な相談者に必要以上な「同情や優しさ」などを示すと「唯々優しさを求められて来る」様になったり、「自分都合の優しさだけ」を求められる様になったりします。
どれも相談者、指南者共にお互いにとって宜しくない関係、状況になります。
同情するにしても、優しさを掛けるにしても自分の中で一種の一線を設けておく事は大切になります、相談者の中には指南者との距離感が分からない人が間々いるものですが、この様な人は恐らく高い確率で日常的に致命的な問題を抱えていると思われる人なので、注意が必要となります。
下手をすればこちらが被害を蒙ったり、不快感を受ける事になります、お互い健全な関係性を維持する為にもお互いの距離は適切を心掛ける事が肝要となります。
第三十八指南 同じ人が同じ相談内容でも違う表現が出来ねばいけない
同じ相談者がいつまでも同じ悩みで止まっている相談者というものは一定いるものです、数日、数か月したらもしくは状況が変化すれば少しずつでも前に進む者が普通の人ですが、いつまでも同じ所に止まっている相談者は中々成長しません。
ここでかなり重要な心得となって来るのが・・・同じ相談内容ですから、当然指南者側の指南やアドバイスも同じ内容になります・・・ですが「同じ指南」と「同じ表現」は違います。
中身は同じ事を言っているとしてもその表現を変える事に因って相談者が更に理解出来たり、深く納得したりします。
これは相談者を理解させようとする指南者側の真剣な姿勢や構えがあるから出来る事です、単純に言葉を表現する指南では相談者の心に響く表現とは言えません、それは言葉を飾り立てているだけに過ぎず「真に迫る表現、核心を突いた表現、本質を伝える表現」にはなっていません。
相談者には「理解力不足、生きる力不足」に陥っている人が大勢います、その様な相談者に「生温い優しい言葉、貧弱な生きる言葉」を掛けた所で根本的解決にはなりません。
生きる炎を燃やせる様な言葉や表現が必要なのです、でも同じ表現をしても理解出来ない相談者や一歩を踏み出せない相談者は沢山います、それならば少しでも理解出来る様な、一歩を踏み出せる様な指南の内容は同じでも表現を変えてみる事はとても指南の現場に於いては大事な事となります。
故に其仙流は表現の鍛錬に重きを置き、その鍛錬内容に「自然と触れる、短歌や詩をたしなむ」などがあるのです。
第三十九指南 胸に「矜持」を持つ
「矜持」とは一般的には「自信と誇り」という意味ですが其仙流では更に一歩踏み込んで「正しい自信と誇り」としています。
誇りや自信を持つ事は成長を成していく過程に於いて大変大切な事ですが、一方で重要な事は「正しい自信、誇り」を持つ事が出来なければいけません。
「正しいという思い込み」「正しいと思っていたが間違った前提」「間違った経験の積み重ねで得た自信」などなどを犯してしまいやすい業界です、ここはかなりの注意が必要となります、つまり「正しい自信や誇り」というものは一人では養う事は出来ないのです、「師や先生」という存在がいて初めて積む事が出来るのです、自己流では到底無理な事です。
この指南業というものは、経験を積み重ねていくと自然と自信が付いて来ます、その自信が正しい自信なのかという事は高い水準で判断しなければいけません、又同時に指南業をしているという「誇り」を持つ事が次第に重要となって来ます。
指南者や占い師という仕事・・・到底普通の仕事ではありません、その普通で無い仕事をする個人的な「意義」や占い業、指南業そのものの「意義」は当然に山の頂の如く必要な事です、その「意義」を「正しい自信」と共に積み重ねていくと、今度は自然と「誇り」がその心やその身に「生まれます」そうするといつの間にやら「風格」というものを纏う事が出来ます。
この風格を纏う域に達して来ると「達人、名人」の域へと達して来た証でもあります、「岩や山の様な威厳ある風格」「静かに佇んでいる様で風の様な風格」「そっと咲く一輪の花の様な風格」・・・風格はその人の生きて来た足跡そのものとも言えます、どの様な風格を纏っているかでその人の生きる姿勢、人柄、人格、そしてどの様な指南者か見て取れます。
いつまでも風格を纏わない様な指南者はその腕に限界が生じ始めます、その風格を纏う為にも「胸に矜持」を持つ意識を持たねばいけません。
初めは矜持をいきなり持つ事は出来ませんから当然「意識」するしかありませんが、正しい経験、正しい学びを繰り返していくと、いつしか自然と無意識の内に矜持を持つ事が出来ます。
第四十指南 生き方や運には「量」とそして・・・「質」という概念がある
皆さん自分の人生や運勢が大きく開運したい、大きく稼ぎたい、大金が欲しい、大きく道が開いてほしい・・・と多くの方が願うはずです、これはある意味で言えば「量」と言えるでしょう、「大きいか小さいか」「多いか少ないか」これらは結局の所「量」の問題です。
一方で人生、運勢には「量」も大切な事ですが、「質」も大変重要となります、質は低いが量は多い、大きいはもう一つ本物の人生、運勢とは言い難い側面があります。
例えば、お金を稼ぐ・・・これはある意味で「量」の問題です、その稼いだお金で何をするのか・・・これはある意味で「質」と言えます。
もう一つ例を上げるなら、病弱な人がいるとして、健康な人になりたい、丈夫な体に恵まれたいと思う人がいるとします、しかし健康な体、丈夫な体になって何をするかも大変高い水準で問われるのではないでしょうか、健康になったからと言って暴飲暴食をしていれば元の木阿弥となり、健康な体を大切にしながら日々を一生懸命に生きて行き周囲に貢献する生き方は質が高いと言えるでしょう。
多くの人は「量」を求めます、ですが「質」を高める事を疎かにするといずれはその運や人生も次第に落ちて行きます、この「質」を上げるには、弛まない学びが必要で、どこまでも「素直」の養い、それと哲学の会得、見識の錬磨が求められます。
ここで注意点は「弛まない学び」が必要となる事です、「弛まない」とは「不断の行い」という事です、途切れなく連綿と学び続ける・・・この積み重ねの先に「人生や運勢の質が上がる」のです。
第四十一指南 目の前の相談者が見本である
相学で言えば人相、手相の本、九星で言えばそれぞれの星、姓名学で言えば数字・・・様々な占法が存在していますが、人相家は基本を人相の本に置きます、九星の場合はそれぞれの九星の性質に基本を置きます、姓名学では名前の数字に基本を置きます・・・各占法の真偽は一度横に置くとして、皆さん基本はそれぞれの学んだり修得したりしたものを基本に置き基準とします。
これは当然としても、更に玄妙で本質的な指南をするならば「目の前にいる相談者が手本であり、基本でなければいけません」
相学で言えばいつまでも「本から得る知識」のみで相談者を判断する、相学の本に重きを置く事を最優先する、九星で言えばあくまでどこまで行っても九星にこだわり九星に始まり九星に終わる、姓名学で言えば数字に始まり数字に終わる、タロットで言えばカードに始まりカードに終わる・・・これは初心者の時は致し方ありませんが、経験を積んでプロの段階に到達する者がこの様な事ではいつまで経っても本質的に役に立つ占い師には成れません。
「目の前にいる相談者が基本であり、お手本であり、重きを置くべき」ものです、つまり学んで得た占法をある意味で「超える」姿勢が在るか無いかで、この真のプロの領域へと達する事が出来るか出来ないかを問われます。
基本はあくまで基本であり、昔は師匠や流派の教えに則りながらもいつしかその学んだ事を超えて「自分のものにする」という領域へ達して初めて一人前であり、又師匠や達人、名人と呼ばれる先人達の教え方はその様に奥深い教え方、伝え方でもありました、故に占いは決して自己流や独学ではプロ、玄人の領域には成れないのです。
第四十二指南 「外す」を糧に・・・
どの様な占い師や指南者でも「外す」事は絶対的に避けたいもので、初心者の占い師でも経験豊かな占い師でも外すのは嫌なものです。
でも「真の指南者や占い師を目指すならば外す事からも大きな経験を得る」事になります、この世の99,8%の占法は紛い物ですから、当然外すというより「本質でない」という事なので論外となりますが、一部の相学や麻衣神相法、無相などの占法は「本物」なので初心の時は特に「外す」経験から多くを学ぶ事が出来ます。
一部の相学や麻衣神相法、無相などは占法としての原理、原則や理論が正しいので、問題は自分の解釈や観ようとする姿勢などに問題や課題があるはずです、外したからと言って自信を喪失したり、占法自体を自分で否定、疑問視する必要はありません。
この「外す」事を嫌っている様ではいつまでも生温い指南しか出来なくなり、下手をすれば安易に「癒しや神秘」などに走る事に通じます。
駆け出しの頃は当然、「外す」ので、この「外す」という経験を避けていてはいけません、相談者に嫌口を言われたり、叱咤されたりするでしょうが、謙虚に構えその嫌口に甘んじるのです。
駆け出しの頃は「外す」事が一人前の指南者になれる為の一つの努めです、逆に経験豊富な指南者になっても生温い指南しか出来なかったら、それは経験をただ積んだだけの役に立たない占い師です、外しながらも徐々に腕を磨き、より本質的に腕を磨いていくのです、その為には「外す」事から多くを学ぶ様に。
第四十三指南 「当たる」や「外す」を超える
占い師や指南者によっては「当たる」にこだわる人も沢山います、これは一定致し方ない事でもあります、何故ならば「占いの本質」を多くの占い師が知らないからです。
本来本質的に言えば「現象を言い当て続ける事はいずれは必ず外します」そもそも占いとは「現象を言い当てる事では無い」からです、占いとは「個人の運勢を観て、その吉凶を判断した上で、方向性を指南する事、開運の道を示す事」です、つまりどの様な生き方をすれば良いのかを説きアドバイスする事が占いの本質です。
又、「未来は何も決まっていないし定まってもいない」のです、「未来」とは「本人の意思による選択の連続」であると其仙流では定義しています。
そもそも「何も決まっていない未来を言い当てる事は不可能」なのです、これを多くの占い師が知らない、理解していないので、「当たる」にこだわる占い師や相談者が存在しているのです。
言い方を変えれば「現象を当てる」行為と「運勢を観る」行為は性質上全く違うものなのです。
当て様とするから外す事を恐れるわけですが、「現象に至る流れを当てる事」は当然必要で、それが出来なければ正しい指南というものは出来ません。
でも一方で・・・また重要な事があります、それは相談者を「成長させる、少しでも人生を本質的に歩ませる、本質的に生きるアドバイス」などが高い水準で求められます、開運や幸せ、道を開くには本人の努力や成長が必須となります、つまり当てるや外すを指南者や相談者も超えて「成長、努力、知恵、忍耐」などにもっと注目し集中し意識をするべきです。
又、相談者が成長するのに数年、十数年は当然掛かります、場合により数十年、一生涯掛かります、その様な長期に渡り相談者に指南する姿勢と心構えがどこまでも求められます。
当たる当らないに一喜一憂する占い師と相談者・・・一時の運勢を得て何が本質と言うのでしょう、当たる当らないを超えてこその占いであり、指南者であるのではないでしょうか。
様々な場で其仙流が言っているのは「人生や開運というものは成長や努力、知恵、忍耐を大いに含むものです」では「当たったから幸せになるのでしょうか?当たったから開運するのでしょうか?成長出来るのでしょうか?」この事を深く考えるべきでしょう。
第四十四指南 「程度の低い者」とは交わらない
これは指南者だから気を付けるべきという事でも無く世間一般的に肝に据えておかなくてはいけない事ですが、特に指南者は「程度の低い者との距離感」は意識しておかなくてはいけません。
ですがこの場合の意味は大きく分けたら二通りあります、一つは「程度の低い相談者」もう一つは「程度の低い同業者」です、それぞれを説明して行きましょう。
「程度の低い相談者」
程度の低い相談者と言っても様々ありますが、次に上げる事が出来ます「料金以上の価値を求めておいて支払いは価値以下の料金を求めて来る」「自分都合に解釈する生きる受け取る」「いつまでもどこまでも理解力が無い、本質を得ない、真の価値を理解しない」などなどの特徴があります。
この様な相談者との過剰な接点や近過ぎる距離感や交わりは場合によりこちらが様々な被害を被る事になります。
「理解力が無い、本質を得ない」様な相談者の場合は「道が開けない、問題解決に至らない、人生や運勢に恵まれない」事になります、つまり相談者本人が基本的に前進しないだけとなりやすいのでさほど問題はありません。
次は「自分都合に解釈する、生きる、受け取る」人は周囲に不快感や迷惑を掛ける事になり、場合により指南者に対して「お前のせいだ!貴方の占いは当たらなかった、貴方の占いのせいで状況が更に悪くなった」などこちら側に責任を負わせようとする相談者もいます。
次はある意味最も多いパターンで一番困るのが「料金以上の価値を求めておいて支払いは価値以下の料金を求めて来る」これは非常に困ったもので、自分が困った時はすがって来ておいて問題解決したら支払いを出し渋ったり、値切ろうとする相談者や電話やメールでの鑑定に料金を払わないなどなど、この様な相談者はどこかに致命的に「甘え」の有る人と言えます、人生も自分都合で他者に甘え不快感を与えている可能性が大きいと思われます。
これらが「必要以上に交わりをしない」相談者の全てではありませんが、その代表例を上げてみました、こちらも客商売である以上、過剰に相談者を選ぶ事は出来ない側面もあり、一定は付き合って行くしかありませんが、こちらの気持ちの中や心の中に於いてどこかで一線を引く心構えは当然必須となります。
「程度の低い同業者」
「程度の低い相談者」も大変煩わしい、紛らわしい事になりやすいものですが、「程度の低い同業者」も非常に頭を悩ませる問題を孕(はら)んでいます。
「程度の低い同業」の特徴は「オカルト霊感に走る」「神秘論に傾倒し過ぎる(スピリチュアル、ヒーリングなど)」「占いを当てものや癒しなどと思い込んでいる」など千差万別で存在しており様々言えますが、結局の所「人間性の低さ、人格の低さ」の一言に尽きます。
占いとは「人生を説く、開運の道を指南する、成長の道を指南する、より良い方向性を示す」が本質です故に「占い師や指南者自身の人格が低くては務まるお仕事ではありません」この軸がブレる、未熟、無いとそれは「占い師ごっこ」をしているに過ぎません。
この様な「程度の低い同業者」は先ず困るのが多くの方が「自転車操業」をしているので「流行りや市民権を得ているかどうか」で占法を選ぶ傾向が非常に強い特徴があります、例えば少し前は霊視占いを語っていたのにスピリチュアルが流行ったり市民権を得ると途端にスピリチュアリストを名乗ったりとその占法の真偽を確かめもせずに飛び付く傾向があります。
又、多くの人は最初に学んだ先生や師匠、流派、占法などを基準に置きますので、初めに中途半端、偽物、紛い物を学んでしまうと後々の判断基準もそれに倣う事になり、増々紛い物を広める二次災害を巻き起こす結果となります、既に現代の占い業界がそう言えます。
又、程度の低い同業者はこちらの情報や技術、秘伝、主張などを「盗む」「後出しジャンケン」などをする傾向もあります、初めはこちらと違う主張をしていたはずなのに、こちら側が市民権を得だしたり正当性が出て来ると、途端に「初めからそう思っていました」とか「実はずっと以前から分かっていました」など平気で他者の主張を盗み、後出しジャンケンをするつまり「嘘を平気で吐く」様な占い師も非常に沢山います。
この様な混沌としている状況が占い業界の現実で、この様な程度の低い同業者とは極力関わらない事が前提となります、必要以上に関わってしまうと、様々な問題、被害が出て来ます。
「まとめ」
古今東西「程度の低い者とは交わらない」と言って戒めている言葉を指南者なら尚更持つべきです、一方「本物の指南者若しくはそれに準じる指南者」は殆ど存在しません、99%以上の占い師や指南者は偽物、紛い物ですので、非常に厳しい事ですが殆どの指南者はやはり「程度の低い同業者」となってしまいます。
昔から言います「本物は孤独」であると、其仙流でも先人達が「其仙流は本物であるが故に孤高で孤独である」と後の我々に口伝として残してくれています。
そもそも「本物の占法」は僅かしか存在しておらず、世の中に溢れる程存在するわけも無いのです、「本物だという思い込み、本物であってほしいという願望、自分流の占法を自分都合の思い込みで作ってしまう見識の浅い占い師」又、「開運、生きるとは、仕事とは」などの本質を理解出来ない程度の低い相談者などとは一定の距離感を以って接しないとこちら側にも多大で深刻な被害が出る可能性があります。
一方で「程度の低い相談者」を切り捨てる、見捨てる、見下す様な事があってはいけません、その様な相談者をも成長させ、少しでも本質的に豊かな人生を歩める様な指南をする事も指南者として当然の勤めでもあります。
この様に指南業は非常に高度に難しい仕事なのです「憧れ、願望」などで務まる仕事では無いというわきまえを多くの占い師が持つべきでしょう。
第四十五指南 過ぎた自分流の思想を振りかざさない!
指南業や占い業に就いていると大なり小なりと自分なりの考えやら思想というものを持ちます、これは何も占い業や指南業に限った事ではありません、どの様な仕事に就いていても、どの様な生き方をしていてもあり得る事です。
ですが、問題は「本質や道理」を欠いた思想や考え方、価値観というものは支持するのは人の自由であるとしても「わきまえ」は求められます、まして指南業や占い業というものは人の人生を説くお仕事です、心を無に高い水準で出来なければ己の価値観や思想に沿った判断や指南、アドバイスをしがちになります。
本質や道理を得た様な価値観や思想なら何も問題は無いのですが、本質や道理から遠く逸脱した様な、又はあまりに人為的過ぎる考え方はそれに過ぎ、振りかざす様な事をしてはそれはもう「害」以外の何物でもありません。
例えば「スピリチュアルや過ぎた神秘論」「オカルト霊感思想」「心霊主義」「前世論」などに例を取るとこの業界は、検証や確証を得る事が非常に難しい側面があるので、主張して市民権を得たらその論なり説が一般に広がりを見せます、そして一度市民権を得て広がるとそれが後に間違っていたと分かっても正す事が非常に深刻なほど難しい事になります。
九星気学などもその最たる例でしょう、九星気学の間違いを示す根拠は至る所にあるのに依然九星気学は市民権を得ています。
何が正しく何が間違いなのかが非常に難しい業界であり、運勢学とはそもそもその様に高度に理解し難いものなのです、古書にこの様に載っています「之妄りに教えるべからず」と・・・。
第四十六指南 前提あれど前提無し
「前提」とは様々な常識を言います、例えば「不倫」の場合などは「不倫に発展を求めてはいけない」というものがあります、不倫を行う事は自由ですが、その不倫に発展を求め現在所帯を持っている妻なり夫と別れて不倫相手と結婚するとか、それを相手に願う事は実は上手くいくと思い込んでいるのでしょうが、実に面白くない夫婦生活となります、何故でしょうか?
それは「不倫関係そのものに」に魅力がある恋愛関係だったからです、不倫相手や自分に奥さんや夫がいるのに外に別の異性の恋愛のお相手がいる・・・その緊張感や背徳感、家庭以外での安らぎの場が有る、これ自体が不倫関係の魅力なのです、その魅力の中で生まれた恋愛感情なのに・・・不倫を解消してより発展すると思っているのでしょうが上手くはいかないものです。
又、違う例えを出せば・・・「人相」は「相学、観相学」と言ってその歴史は四千年以上と言われています、「鼻の形、目の形、輪郭、手のしわ、顔色」などを運勢に合わせて実に様々な古書が存在しています、目一つ取っても鼻一つ取っても一冊の本が出来る程にその見方は数百、数千通り有るとも言われています。
例えば「雌雄眼(しゆうがん)」と言う目の形があります、これは本来男性は自分から見て左の眼は大きく、右の眼は左と比べ僅かに小さく、女性は自分から見て右の眼が大きく左目は僅かに小さいものです、これが通常の目の大きさなのですが、これが逆に男性で左が小さく右の眼が大きい人や女性で右の眼が小さく左が大きい人は「結婚が難しい、晩婚」であると言われ「凶眼」であると言われています、其仙流でも「雌雄眼」が大切に継承されておりますが、これをこのままに受け取ってはいません。
「雌雄眼」でも「仕事に生涯打ち込む人」は例え晩婚であろうが未婚であろうが人生を有意義に豊かに生きて行く事が出来ます、又「大きな志を遂げる様な人」にも「雌雄眼」である場合はあるので、一概に「雌雄眼」が「凶眼」とは言えません。
五岳がどうだからとか、手のしわのここがどうかとか、耳の形がこうだからと「前提」を設け過ぎては本質的に観えるものも観えなくなります。
この様に人は「前提」でものを言う傾向が非常に強いものですが我々「指南者」は「前提」を極力なくさなくてはいけません、先の「不倫」の問題も一応基本として「不倫に発展を求めてはいけません」が稀に「発展を求めた方がお互いがより幸せになった」と言うケースは少ないですが存在します。
その「僅かなケース、レアケース」を見落とさない為にも「前提はあれども前提無し」の精神や構えで観なくてはいけません。
其仙流の先人達は「物事に前提は有れどもその前提に惑わされて真実を見落とす様では、所詮な指南者である、故に心を無とし、全てを受け止める透明感のある構えを持ち、見えざるを観るのである」と後の我々に口伝を残しています。
その一つの形が「無相であり麻衣神相法」なのです、「心を無、気持ちを自然に構え、自分を横に置く」そして目の前の相談者の相談に命懸けで臨むのです。
第四十七指南 占いのある側面の本質
占いの本質は「相談者に開運を提供する事、その為の努力や知恵、忍耐、学び、成長を示す事」これが占いの意義ですが、見方を変えれば「ヒントに始まりヒントに終わる、手掛かりに始まり手掛かりに終わる」という事も占いの違った側面の本質とも言えます。
相談者は「答え」を求めに尋ねに来ます、ですが「未来は未定」です何も決まっていませんから「行動を起こしてからある程度分かる」事も十分に有り得るのです。
例えば定員が「10名」の職場に15名の人がアルバイト募集の広告を見て面接の希望に来たとします、たまたま偶然その15名全員が同じ占い師にどうすればそのアルバイトの面接に受かるでしょうか、と尋ねたとしたらどうでしょうか・・・・。
一人一人にしっかりと指南、アドバイスをしたとしても「定員は10名」に決まっているのです、必ず15名の内5名は面接で不合格になるのです。
この様な事は大なり小なり現実世界では当然起こります、15名の誰が面接で落ちるのかは面接をやってみないと分からない事も十分有り得るのです。
故に15名一人一人にしっかりとした指南をしなければいけません、企業側がどの様な人材を求めているのか、その希望に15名の誰が合っているのだろうか又15名の相談者のそれぞれの良さなども観定めた上で指南をしなければいけません、全員が受かる事が出来ないけれども面接で十分に力を出し切る様なアドバイスをすべきです。
人は「安心」を求めに来ますが人生は「先に安心」が存在するのではありません、指南者の指南、ヒント、手掛かりを元に探りながら自らが「安心、成功」などを作って行くものなのです、その為の指南なのです。
「安心」という「答え」を求めに来ても場合により「ヒントに始まりヒントに終わる」事も現場では当然起こるのです。
第四十八指南 お客さんと友達には成れない
相談者と指南者・・・この両者の関係は「お客様と従業員」「悩みの相談を持ち掛けてきた側とそれを受ける側」「悩みを相談に来た者とその悩みを説く者」と言えます。
この関係性の間には「目では見えない境界線」が有るのです、よくあるのは相談者が何回が相談に来る内に親しくなるのは構いませんがまるで「友達」の様に接して来る相談者が間々います。
又、指南者側から相談者に「友達」の様に接してしまう事がありますが、どの道それはいずれお互いの関係を壊しかねない問題となります、ましてや「馴れ馴れしくなる、礼儀を軽んじる」様な事は論外です。
お客さんと指南者は常に「相談者と指南者」の関係性です、この関係性で無くなったら様々な障害や問題が生まれて来ます、初めは何もなくても次第にゆっくりとお互いの関係性が壊れ始めます。
「お客さんはお客さん」だからこそ、こちらも占う事が出来るのです「親しくなる」のは問題ではありませんが「友達関係」は利点が有る様に思いますが弊害の方が大きいものです。
「友達」と「相談者」の違いは単純に言葉が「お客さんか友達か」という事では無く、色々な問題が出て来ます、先ず初めに上げられるのは「友達関係になると緊張感が無くなり指南が緩む」これは皆さんが思っている以上に問題です、他にも「頂くべきお代を頂けなくなる」「こちら側も適当な指南になりやすくなる」・・・などなど他にも様々あります。
仕事あくまで仕事、プライベートはプライベートであって「友達」はプライベートで作るべきなのです。
第四十九指南 尋ね方に大きなヒントが潜む
占いを実際に行う時は「今から何を観るのか」という構えが無いと観れるものではありません、其仙流ではこれを「観念」と言います。
恋愛ならば恋愛の何を観るのか、仕事なら仕事の何を観るのか、よくあるのは相談者が「仕事の事なんですが・・・」で質問が終わる事がよくあります、仕事の何を一体観てほしいのか、仕事上の人間関係なのか、業績の事か、今の職場が自分に合っているかどうかなのか、「明確な質問」が無いのに漠然と質問されても場合によりこちらも漠然と答えざるを得ない事があります、そうなったら相談者は「この占い師は腕が無い、偽者扱い」などと決め付けます、これは相談者が「占い師は漠然と相談しても具体的に答えてくれる」と言う間違った前提を思い込みで持っているから起こり得るのです。
この様な間違った前提は我々指南者が相談者を正しい占いの質問の仕方というものを教え育てなければいけないのです。
別の例で言えば・・・「仕事で手取り30万円になって、役職も課長クラスになれますか」という相談者が来たとします、ある程度何をどう頑張れば良いのか指南する事は出来ますが、本質的にはもう一つ上質な質問の仕方になっていません「仕事で手取り30万円を得られる様になり、課長クラスの役職に就く為にはどの様な仕事ぶりをすれば良いのか、どの様な仕事に対する姿勢が求められるのか」という質問がより上質な問い方となります。
このケースの問題点は何でしょうか、最初の質問の仕方「仕事で手取り30万円になって、課長になりたい」・・・これは「質問している様で実は本人の願望を述べているに過ぎない」のです、後者の「仕事で手取り30万円を得られる様になり、課長クラスの役職に就く為にはどの様な仕事をすれば良いのか」という質問は「出世の為の努力の方法」を尋ねているのです、よくよく見極めてみるとこの両者の質問の仕方は似ている様で実は全く性質が違う事が分かると思います。
昔からよく言われるのは「良い質問には良いお答えが既に潜んでいる」と言います、「的を得た質問、本質を捉えた質問」というものはキラリと光る質問です、その様な問いは既に良い答え、手掛かりが潜んでいるのです。
自分が何を質問しようとしているのか、問題の本質は何か、自分は何を知りたいのか・・・もう一度自分に問い掛けて「言葉にする、尋ねてみる」と良いのではないのでしょうか?
それでも「上手く、言葉に出来ない」「心の整理が付かない」など当然あると思います、この様な時は最低でも問題に対しての「真剣さ」があれば後は何とか言葉にしてくれたら、何とかこちらも観る事が出来るものです。
相談者に「尋ね方を指導」する事も指南者や占い師の仕事の一つです。
第五十指南 「開運」の本質とは・・・
我々占い師や指南者は相談者に「現実の問題を現実的に解決する事又はその手掛かりを提供する事」「道を開く為の成長を提供する事」「生き方、人生を説く事」つまり「開運を示す事」が我々の意義です。
でもこの「開運」を多くの皆様がどこか思い違いをしている節が多々見受けられます、それは・・・「開運」は「苦労、不幸が起きない事」と思い違いをしている所です。
確かに誰しも「不幸や苦労」は嫌なものですが、「成功する為の苦労や不幸」は当然あります、その「成功する為の苦労」も嫌と言う人は「開運」を根本的に思い違いをしているので、こちらが諭してあげる事が重要となります。
苦労の無い、努力や成長の無い「開運」は所詮は本質的では無く脆く儚いものと言えるでしょう。
嫌な事があったから、苦労があったから、望み通りの結果を得られなかったから=「開運ではない」という安易な考え方は物事を見る視野が狭く、物事をもう一つ深く理解しておらず、自ら人生を味気無く面白みの無いものへとしている事に気付くべきです。
人生は「苦労や思い通りにならない」からこそ「頑張り、努力をして、成長する」のではないでしょうか、「開運=奇跡」「開運=苦労を回避」「開運=思い通りの結果」などと思っている人にこそ我々指南者は本質的な「開運」を示す事が意義となるのではないでしょうか?
「開運」も「人生」も安易に楽な道はありません、同じ苦労をするなら少しでも自分の糧にする様な心構えが欲しいものです。
第五十一指南 「占い師」と「指南者」の違い
現代では「指南者」より「占い師」という言い方が一般的でしょうが、昔は占い師の事を指南者と言いました。
「指南者」も「占い師」も同じ意味だろうと多くの人が思っているかもしれませんが、厳密に言えば相違なものです。
「占い師」は「運勢の吉凶を観て開運をアドバイス」する者を言い「占わなければ」占い師とは言えません、「指南者」は占い師と同じく「運勢を観てアドバイス」するという側面と「時に運勢とは関連無く人生を説く」という側面とあります、その為に「指南者」は時に「占わない」という事があります、占うまでも無く人生の機微や玄妙さを説く事があるのです、故に「占い師」よりも「指南者」の方が成るには遥かに難しく、その学びも深く、その人格も高く、その見識が玄妙なのです。
現代は巷に「自称占い師」が溢れている時代に「本当の本物の占い師」も稀有な存在な上に「指南者」もとんと見聞きしなくなってしまいました。
又「指南者」の「指南」とは「方向性を示す」「良きアドバイス」「本質的なアドバイス」と言う意味合いです、それ故に「物事の本質を得ている者」でなければ到底務まる仕事ではありません、本来「占い」というものは「物事の本質を得ている者」でなければ難しい側面があります、故に其仙流では代々「占い師」に終わらず「指南者」を目指す学びを重視するのです。
現代の多くの占い師に言いたい・・・「占い師」を目指すより「指南者」に成れる学びを養う様に・・・。
第五十二指南 相談者を育てるという意識
「相談者を育てる」と言う意識、これは指南者にとって非常に重要な問題です、相談者は何かしらの相談に来るわけですが「是非」を述べる事だけが我々指南者の仕事ではありません、それを成すには相談者自身の成長が不可欠な場合もあります。
又、人生を生きるには「努力や忍耐、知恵、学び」など、どの道「成長」が必要となります、しかしその「成長」と言っても「本質的成長」というものがあります、この「本質的成長」は個人に因ってその内容が違って来ます。
それ故に「見えないものを観る事が出来る我々指南者が指南をすべき」なのです。
素直な相談者は時間や経験を積み重ねるだけでも大変成長しますが、「自己流で生きる人、我の強い人、本質が分からない人」などは人格が優れた人からのアドバイス、若しくは非常に優れた指南者からの指南でなければ、正則的な成長が難しく人生が不必要に曲がり、又周囲に多大な迷惑や不快感を与えます。
この「素直さを欠いた」人を育てるにはこちら側も大変な「忍耐」の二文字が要求されます、というか殆どの相談者がその人間性なり人格なりに欠けが生じている方達ばかりです、返って「素直さ」を養っている相談者が少なく、その様な相談者の相談内容は様々な内容では有りながらもどこか軸のしっかりしている内容であったり、こちらがピリっとする内容であったりと、どの道どこか「感心」する様な内容が含まれているものです。
ですから「素直さの養いがしっかりとある相談者、本質を得る事が出来る相談者」などは返ってある意味で簡単な相談者とも言えます。
逆に「素直さを欠いた相談者」や「どこまでも自己流の生き方をされる相談者」はこちら側も「育てる」と言う意識が必要になる場合があります、でないといつまで経っても「こちら側の言いたい本質が伝わらない」からです。
多くの未熟な相談者に共通する問題は皆さん「自分を基準に置きます」つまり「指南者の指南でさえ判断するのは自分自身とする所」に最大の問題が有るのです。
これでは「本人の望まない指南は聞き入れない」「その指南より自分の判断が上だ」「自分の望んでいない結果になる事は拒否する」・・・などなどの思考に陥ります、つまり「素直さを欠き、自己流に生き、我を張る」といつまでも「本質」に辿り着けないのです。
その様な相談者は大変多くいるもので人生を本質的に生きてはおらず、ある意味人生をこじらせているのです。
この様に、相談者を育てるという事は、「子供を育てる、植物を育てる、仕事を育てる」などと同じで「忍耐、時間、支え」などを覚悟を以って持つ事が望まれます。
幼い時や学生の時に限らず、社会人になっても成長する意識は望まれますが、自己流に生きる人は自分で成長するにも自分流になりやすく、本質的成長が出来ません、それ故に我々指南者はその様な相談者を育てる意識を腹の底に持つ事が必要なのです。
第五十三指南 相談者を選んではいけない
日々様々な相談者が来ますが、中には頭を悩ます難問珍問の相談者から立派なお悩みの相談者まで実に千差万別で色々な相談者が来ます。
そうこうして行くと指南者側も経験が蓄積されて来るので「得意な相談者や相談内容」というものが生じて行きます。
一方で、その逆の「苦手な相談者や相談内容」というものも生じて来ます、そうすると中には「適当なアドバイスをしたり、無難な指南に頼ったり、依存したり」となる指南者や占い師がいます。
「OLさんや学生さんなどの恋愛相談は得意だけど、大の大人の仕事の悩みや人生相談は無理」
「仕事や恋愛の相談は得意だけど、重い病気の相談は苦手」
「理解力のある相談者は得意だけど、自己流で自分勝手な相談者は鑑定しない」
などなどこの様な事をする占い師や指南者がチラホラと世間ではいる様ですがこの様な事をする指南者や占い師は二流以下の占い師です。
確かに「苦手な分野の相談、苦手な相談者のタイプ」というものは有るものですが、その苦手な部分を自分で補い修練する事により、得意な分野を広げる機会を自分で失っている事に気付くべきです。
又、占い師や指南者が占える分野を予め決める様な事は最低の愚行と言えます、相談者がいつどの様な相談内容で来ても受けるという構えが有ってこそ、まともな占い師の構えと言えます。
第五十四指南 占う型
「占う型」とは所謂、「占うスタイル」とでも言えば良いでしょうか、其仙流ではこの「占うスタイル」の事を「型」と言っています「迫力を以って厳しく指南する、優しく受け入れながら指南する、淡々と聞き淡々と答える」・・・などなど幾つかのスタイルや型が有りますが、先ずは自分の得意なスタイルをある程度完全に構築する事が望まれます。
一番いけないのは中途半端に自分の占うスタイルを構築する事になります、ある一定は相談者や相談内容にも因りますが、自分の得意そうな「型」を模索しそれを仕上げようと決めたら、先ずはその型を軸に徹底的にこだわる事が必要となります。
決めた型の問題点や良い点、改良点などを自分で模索し徐々に「自分の型」として行くのです、良い所は更に磨きを掛け、悪い所は如何に改良するのか思考する・・・この積み重ねをすると次第に「自分の型」が仕上がって来ます。
自分の型が仕上がったら、新しい「型」を模索するのです、当然始めから幾つかの型を仕上げようとしても構いませんが、先に説明した通り「中途半端」が何よりいけません、ですから中途半端にならない位の数と言えば、最初は「一つか二つ」が望ましいでしょう。
又この「型」は自分の性格と非常に似て来ます、それが始めの頃なら尚の事自分の人間性や性格が反映された「型」となりやすくなります。
豪快で自分の主張を言いたい人は=迫力のある、言い切るタイプの指南
物静かで和を重んじる人は=優しく柔らかい指南
理屈を優先する人は=淡々と答える
これ以外にも様々なタイプや型はありますが、必ずと言ってよい程「どの型にも欠けは存在します」例えば、「豪快で自分の主張を言いたいという型」には「場合により高圧的、怒られている印象を与える」という欠点が生じます。
又「物静かで和を重んじるタイプや型」には「強調しなければいけない指南の時にそれが上手く伝わらない」などの問題が生じます。
この様な問題は「型」にも問題点はありますが、どちらかと言うとそれを扱っている本人の人格に欠けが有る場合が多分にあります。
「型」の種類を増やす事と人格の形成とこの両方を時間を掛けて養って行く事が求められます。
「型」の種類を増やす時は、自分の性格や人間性を軸に「あくまで相談者の目線に合わせる型を考える事」が肝要なります、これは何故かと言いますと先ず初めの「型」は多分に自分の性格を加味した「型」となっている事が大変多く逆に「相談者目線になっていない」事が多いからです。
次いで「人格の形成」には何より「哲学の深い学び」が必須となります、これは人により「後回し」する事もありますが、その様な指南者は一定は腕や実力が育ちますが、ある段階から行き詰まりますので後々大変な苦労を強いられます。
この「型」というものの大前提は「相談者の目線に合わせる事」と「物事の本質」が分かるか否かが高い水準で問われます。
初めの頃は「自分の型、自分流のスタイル」を優先しても良いので、どの様な「型」でも構わないのですが、結局の所は相談者の目線からあまりに掛け離れた事を指南しても相談者が響いてくれない事もあり得ます、故に結局は「相談者の目線に合わせる姿勢」は絶対的に必要なのです。
それともう一つ大切な事は、我々指南者が「物事の本質が分かるか否か」が高い水準で求められます、これはどういう事かと言えば、時に相談者にとって受け入れ難い事や相談者を成長させる為の指南、生き方や人生を説かねばいけない事も多々あるからです、この様な指南をする時は相談者の目線に合わせる事が出来なくとも指南をしなければいけない事があります。
この様に最後は「相談者の目線に合わせる事」と「指南者の人格形成」に集約されますが、これを意識しながらも様々な「型」の習得は指南者にとって有意義な武器となります。
第五十五指南 価値を介しない相談者はその程度の人物なり
占い師や指南者は「価値ある指南」「価値ある開運」「価値ある生き方」など「価値」を提供しなければ意義がありません、これは指南業に限った事では無くどの様なお仕事、職種にも言える事です。
ですが、この指南業や占い業の一定困った所は、世間一般的に「本物の基準」が存在していない状況なので指南者や占い師の個々の主張がまかり通っている状態と言えます、故に「価値の基準」が不安定と言うか存在していないと言える状況なのです、価値があるかどうかは相談者に因る・・・という状況なのです。
本来「運勢学、占い、指南業」というものは「人を育てる、本質的な生き方を説く、充実した人生を説く、禍回避の道」などをアドバイスするものです、ですがこれが出来る指南者や占い師が殆どいなくなってしまっている状態です、故に更に「本物の基準」を伝え広める事が非常に困難な状況であります。
こうなって来ると指南の現場でどの様な事が起こって来るかと言えば「価値を価値と認識してくれない、理解しない、否定する」様な相談者が出て来るのです、この様な相談者は昔から一定数存在はしますが、その比率がここ最近非常に上がって来ています。
価値を介しない相談者というものは大体大きく分けると次の二通りになります。
①高い安いで決める
②自分の判断を優先する
これら二つのパターンの人はどうしても程度の低い人間性を有しており、その人生も非常にどこか大きく欠けのある人生となります。
「高い安いで価値を決める」
運勢鑑定、人生鑑定だけでなく其仙流には開運商品も多々存在します、その中には当然安い商品や鑑定コースもありますが、中には高い料金も存在します、お客様の中には「結果=価値」と取るお客様がいます、これはある意味では正しい側面は有るものの常に自分の求める結果が出るとは限りません、物事や開運とは時に本質を知る為に遠回りを余儀なくされる事もあるからです。
つまり「結果=価値」と言える側面はあるものの、本質的に言えば「真価=価値」なのです、この「真価」は時にどうしても「高い料金」を設定せざるを得ない事もあります、仕上がってみればそれが例え、紙切れ一枚の商品でも、その紙切れに書かれている内容を得るにはこちら側も様々な工程を履んでいくのです、その結果、玄妙で玄奥な効果、効能を得る事が出来るのです。
ですが「価値」を安いか高いかで判断する人はその真価に辿り着く事が出来ません。
別の例えを言いましょう「鑑定料金が二千円」の占い師と「鑑定料金が千円」の占い師がいたとして、「腕が有るのは二千円の鑑定料金の占い師」で「腕は無いがそれなりに納得もでき面白くて楽しく、料金も安いのが千円の鑑定料金の占い師」です・・。
真剣な悩みがある時にどちらを選びますか?
ここで「千円の占い師」を選ぶ相談者は程度が低い相談者です、そもそも占いとは「目に見えぬ運勢を観る専門業」なのです、かなり特殊なお仕事なのです、それを千円だとか五百円だとかで観る事自体、自分で価値を下げている証拠です、修行時代はある程度低い料金でも仕方ありませんが、次第に腕が磨かれて来たらそれなりの料金で観るべきものなのです。
この「二千円を出し渋る」相談者は「価値を高いか安いか」という判断基準で占い師を選んでおり、根本的に占いをはき違えている者でもあります。
「自分の判断を優先する」
これも非常に多いタイプの価値を理解しない相談者です、例えば「夫婦間の問題」で専業主婦の奥さんが以前から旦那さんに「もっと出世してよ!」とか「自分は友達と旅行をして気ままに遊ぶ」とか「仕事で疲れた旦那さんに『お疲れ様』の労いの言葉も無い」有様・・・ある日突然旦那さんが奥さんにこのままでは離婚をしようと切り出され、数か月・・・奥さんは自分の行いを省みる事も無く同じ様な日々を送り、とうとう旦那さんに決定的に離婚を言い渡されてしまいました、奥さんは離婚を認めたくない思いで指南者の元に相談に来ました。
本質的に指南者が判断したら「離婚」をするべきと観えて、その様な指南をしても本人は旦那さんとの離婚を受け入れたくない、ひたすらに「離婚を回避する方法だけを聞いて来る」・・・この問題は貴方が本当の意味で一人の女性としての自立、奥さんと言う立場の役割を全うするという意味を見直す良い機会ですから、一度「離婚」を受け入れ人生をやり直す事がずっと「価値」がありますよ・・・と指南しても、その「価値」を理解しない、受け入れない様では本質的に充実した人生を送る事は難しいでしょう。
この様に「自分の判断を優先」するタイプの相談者はその成長が非常に遅いという特徴があり、もし成長しても成長するまでには様々な大切なものを失って行く事が多々あり得ます。
そもそも占い師や指南者にお遊びで無くそれなりに真剣に相談に来ておいて、その指南なりアドバイスが本質であるにも関わらず受け入れず、尚且つ指南者の指南を判断するのも自分自身だと言わんばかりの相談者は付ける薬が中々無いものです。
確かに指南者の指南を自分自身で考え吟味する事は必要としても必要だから指南しているのであるから、拒否をするとか、唯々ひたすらに望みの指南を口にするまで質問をして来る様な相談者はある意味で救い様がありません。
この様な相談者は日頃から周囲に多大な迷惑や不快感を与えている事と思われます。
「まとめ」
色々な意味で「理解」しない出来ない相談者はいるものですが、指南の内容に「価値」を見出す事やその「本質」を理解しない人は致命的に人生がある意味で他者より遅れたり、様々な要らぬ諸問題に足元をすくわれたりして、不必要に不幸になりやすくなります。
これらに付ける薬は「素直の養い、哲学の学び、見識の研鑽」しかありません、この三つの養いが無ければそれ以上の運が生み出せない又、やって来ないのです、又この三つの中でも先ずは重要なものは「素直の養い」となります。
中々に人生を必要以上にこじらせる人は「人生をやり直すとか出直す」などの思考が出来ないものですが、もし深く省みて人生や自己をやり直そうと思ったら「素直の養い」から修養すれば良いでしょう。
指南者も意を尽くし、一生懸命に指南をし、価値を提供しようとしてもそれを理解しない相談者が来るとこちらの心が疲弊し折れそうになります、「確かな価値」を理解しない相談者はある意味で救い様が無く程度の低い相談者でもあります、その様な相談者はある程度の区別をしながらも、だからと言って見下したり、高を括ったりせずにこちらも真剣に様々な表現を用いて時間を掛けて育てていく姿勢が望まれます。
第五十六指南 人を育てるとは
「指南業」や「占い業」は「本質」をアドバイスする事が何より肝要ですが、同時に「成長」させる「育てる」という事も大変重要となります、相談者によっては「都合の良い答え」のみを求めて来る相談者も多々おり、又「占いは神秘だ、心霊だ」と思い違いをしている相談者や「中々成長を成さない相談者」もいます。
「指南業」や「占い業」はある程度、営んで慣れて来ると「唯言っている」「唯アドバイスしている」「唯指南している」という状態に陥っている事があり、もう一つの情熱に届いていなかったり、もう一つ思いを込めて指南が出来ていなかったりとなっていたりします。
又「指南業」とは「是非を出す」「課題を述べる」という代表的な流れがあります、「是非を出す」とは「良いか悪いか」「実るか実らないのか」「進むべきか止まるべきか」などの成否や可否を出すという事です。
「課題を述べる」とは「本人の克服すべき問題点や物事の問題点などをどう乗り越えるのか」などの文字通りの「課題」を指南する事です、この様に「占い」は「現実的問題を現実的に解決する、若しくは解決に至る手掛かりを示す」事ですが実は三つの目の段階があります、それは相談者を「育てる」という事です。
これは実は非常に難しい問題を大いに含んでおり、指南者や占い師の永遠の課題とでもいうべき問題でもあります。
相談者の中には「成長が出来ない」「理解力が低い」「程度が低い」「独善的、独りよがり」「自分都合な答えを求めて来る」などの「人生をこじらせている」相談者が沢山います、こういった相談者の中には「是非を述べたり課題を述べたり」しても受け入れない、理解しないなどの本質的に前進しない状況が生じる事もあります。
この様な相談者には「育てる」という姿勢が指南者のこちら側に高い水準で求められます。
ですが、先に説明した一定指南業というものに慣れている様な指南者は時として「ただ指南している、ただ言っている、ただアドバイスをしている」つまり「アドバイスを教えているだけ」という状況に知らぬ間になっている事があります、でもこれでは育たない事も多々あります。
では「教える」と「育てる」の違いは何でしょうか?
「教える」は先にも言いました通り場合により「ただ言っている」という事になり得ますが「育てる」には「お世話する」という側面があるのです。
当然、人によっては「教える」という概念に「お世話する」という意味を含めている人もいるかもしれませんが、多くの指南者や占い師が「お世話する」という姿勢に不足が見受けられる事が多々あります。
「お世話する」という意味の中には「温度があり、情熱があり、粘りがあり、忍耐があり、徳があります」
「是非を出す、課題を述べる」これらも指南者として当然に求められる事ですが、「相談者を育てる」という事は場合により数年、数十年もの時を相談者を支える事でもあります、「育てる」事が出来る段階まで来て初めて熟練の段階まで来た指南者と言えるでしょう。
第五十七指南 指南者が骨に響く成長をしているか・・・
指南者や占い師は相談者を育てる事が時として求められます。
一方で指南者自身の成長はどうなのでしょうか?
様々な所で其仙流は指南者は「哲学の学び、見識の錬磨、徳の積み重ね」を目指すべきと言って来ました、ではどの様な成長を成すべきなのでしょうか、どの段階の成長を目指すべきなのでしょうか。
それは最低でも「骨に響く成長を目指す」としています、「体に響く、心に響く、そして骨に響く」までの成長を目指す事は最低限求められます。
俗に「氣」というものを皆さん耳にした事はあると思います、この「氣」は丹田という所で練られ、経絡を通り循環します、そしてその「氣」は何処から生まれ出るのか・・・それは「骨」から生まれるのです、骨は一度、成人して身体が出来上がると基本的にそれ以上は大きくはなりません、故に生まれる氣の絶対量は常に一定となるのです、この骨の丈夫さや密度に恵まれるという事は生き方や成長にもよりますが、運にも恵まれやすいのです。
それほどに其仙流では「骨」には特別な認識があるのです、その「骨」に響く様な成長を成すという事は最低限に求められて然るべきと思います。
指南者の「生き様や覚悟の様」はそのまま指南者の成長の一端と言えます、もし他者がその「生き様や覚悟の様」に骨まで響く何かを感じて頂いたらある意味で立派な指南者の段階に来たと言えるかもしれません・・・。
第五十八指南「指南」とカウンセラーは根本的に違うものなり
よく耳にする事は「タロット占い師で心理カウンセラーの資格も取得」している占い師・・・などと聞きますが、これは全く意味が有りません。
これは占いを根本的に理解出来ずに思い違いをしている人が犯す初歩的な過ちです。
先ず「心理カウンセラー」の代表的な資格を説明しましょう。
①メンタルケアカウンセラー=メンタルケアの入門的な資格、心理学の基本、カウンセリングの基本知
識、心の病気などを学び修得する民間資格。
②メンタル心理カウンセラー=教育、医療、福祉、産業といった現場に於いて求められるカウンセリン
グ知識で民間資格。
③産業カウンセラー=現代では②の資格がこれを含む、産業の現場で必要とされるカウンセリングで民
間資格。
④臨床心理士=今までは心理カウンセラーの最高峰はこの臨床心理士を指す、心理専門職として証明で
きる資格で全国で約33000人が認定されており、実際の心理治療や心理療法が出来る資格で公的
資格。
⑤公認心理士=2018年からスタートした資格で臨床心理と似た様な内容でありながらも、より幅の
ある仕事が専門的に出来るのではと期待されている国家資格。
以上の五つの資格が「心理カウンセラー」としての資格ですがこの中で三つもの資格が民間資格となっており「専門的に正式に心理カウンセラー」と名乗る事ができ、尚且つ「治療行為」が出来るのは「公的資格の臨床心理士」と「国家資格の公認心理士」の二つのみです。
基本的に「医大」を卒業していないと資格取得は難しく、その他にも資格取得の為に様々な条件が存在します。
臨床心理士や公認心理士が占い師をする事は考えにくく、恐らくは多くの、占い師であり尚且つ心理カウンセラーの資格を取得していると謳っている占い師は①~③の民間資格を取っている者であると思います。
それでも一応はカウンセラーですから嘘を言っているわけではありませんが、先ず「占い師は人の心理を観る事は基本的にありません」「占い師は人の運勢を観る事が仕事」です、その上で心理を少し配慮する事はありますが、「占う」という行為の中にカウンセリングという行為が正式に有るわけではありません。
心のケアをする所謂「癒し系の占い師」のするスタイルでこれは間違いなく「亜流」のやる行為で低俗な占い師のやる実力も無い占い師と言えます。
確かに時として相談者の心に寄り添い、労わる事が求められる事はありますが、それはあくまでも例外的、一時的な行為です、ましてや心を治療する様な行為は先ず有り得ません、運勢を観る事も出来ない素人占い師や占い師ごっこのやる行為です。
心理カウンセリングはカウンセラーがやるべきもので指南者は人の運勢を観る事が本質です、心理を分析してケアする様な者は占い師ではありません。
第五十九指南 指南者は包容力を胸に、忍耐を腹に
相談者を育てる、成長させる、発展する、開運するには時として「数年、数十年」掛かる事も当然あります、この様に指南者は時として気が遠くなるほどの「忍耐」が求められる事があります。
又「忍耐」と言っても単純に「数年、数十年」という「時間」という意味合いで無く相談者の「傲慢な態度」「生意気な態度」「横柄な態度」など所謂「謙虚さが無い」「素直さが無い」「感謝が無い」という相談者はまた違った意味合いでの「忍耐」が求められます、これには「包容力」「受け入れる器」「寛容な心」などが高い水準で必要となります。
故に其仙流では「指南者は胸に包容力を、腹に忍耐力を養う事」としています。
俗に「堪忍袋の緒が切れる」と言いますが「堪忍出来ないを堪忍する」が「堪忍である」のです、切れる時はそれなりの事を覚悟しなくてはいけません。
軽々に「切れる、さじを投げる」様な事はしていけません、相談者はそもそも未熟な段階の人なのです、立派で理解力の高い人はそうそういるものではなく、見方によっては逆に立派で理解力の高い相談者の方が簡単な指南になる事も多々あります、これは何故起こるかと言えば、立派で理解力の高い、人格の高い人物は物事の道理や本質というものが分かるか、本質というものを言えば察する事が出来る人だからです、でも逆に場合により指南が簡単になってしまい、指南者の腕が磨かれない可能性が有り得ます。
難しい相談者が来た時こそ腕が磨かれる機会なのです、その様な時こそ「胸に包容力を腹に忍耐を」据えて真剣さを以って指南するのです、達人や名人も初めから達人、名人ではありません、先人達も嫌な事も当然と構え、胸に包容力と腹に忍耐を以ってして指南をして来たのです。
第六十指南 元気の出る指南
指南は「是非を出す」「課題を述べる」「育てる」の三つがありますが、時にはこの三つのどれにも当てはまらない指南も必要となります。
時に「元気が出る」指南も相談者に必要な事もあります、時に「相談者を褒めてあげる」指南も必要となります、時に「労ってあげる」指南も求められる時もあります。
昔の言葉で「人を笑顔にする事が出来れば経営者に成れる」と言います「人を元気にする」とはそこまでの力やパワーがあるのです。
指南は時として「欠点を直す事」や「悪い所の課題」に終始しやすい傾向がありますが、時として相談者を「褒めて伸ばす」事や「労って心の安らぎを与える」事、「元気を付けてあげて」生き生きと進んで行く力を付けてあげる事も必要なのです。
意外にも元気を付ける指南は難しく、下手をすればワザとらしくなってしまい鼻持ちならない指南となります。
「真剣に元気付ける」という姿勢の元に本人を観なければ本気で元気の付く様な指南は出来るものではありません、口先だけの元気付けなどでは直ぐに見破られます。
何を言ってあげたら元気になるのか・・・日頃から本気で「人を元気付ける」事を思い、悩んでいないといざという時に出るものではありません。
第六十一指南 一体何の為の占いなのかを問う習慣
「占い業」というものを長年やっていると「一体何の為の占い」なのかという基本をどこか忘れてしまう事があります。
「習慣化してしまう」「経験を重ねて行く」「熟練して行く」それぞれの過程で「何の為の占い」かを完全に忘れはしなくても、又時に完全に忘れてしまう事があっては、その本質や意義を失い、「底力」の無い指南をする事になります。
「もう一つ丁寧な解釈や指南」「もう一つ相談者の心に届く指南」「もう一つ相談者の成長への大きな手掛かりとなる指南」などは「底力」が無くては観れるものではありません。
これらは「誰の為の占い=相談者の為の占い」「何の為の占い=成長し道を開く為の占い」つまり「人の為、世の為」の占いという事を忘れては出来ません、「占い」は「公器」なものなのです。
故に「成功する度に、成長する度に、腕が磨かれ名声が上がる度に」自らに「一体何の為の占いなのか」を問う習慣は持ちたい・・・
決して「自分の為の占い」を行ってはいけない、それは自分の名誉や評判の為の占いである。
決して「占いの為の占い」をしてはいけない、正しい占法ならば正しく運勢が観えるはずである。
決して「濁り曲がった占い」をやってはいけない、それをやってしまうと、占いの根本が曲がる。
「一体何の為の占い」かは素人も玄人も決して忘れてはいけない、いつまでも自らに問う習慣を持つべし。
第六十二指南 甘く構えていては飲まれる事になる
これは其仙流がかなり重きを置く考え方です、相談者はよく巷にある様な恋の悩みから、仕事の悩み、人間関係の悩みなどありますが、中には命懸けの相談や、真剣勝負の相談が来る事があります。
甘く構えていては通常の相談は受け止める事が出来るかもしれませんが、真剣勝負や命懸けの相談に甘い構えで望むと、こちらが痛手を負いかねません、果てには相談者をより悩ませ、不安がらせる事に通じます。
そもそも「占い」は遊びではありません、占いは古では「政治や戦さ」に深く意見し関与してしていたのです、これは真実なのです。
相談には様々あるでしょうが、真剣勝負、命懸けの相談が来た時に受け止める構えが無いと、それは「占い業、指南業」とは言えないのです。
例え、よくある恋の相談でも「こちらは、命懸けの如く、真剣勝負の如く」の姿勢で観なければ、観えるものも観えず、伝わるものも伝わりません。
占いとは、「相談者を開運させる手掛かりを示す、成功する為の成長を指南する、人生の生き方を説く」お仕事です、その構えに甘さがある様では、人格がある相談者が来たら一発で見抜かれます。
柔道でもその道着の着方を見たら、どの程度の腕前か分かると言います、甘い構えなど腹の座った相談者が来たら吹けばぶっ飛ぶでしょう、どんな重い相談が来ても自分が吹っ飛ばされない様な構えは「覚悟」の積み重ねのみです。
第六十三指南 相談者に何を伝えるか?
日々様々な相談者が尋ねに来ますが、指南者は結局の所、何を伝えるのでしょう?
多くの相談者、というより殆どの相談者がより恵まれる相談より、苦労からの脱出や不幸からの脱却を尋ねに来ます、つまり多くの相談者は「不安」を抱えているのです。
この不安を解消する事が我々指南者の大きな大前提となりますが、これではまだ正解とは言えません、では指南者は不安を抱えた相談者に何を伝えるべきでしょうか、少し考えてみて下さい。
確かに「不安」を解消する指南は必要です、でももう一つ上の答えではありません、不安を抱えた相談者には「安心」を指南する事です。
「不安を解消する」事と「安心を指南する」事は同じ意味では?とお思いの方もいるとは思いますが、時として同じ意味合いの時も当然ありますが根本的には微妙に違います、不安解消は「不安」を解消すれば終わりですが、安心を指南する事は継続性を求められる事があるという事です、つまり安心を得るという事は不安解消より、より進んだ状況であるのです。
「安心」は「不安解消」の先にあるものなのです、ここまで相談者の安心という段階にまで導いてこその指南なのです。
毎回毎回、上手く安心迄導く事が出来るとは限りません、場合に因り数年数十年安心を得るまで掛かる事も有り得ます、その段階までしっかりと責任を背負う覚悟が指南業には求められるのです、覚悟と忍耐が求められる努めなのです。
第六十四指南 育てる指南
指南業とは、占い業とは「開運する道を指南する仕事、人生を豊かに生きる為の成長を指南する仕事、問題の解決の手掛かりを示す仕事」と言えます、でも、これらの要素には「成長」という概念が必要となります、つまり「相談者を育てる」意識が求められます。
開運にするにも、願いを叶える為にも、道を開くにも、「現在のまま」では無理なわけです、そこに「知恵や工夫、努力や忍耐」が当然に求められるのです、つまり「成長」が不可欠なのです。
となると、当然、我々指南者側の構えには相談者に数年か数十年か付き添う覚悟が求められます、人が成長するには当然、かなりの時間が掛かるからです。
中にはその場での解決もあるでしょうが、時には相談者が開運する、成長する、成功するには数年、十数年、場合によっては数十年掛かる事があります。
その時間を相談者と共に歩む覚悟が求められる仕事なのです、安易にお手軽に神秘に出来る務めではないのです。
又、「育てる」という事は「教えられる」事にも通じます、「教えるは教わるに通ず」です、「育てる」と言っても相談者に因っては素直でない、理解力が低い、思い込みが激しい、独りよがり・・・様々な相談者がいます、その相談者に応じてこちらも育てる手法を選ばなければいけません、その度に頭を抱え、悩むのです。
相談者を育てる事が出来る指南者は、相談者と共に成長出来る指南者です。
第六十五指南 程度の低い相談者ほど程度の低い相談をして来る
これは様々な場面で主張している事ですが、程度の低い人ほど程度の低い相談をして来る傾向が強いものです。
様々な事で言えますが、例えば仕事の相談で・・・
・相談者「同僚や上司は非常に自分を見下して来る人達で、きつい仕事は全部自分に持って来る始末
なんです、それでも私は仕事と思ってこなしているのですが、あのバカ達はどうしたら気
付くのでしょう?
・指南者「なる程大変ですね、ですがその人達を責める事より、そんな人達に代わってどうすればより
効率の上がる仕事が出来るのか、質を上げる仕事が出来るのかを考える事がより上です」
・相談者「・・・あのー職場の人達は全員、頭が悪いんです、そんな人達に代わってこれ以上何故努力
をしなければいけないのですか?」
・指南者「お気持ちは分かりますが、その人達を責めて何かが変わるとは思えないんです、となれば貴
方がより成長するしかないんです、そうすればより上の上司は分かってくれるのではないで
しょうか?」
「又、そこまで努力をすると転職もしやすいだろうし、転職をした後も周囲が認めてくれる仕
事が出来るのではないでしょうか?」
・相談者「はぁ、それなら転職してから頑張りますよ、何故今の職場でそこまで頑張らないといけない
んですか?意味が分かりません」
・指南者「う~ん、貴方の職場の人達は確かに程度が低い方達ではありますが、その人達を貴方は必要
以上に見下しているのですよ、これでは同じ穴のムジナですよ」
「先ほどから聞いていると、貴方は職場の人達をバカだとか、頭が悪いだとかおっしゃいます
が、その言い方に憎しみが必要以上に込められているし、過剰に見下しているものを含んで
います」
・相談者「こっちがバカにされているんだから見下して当然でしょ!何を言ってるの!」
・・・と、この様な相談者はよくいるものです、大なり小なり心当たりがあるのではないでしょうか、自分も程度が低い事に気付いていないのが一つの特徴です。
もう一つ例を上げてみましょう・・・
・相談者「仕事もプライベートも中々上手く行かず、何年も苦労の繰り返しです、いつかは報われるの
でしょうか?」
・指南者「あまり、周囲や仕事に求め過ぎない事が一つのコツです、望むにしてもわきまえながら、謙
虚に望む事が求められます」
・相談者「何か生霊とか憑いているんでしょうか?」
・指南者「そんな事はありませんから、あまりその様な意識は持たない方が宜しいです」
・相談者「そうなんですか、分かりました」
「先日も、上司が休日出勤を半ば強制的に求めて来るんですよ、予定があると遠回しに言って
いるのに、しつこいんです」
・相談者「やっぱり、前世の行いが悪かったのでしょうか?」
・指南者「いや、その様な事は関係ないですから、気にしなくて構いませんよ」
・相談者「え~、そうなんですか、分かりました」
「先日、家の階段からこけてしまって足を少しケガしたんですが、家に地縛霊でも憑いている
んでしょうか?」
「この様な時はやはり、陰陽師に祓って頂いた方が良いでしょうか?」
・・・と、この様な取り留めの無い様な事を聞き、「現実の問題を非現実な事で解決しようとする」のも程度の低い相談者の特徴です。
何が占いなのかという定義が世間一般的に決まっていない現状がこの様な何でもありの原因の一つですが中々に程度が低く人生をこじらせる相談者はかなり疲れます。
これには少しずつ相談者を「教育」していく姿勢が必要となります、これは「六十四指南」などで言っている「相談者を育てる」と重なる部分はあるにせよ微妙に違います。
「相談者を育てる」という事は「お世話をする」という側面がありますが「相談者を教育する」という事は「強制的に教える」や「厳しさを以って教える」という側面があります。
幼い子供に「躾(しつ)け」をするのと同じです、躾けをする時は厳しさと共に教えたりや強制的に教えたりするのと同じです。
様々な意味で程度の低い相談者はいますが、程度が低いからと言って指南者側が相談者を見下してはいけません、こちらも粘り強く接していかねばいけません。
ひたすらに正しい事を伝え続ける、指南し続ける姿勢が高い水準で求められます、時に丁寧に指南をし、時になだめ、時に厳しく接し、時間を掛けて気付くその時が来るまで我々指南者が諦めてはいけません。
第六十六指南 常に相談者の為の指南者を心掛ける
我々指南者は相談者の「開運の為、成長の為、幸せの為」に在るのです、故に「常に相談者の為」を心掛ける事が高い水準で求められます。
そんな事は当然だ!と思うでしょうが、ここはもう一つ踏み込んだ姿勢が必要なのです。
「相談者の為」と頭で分かっていても不十分です、胸で理解していてもまだ不十分です、腹で分かっている・・・ここまで来て初めて「相談者の為」を心得ていると言える入り口に立ったと言えるでしょう。
更に・・・心で理解して、十分に「相談者の為」の心得を持っていると言えますが、まだ終わりではありません。
更に言えば・・・骨で理解している・・・ここまで来て本当に「相談者の為」に指南をしていると言えます、ここまでの段階に来て意識せずに自然と相談者の為に心が精神が身体が動くのです。
人は同じ言動を繰り返しているとある種の「習慣」を持ちます、この「骨で理解する」という事は「習慣」ではなく「本能」から出る言動を指します、微妙ですが根本的に違います。
頭で理解→胸で理解→腹で理解→心で理解→骨で理解
殆どの占い師が頭ですら理解していませんが、理解しても頭止まりです、本当に理解していますと言っても胸止まりです、腹に据え、心に留め、骨に染みる・・・ここまで来て本当の指南者の在るべき姿の一つと言えるのです。
第六十七指南 実も指南、花も指南
指南業とは「開運を示す、本質的成長を示す、幸せになる道を示す」事ですから当然、その指南は厳しいものとなります「覚悟の養い、成長の厳しさ、努力や忍耐の心得」どれ一つ取っても簡単ではありません、人生は想像以上に苦しく大変なのです。
でもその一方で人生は楽しい事もあります、故に指南も時に「楽しい」ものとなっても良いのです、これに過ぎると「お遊びの占い」と成り下がりますが、厳しい厳しいの人生や指南はどこか潤いが無いと感じてしまいます。
時に人生は「無駄や遊び」が無いと潤わないのです、真剣勝負に来た相談者にはこちらも当然、真剣に臨まねばいけませんが、ふとした時に「ゆとりの指南」「楽しい指南」「無駄な指南」をしてみる事は指南や人生がより豊かになるちょっとした種が含まれているものです。
植物も実ばかりではなく花を咲かせます、本質は実にあるけれど、人は同時にその花を愛でます、指南や人生に実ばかり求める人生より時に花を求める余裕は欲しいものです。
それが返って人生や運勢を豊かにしてくれるものなのです、「実の指南」は当然としても「花の指南」が出来る指南者は根本的に数段上の指南者と言えるでしょう。
富士山の山頂を目指す事ばかりに人生を費やし他のものには一切、目もくれない人に足元の花の美しさを教える事が出来る指南者を目指したいものです。
足元の花とその上で富士山の山頂で得た豊かさとが合わさり人生が更に豊かになるのです。
第六十八指南 指南業はお遊びでは無い 其の一
これは其仙流が様々な所で主張している事ですが、「指南業は命懸けの仕事」なのです、決して「お遊びでは勤まる仕事では無い」のです。
この意味をどれだけの指南者や占い師が理解出来ているのか・・・
多くの指南者や占い師が同じ事を言うでしょう「指南業は遊びではありません」と・・・
気持ちは分かりますが指南業とは本当に過酷なのです、多くの指南者や占い師は「指南業は遊びでは無い」と言っても実際はやっている事はお遊びなのです。
正しい占法を正しい師や先生から正しい姿勢で学び、正しく経験を重ね正しい人格を成していく・・・これが先ず出来ていない占い師が沢山いるのです、故に相談者の正しい尋ね方も教える事が出来ないのです、当然です多くの占い師自身が既に間違っているのですから。
「指南業は命懸け」・・・この言葉の意味は、相談者は時に命懸けの相談をして来る事があります、会社の経営、政治家の政策・・・例え一人の恋愛の話しであってもその人にしたら人生最大の恋かもしれないのです、故に指南者は常に「命懸けの姿勢で指南に臨まねばいけない」のです、そうでなければ相談者に失礼であり、お代を頂く資格がないのです。
そして「命懸けの姿勢」で観るからこそ見えないものが観えて来るのです、又相談者もこちらの真剣な姿勢に聞く耳を持ってくれるのです、指南をする度に自分の命を絞るかの如くに臨むのです。
第六十九指南 相談や相談者の差
相談者にはまさに十人十色、百花繚乱で様々な相談が来ます、どの相談にも差は付け難いものです、又その様な相談でも真剣に臨む姿勢は必須ですが、敢えて差を付けるとしたら・・・。
①「誰が聞いても深刻な相談」=例えば政治家の政策や経営者の経営、重い病気の相談・・・これらは
本人の生活だけでなく大勢の命や生活が関わって来るものなので当然重要性は高いです、そして病
気は個人の問題としてもまさに命が関わって来る事なので当然、こちらも真剣に観なければいけま
せん、これらは非日常的な相談が多い特徴があります。
②「巷に有り触れた相談」=恋愛、仕事、人間関係などなど又この中に於いても重要度に差があります
が、この②の相談者が最も相談者としては多くなります、つまり日常の中の相談という事です。
人の成長や開運の種は日常の中に潜んでいるものです、故に②の相談者にしっかりと答える腕を磨
く事が優先されます。
③「非現実的な質問をして来る、あまりに的外れな相談」=これもそこそこ多い相談者のタイプです
が、例えば現実的な問題をオカルト霊感で解決しようとする、問題の責任が自分にあるのに周囲の
せいにするなど、ある程度はこの様な質問をしても良いのですが、こちらがしっかりと理屈で説明
しても理解出来ずに形を変えて同じ質問をして来る相談者は理解力が低いので、程度が低い相談者
となります、ですがその程度が低い相談者を時間を掛け育てるのも指南者の務めです。このタイプ
の相談者は指南をしながらも教育という側面が必要となる事が多いのが特徴です。
相談者を以上の三つに一応分ける事が出来るでしょう、どの道はどの様な相談者が来ても一定の腕を示す事は当然ですが、この様なタイプがあるという事を知っていると何かの助けにはなるでしょう。
第七十指南 日々精進
指南業とは通常の一般的な勤めとは全く次元が根本的に違う仕事です、とにかく常に成長と努力が求められる仕事です、人より物事に精通しなくてはいけません、専門的な事でもある程度は理解しなくてはいけません、人生をある程度覚っていなければいけません・・・。
つまり生涯を掛けて「日々精進」する必要があるのです、「日々学び、日々努力を課し、日々知恵を絞り、日々成長を目指し、日々新たに」この様な姿勢が指南者には当たり前に必要なのです。
限界は有るにせよ、無理な事も有るにせよ、どこまでも学び成長しようとする心構えは最大限求められます。
通常の事をやっても通常以上にはなりません、普通以上になる為には普通以上の学びや成長が必要なのです、指南業は普通でない仕事なのですから当然、通常以上の学びや成長は必要なのです、それも想像を超える学びがいるのです。
巷にいる占い師と本物の指南者との学びの差は歴然とし如何ともし難くその差は象と蟻ほどの差となります、日々様々な相談者が来ます、天原の花の如く百花繚乱な相談に対応する為には「日々精進」この言葉で全てを言い尽くしているのです。
休憩は良いとしても、学びを止めた時点で人は後退します、情熱を失ったら枯れます、自分に過信したら足元から崩れて行きます。
誰しも日々精進、指南者なら尚の事、日々精進・・・。
第七十一指南 相談者を育てる指南を含む
キツイ表現をする事になりますが、多くの現代占い師は占いの本質を見失っている様な「占い師ごっこ」をしている者達です。
「安易に開運を口にする」「相談者の求めている言葉だけを口にする」「生温い癒しの言葉の繰り言」・・・これでは「占いの威力、威厳」というものは地に落ちて当然です。
第六十四指南でも述べましたが、本質的な指南というものには「相談者を育てる」要素が加味されて当然です、開運には本人の努力や成長が不可欠です、苦しい事を乗り越えるにも本人の成長が求められます。
でも本人がそれに気付いていないから悩むのです、又は気付いているがどの様に成長すれば良いかを悩み、相談に来ているのです。
故に相談者の「今必要な学びや努力、成長」を指南出来るかが重大なのです。
これが出来ない占い師や指南者はボンクラ占い師です、ボンクラだから「安易に開運を口にする」「相談者の求めている言葉だけを口にする」「生温い癒しの言葉の繰り言」をするのです。
人を育てる・・・これは非常に難しく、我々指南者側が時に忍耐を求められ、知恵や工夫を要求されます、ですがだからこそ我々指南者も成長し腕が磨かれていくのではないでしょうか。
昔から言います「指南者はお客さんから育てられる」ものだと・・・。
第七十二指南 相談者に必要な指南を出来るか・・・
日々様々な相談者が来ます、簡単で単純な相談から難問珍問で頭を悩ませる相談までピンからキリまで相談事はあります。
第七十一指南と重なる部分はありますが、一言で言えば占いは「相談者に必要な指南が出来るか出来ないか」が全てと言っても過言ではありません。
神秘を口に不必要な繰り言をしても意味はありません、根拠の無いオカルトや霊感をアドバイスしても、耳に心地良く聞こえる癒しの言葉を言っても本質的に必要な事を指南しなければ我々指南者の意義は失われます。
「相談者に必要な指南をする」・・・言葉で書けば一行にも満たない僅かな言葉ですが、これが非常に難しく人知を超える判断力が求められるのです。
其仙流はその人知を超える判断力=占法が「無相、麻衣神相法」としているのです、ですが如何に「無相と麻衣神相法」が優れた占法とは言え、それを扱う指南者の人格に未熟さや不完全さが有る様ではお粗末に成り兼ねません。
「相談者に必要な指南」をするには先ず指南者が「素直である事、物事の本質を得る事が出来る、高い見識がある」これらが高い水準で養われていなければ難しいでしょう。
更に「造化の知恵、忍耐、情熱」も問われます、「相談者に必要な指南をする」という事が如何に難しいかが少しは分かるのではないでしょうか。
第七十三指南 底力を出せるか
どの様な悩みや相談でも全力で一生懸命に真剣に観て指南しなければいけませんが、比較的恋愛相談や人間関係、仕事などはよくある相談事です、そんな中で時にかなり特殊な相談、重圧を感じる相談が来る事も有り得ます。
その様な深刻な相談が来た場合は指南者側の「底力」が問われます、逆にこの様な深刻な現場で底力が出せない指南者は未熟者と言えます。
何故「底力」が出ないのか、出せないのか・・・理由はいくつかあるでしょう。
「想像をしていなかった」
「占いを甘く見ていた」
「人格形成が出来ていない」
これらが指南者が底力を出すべき時に底力を出せない主な理由です。
「想像をしていなかった」
想像をしていなかった・・・つまり「不測の事態を準備していなかった」「どの様な相談者にも対応する構えが無かった」という事です、確かにこの様な経験を重ねながら指南者は場数をこなし成長するのですが、当流からすれば、「非常事態は常に考えておく事は至極当然」であり、その上で「想像を超える事はあるだろう」としています。
指南者たる者「非常事態は当たり前」です。
「占いを甘く見ていた」
自分のイメージする占いの仕事を超える相談が来たという事ですから、当然「仕事を甘く見ていた、占いを甘く見ていた」という事です。
この行為は指南者自らが占いや占い業界のレベルを下げている事に気付かないといけません、占い師自身が自分の仕事の価値を下げているという事は想像を超える被害が生じ、簡単には回復出来ない事を知るべきです、現に現代の占い業界が政治や経営、深刻な病気などの相談に対応が出来るのでしょうか?
「人格形成が出来ていない」
これは要するに「人格の養いが不十分である」という事です、昨今の占い師や指南者は「人格」が仕事に影響するという重要性を軽く思っている節が多々あります。
占い業、指南業に限った事ではありませんが「仕事とは人格が仕事をする」のです、言い換えれば「仕事とはその人の人格が出る」のです。
指南者たる者「哲学」ぐらいは学んで養っておく事は当然です。
「まとめ」
当然「想像していなかった」「占いを甘く見ていた」「人格形成が出来ていない」これら三つの理由が重なる事も有り得ますが、どれ一つ取っても「指南業には致命的な欠け」となります。
多くの深刻な悩みを抱えた相談者は我々、占い師や指南者に相談に来るという事は「最後の頼みの綱」として来るのです。
散々、手を尽くし考えそれでも突破できないから指南者に相談に来るのです。
その様な時に「底力」を出せないで指南者と言えますか?
指南業とは遊びでは無いのです、指南者や占い師には簡単には成れないのです、先ずは人に本質的に正しい事が指南出来る人格を養うべきなのです、そして正しい指導をしてくれる先生なり師匠という存在は欠かせません、先人から様々な事を吸収しながらも人格を養い場数を踏み「本物」に成って行くのです。
第七十四指南 指南は表現も大切である
指南業や占い業にはアドバイス、つまり指南が求められます、当然指南は「言葉」で行うわけですが、これが非常に難しいのです。
相手にどう言えば伝わるのか・・・日常生活の中で家族や友達に話しをする様に直感的に感覚的に話しても中々伝わらない事も多々あります。
相手の理解力の問題もありますが、ここは指南者の立場に絞って考えたい・・・。
「相手が分かる言葉」
「相手に必要な言葉」
「核心や本質を突く言葉」
これらが出来ないと相談者に伝わるものも伝わりません。
「相手が分かる言葉」
相談者が分かる言葉選びが出来るかという事です、例えば学生さんに難しい言葉遣いをしても理解が難しいでしょう、程度の低い相談者にレベルの高すぎる言葉遣いは指南自体が頭の中に入って来ません。
難しい言葉や表現を相手に分かる様に工夫する事が求められるのです、逆に難しい言葉遣いしか出来ない様な指南者や占い師はその人格に欠けがある人と言えます、それは何故か・・・・?
幾つかの理由があります。
「相談者の目線になっていない」「相談者を見下している」「傲慢さが有る」・・・この様な指南者や占い師は難しい表現や言葉遣いを多用する傾向があります、相談者が理解できる範囲を指南者側が理解できていない愚かな指南者のやる行為です。
一方でそれ以上簡単な表現になってしまうと逆に「伝えたい事が伝わらない」「価値が下がる」「意味が変わる」「質が下がる」などが生じる事もあります。
「相手に合わす事は必要です」が「相手に何もかも合わし過ぎると弊害も生じます」これ一つ取っても指南業が如何に微妙で難しい仕事か分かるのではないでしょうか。
「相手に必要な言葉」
「相手に必要な言葉」とは相談者の相談に対して必要な指南という事です。
例えば病気の治療の相談を受けたとしたら、どの治療法が合っているのか、どの治療法が身体に負担が起こりにくいのか、どの治療法が成功する可能性が高いのかなどです。
一言で言えば「的確な指南や助言が出来るか」という事です。
「的確な指南が出来る」には「相談者本人の運勢を直接観る必要があります」見立ての占法(易やカード占い全般)や神秘思想、心霊思想の占法(スピリチュアル、オカルト、霊感)、個人差の出ない占法(姓名判断、九星気学、算命学や四柱推命などの命占全般)などの占法では直接人の運勢は観えないので「相手に必要な的確な指南」は出来ないでしょう。
「核心や本質を突く言葉」
昔から「核心や本質を述べれない様な指南者は指南者に非ず」と言われる程に重要な問題です。
時に核心や本質を指南すると相談者の指南を聞く姿勢に変化が起こる事があります、耳に集中し、身を乗り出し、熱量が上がるのが分かります。
ここで言う所の「本質や核心」とは「それが無ければ存在出来ない要素」という事です。
そもそも我々、占い師や指南者が物事の本質や核心が分からない様では本末転倒です、物事の本質が分からない様では務まるお仕事ではありません。
「まとめ」
表現力一つ取っても非常に我々指南者は高度に難しいものを要求されます、占いは本当に微妙であり、微かなものを観るのです、その微かな運勢をどう言葉で表現するのか・・・。
昨今の占い師達は「表現力の養い」も疎かにしている者が大勢いる様ですが、その様な事ではいずれは限界が来ます。
当流では「表現力の養い」に「観応の鍛」という「感受性を養う」テキストがあります、「短歌や和歌」に親しみ「自然と触れ合い、肌や心で自然を感じる」・・・そうする事によって出来るだけ相談者に伝わりやすく、それでいて必要な言葉で核心や本質を表現出来る様になって行くのです。
第七十五指南 相談者が求めていない事も指南する
基本として相談者が尋ねた事に応じるのが我々、指南業の務めなのですが、時に必要に応じて「相談者が求めていない指南をする」事も十分に有り得ます。
例えば「自分は経営者になって成功しますか」という問いに対して「今の貴方では難しいですね」と答えたとします、相談者は当然「成功します」と言って欲しいのですが、ここまではそこそこ聞く耳を持つ相談者はいますが・・・。
経営者になって成功するには、貴方は物事の本質が分かる人物にならなければいずれ限界が来ます、その為には哲学の養いが先ずは必要な様です・・・と指南したとします、こういう指南をすると途端に雲行きが怪しくなり、さっきまで何とか聞く耳を持っていてくれたのが、聞く耳もどこかに行ってしまう始末。
この様な事はよくある事でこの場合の相談者は「経営はアイディアや発想力である」とか「経営は人材である」とか「商品力と資金力である」と思い込んでいるパターンとします、「貴方が経営を成功させるにはもっとアイディアが欲しいですね」とか「商品力にもっと力を注ぐべきですね」とか「もっと行動力のある部下を探すべき」ですなどと言う指南をすれば耳を傾けるのですが、この相談者の想像もしていない言葉が返って来ると時として「はぁ、この占い師何を言っているの?」とか「哲学より商品力だ!」とこちらの指南の重要性を深く考えてくれない相談者は間々います。
でもだからと言って 安易に「相談者が求める言葉だけ」の指南をしても本質的には意味はありません、それでは結局は相談者は失敗するのですから、我々指南者は相談者が成功する道を指南しなければその意義を失います。
今回の例は一つの例に過ぎません、様々な形で「相談者が望まない事も指南する」事は有り得ます、又「相談者が求めていない指南」に対して耳を傾けない態度や、理解をしようとしない様な相談者は程度が低い相談者と言わざるを得ません。
その様な「小さい器」の相談者は一生「小さい器」「小さい運勢」「小さい人生」で終わるのです、先ずは「自らが自らの殻を内側から破る学び」をしなければ中々に小さい器が大きくはなりません。
そもそも占いとは「優れた人がより優れる為」「器の大きい人がより大きな器になる為」「運のある人がより運を付ける為」のものでもあるという側面があるのです。
小さき器の者が自分も少しでも大きな器を養って更に運を付けたい、道を開きたいと思うなら、「自分の望まない事を指南されても真剣にその指南を考える事」です。
第七十六指南 工夫の更なる工夫
人生を豊かに生きる、大きな目標を達成する、志を遂げるなどには造化の念が必要になります、造化とは「生み出す知恵」を言います。
「生み出す知恵」は言い換えれば「工夫」とも言えるでしょう、でもその工夫も一度の工夫で終わらせる様ではいずれは又行き詰まる事になるやもしれません。
我々指南者は「工夫」の手掛かりを指南する事がその務めですから、工夫の上にも工夫を重ねないといけません。
又、造化や工夫は時代や環境が変わるとその在り方も変わります、故に一度や二度の工夫や造化で納得するのではなく「工夫の上にも工夫」を重ねる姿勢は生涯持ち続けたいものです。
何故、指南者が造化や工夫の知恵が必要なのか・・・それは道を切り開く指南をしなければいけないからです。
相談者は生き方に迷い、道の歩み方も知らず、望みの叶え方も自己流でやれると思い込んでいる者達です、その相談者に成長の手掛かりを指南するのですから、先ずは我々指南者側に「造化の知恵」や「工夫する知恵」が求められるのです。
占いとは「人の知恵」と「人知を超える判断」とが思い合わさり成される偉業なのです、工夫の上にも工夫を課す指南者は自ずと本質的に大きく成長するでしょう。
第七十七指南 一人に向かって語るが・・・
指南者は一人の相談者に対して指南をするのです、一人の相談者の悩みを聞きそれに対する指南をする・・・つまり我々指南者はその一人に届く言葉を投げ掛けなければいけません。
真剣にその一人に届ける指南をした結果、他の相談者と似た様な言葉になったのは問題ではありませんが、同じ様な内容、同じ様なフレーズを不必要に繰り返すのは、表現力が稚拙すぎます。
日頃から様々な表現力を養い、指南の時に必要な言葉を相談者に届ける・・・難しい側面は否めませんがこれは指南業としては出来て当たり前の領域です。
一方、稀に極端に変わった人生を歩んでいる人が尋ねに来る事があります、例えばですが、殺人を犯した人が来るとか、あまりに想像すら難しい程の病気に苦しんでいる人が来るとか、この様に「普通の範疇を大きく逸脱した人」の人生はどの様に指南をすれば良いのか非常に困ります。
我々指南業は確かに相談者一人一人と向き合い悩みに対して指南をします、その指南の言葉はその人一人に贈る言葉なのです。
ですが「不特定多数」に分かる言葉なのです、通常からあまりに掛け離れた相談者に対する言葉、つまり「特定少数」に伝える言葉が言えるかは時に因るし前提として難しいものでもあります。
指南業は言葉を使ってアドバイスをしますが、その言葉は大勢の人が言葉として理解出来るものです、ですが、あまりに掛け離れた人生を歩んでいる人は言葉を音として理解は出来るでしょうが、その言葉の持つ本質的な意味合いが通用しない人も稀にいます。
この様な場合は、致し方ありませんが、正直に「自分では力量不足です」と言わざるを得ません。
昔から言います、「言は意を尽くさず」と・・・これは「言葉はその人の意思の全てを語れない」という意味です、普通の人同士でも言葉には限界があるのです。
それが、非日常を生きた人に対してどんな言葉が有るというのでしょうか?
それでも、何とか指南をするという姿勢は持つべきですが、限界は有るという事も心得として持つべきです。
占いは万能ではないのですから・・・。
第七十八指南 言葉で言って分からない、共感しないは何も生み出せない
我々指南者は指南をする時に「言葉」を使用します、それ以外に意思の疎通方法が無いのですから、仕方ありません。
それ故に指南者は「言葉や表現力」の養いは必須となるのです。
ではその言葉を本質的に又心に響く様に表現しても「理解出来ない、共感しない」様な者は何も生み出せはしません、又周囲に不快感や迷惑を掛けている可能性が大きいものです。
昔から言います、「馬鹿は死なねば治らない」と・・・まさにこの言葉は一見乱暴な言葉に聞こえますが、真、芯を突いた言葉です。
言葉で意を尽くす様にしているにもかかわらず、そこに何も感じないとか、自己流に解釈するとか、周囲に迷惑を掛ける様な者は愚かな人ですから、その様な人は死なないと変われないのです。
事実、愚かな自分の考えで世の中を立派に生きて行けると思い込んでいる人は大勢います、現代の社会制度があるから生きて行けるだけの事で、戦国時代にでも生まれたら嫌でも人の言う事を聞くか、早死にするかでしょう。
言葉の理解力は「国語力」です、その言葉にどの様な意味や意図があるのかを考える、そして考える時に集中する・・・これらは全て「国語力」です、単純に日本語が分かる、話せるという事と「日本語を理解する」とは根本的に違うのです。
その言葉にどんな思いが込められ、その言葉にどの様に感じるのか、その言葉が何を生み出そうとしているか・・・。
言葉を「音」として捉えるのではなく言葉を「意味」や「思い」として捉える教育や学びをしていないと言葉を「音」と取ってしまいやすいものです。
その様な者は人格や人間性のどこかに致命的な欠けがあるものです。
社会や周囲と問題も無くコミュニケーションを取っていると思っているのは実は自分だけという事はよくあるものです。
第七十九指南 占いは万能ではない 其の一
第七十七指南での最後でも述べましたが「占いは万能ではありません」何でもかんでも都合よく未来への道筋が観えるわけではありません。
己の望む未来への道筋に何が必要で、何を捨て去り、何を学び、準備しどの様な人間へと成長しないとその未来が手に入らないのか・・・これらを少し想像しただけでも遠い道のりと感じるでしょう。
直ぐに手に入る未来、直ぐに訪れる未来もあるでしょうが、大きな目標や大きな志で在れば在るほどその道のりは長く険しいものになります。
でも相談者は我々指南者に「気軽に訪ねて来るは良い」としても、「覚悟が無い、覚悟が希薄」な状態で尋ねて来る相談者が結構な割合でいます、そんな簡単に価値ある未来は手に入るわけは無いのです。
「占いは万能ではない」・・・この言葉には様々な意味合いが含まれています、大きく分けると「相談者側の都合よい占い」と「占い師側の都合よい占い」との二通りです。
先の「覚悟の無い相談者」は「相談者側の都合よい占い」の一つの例です、では「占い師側の都合よい占い」とは何か・・・いくつか有るでしょうが一つは「自分の占法で全てが分かる」としている所です。
例えば四柱推命や算命学などの所謂「命占」というものは決定的に「個人差が出ない」事が占法としてはあまりに致命的な事が上げられます。
又スピリチュアルなどもどこにも根拠が無いのが事実です「死者からのメッセージ」「天からのメッセージ」などというものが本当にあるのか、もし有るとするなら何故今までその痕跡や言い伝えなどが世界のどこにも存在しないのか?
命占にしてもスピリチュアルにしてもそれを発案した人が「有る」「正しい」と主張しているだけに過ぎません。
これらは全て「占い師側の都合よい占い」と言えるでしょう。
そもそも、「占い」とは「人の目に見えない運勢というものを観る事」です、その運勢にも法則性や原理、原則が存在し、その運勢を観るにも原理、原則は必ず在るのです、それを無視した占法や原理、原則を理解せずに自分都合な間違った原理、原則を主張しても運勢は観えては来ません。
運勢や占法にも原理、原則がありますが、それらを全て網羅、把握しても人生を成功する、大業を成すという開運に簡単な道のりは有りはしないのです。
「占いに全ての解決を求めても」無理なものは無理なのです、「占いに有り得ない事を望んでも」有り得ない事は有り得ないのです。
「占いは万能ではない」のです「占いは人の知恵と努力、そして人知を超える自然の理との調和と融合」なのですから・・・。
第八十指南 流されずに感じる
相談者にも実に様々な相談者がいます、真剣な相談者、希薄な相談者、思い違いをしている相談者、立派な相談者・・・又その様々な相談者が持って来るこれまた様々な問題や悩み・・・。
どれ一つ軽んじるわけには行きません、どの様な相談でも我々、指南者は一定の真剣さを求められます。
相談者はその悩みに悩まされ、これ以上他を頼るわけにも一人で解決する術も無い・・・その挙句に指南者や占い師に頼って来るのです。
でもここで一つの注意点があります、いくら身の上を考えたら同情を禁じ得ない様な悩みであってもそれを深く感じる事は当然あっても、それに流されて行けません。
相談者の思いや悩ましい事情は理解すべきですが、だからと言って指南者の心が相談者の心に流されてはいけないのです。
流されると観えるものが観えなくなったり、本質を失いやすくなります、この様な事を指南者や占いは強く戒めるべきです。
一定の同情はあるでしょうが、心を流される様では未だ未熟者と言わざるを得ません。
指南業は「相談者の心に流されずに感じる事」である・・・よくよく肝に銘じるべき訓戒です。
第八十一指南 こじらせている相談者を如何に指南するか・・・
人生をこじらせる、人間関係をこじらせる、仕事をこじらせる・・・様々な「こじらせ」があるとは思いますが、これらは一言で言えば「人格形成をこじらせている」という事が根底にあります。
故に生き方も独特で独りよがりであったり、独善であったりします、つまり社会や周囲との温度差が必要以上にあるのです、又本人もその事に気付いていない傾向があったり、正当化する思考法を取ったりもします。
この「人格形成をこじらせている」相談者は「自分都合な指南やアドバイスを求めて来る」「自分都合な解釈や理解をする」「荒唐無稽な質問をして来る」などの特徴があります。
この様な相談者はこちらも腰を据えてじっくりと育てるという姿勢が必要となります、相談者が気付くまであの手この手で同じ事を違う表現で指南したり、時には時間を置いてみたり、時には厳しく時には優しく指南したり、とにかく指南者側に粘りや忍耐も求められる上に丁寧さも必要となります。
この「人格形成のこじらせ」を起こしている相談者の場合は「人格形成のどこにこじらせ」が生じているかを指南する事が肝要となります。
「本人の常識に欠けがある」場合や「価値観、倫理観、道徳観」「意識」「生き方」など多岐に渡りますが相談者のどこに「人格形成をこじらせている」問題点があるかを指南する事は非常に重要な肝所となります、後注意点は「指南し続ける」事が重要となります。
「人格形成をこじらせている」相談者は理解力が低いという事と質問の仕方に非常に自分都合な偏りがある事が多々見受けられます、故に通常の相談者よりこちら側も観念が難しかったり、何を聞きたいのかこちら側が理解出来なかったりと指南の現場に於いて問題が生じる事があり、それ故にこちらも相談者に対して高を括ったり、上から目線となったり、しんどい姿勢で耳を傾けたりとしやすいですが、そこは腹に覚悟と丁寧さが必要と決める事です。
この「人格形成のこじらせ」の原因はその多くが親からの教育不足、愛情不足が殆どです、故にこじらせを正すにも相当な時間が掛かるのです、簡単な相談者ばかりではありません、逆にこちら側がしんどいと思う様な相談者が多いものです。
第八十二指南 指南をするべし
占いとは実に様々な方法が存在しますが一方で占法ではなく、占うスタイルとでも言えば良いでしょうか、例えば「当てもの式」「癒し系」「オカルト、霊感系」「神秘系」など占法ではなく占い師の占う「型」も存在します。
でもここで一番大事な事は占い師や指南者は「指南をするべし」にあるという事です、「占いとは現実的な問題を現実的に解決する術(すべ)」です「当てもの」をしても解決に至らなければ意味はありません、「癒し癒し」の言葉で耳障りは良いかもしれませんが本質的に言うべき事を言っていなければこれも意味はありません。
そもそも「指南」とは「指南車」から来ている言葉で、所謂正しく方位を示すもので、古来より中国では「英雄は南の方角から来る」という言い伝えがあり、方位を示す時に南を指し示す様になっています、ここから転じて「人生を説く、生き方を説く」様な立場の人を「指南者」と言い、運勢を観て人生を説く様な占い師も「指南者」と言われるようになったのです。
つまり「指南」とは「正しい事をアドバイス」する事です、この事から分かる通り、本来占い業とは「当てもの、癒し系、オカルト、霊感系、神秘系」などが入り込む余地は無いのです。
故に「指南」が出来ていない占い師は本質からズレている占い師と言わざるを得ません、其仙流では無相使いを公的に向けて別の言い方をする時は「指南者」と言っています。
又、「指南」とは「相談者にとって本質的に必要な事を指南する」事と定義しています、それ故、占い師は「指南」をする又「指南」が出来る指南者を目指すべきなのです。
第八十三指南 指南者が「分からない」と口にしてはいけない
我々、指南者が様々な相談者を相手にして中に間々あるのは「非常に是非が出にくい相談」を問われる事があります。
どう観ても、どう解釈しても、如何に観念を変えてみても、難しい・・・成否や可否是非の一定の方向性を見出す事が難しい・・・結果「分からない・・・」と口にする・・・これは気持ちは非常に分かりますが基本前提として口にしてはいけない言葉です。
分からないなりにも言葉にして指南をするという強い姿勢で臨まないといけません。
相談者は最後に我々、指南者に頼って来るのです、藁をも掴む思いで占いに突破口を尋ねに来るのです、その我々が匙を投げる様な事を口にしたら相談者は何処に相談をしたら良いのでしょう。
相談者が「あまりに的を得ない事を聞いて来る」とか「オカルト、霊感、神秘思想に染まっている」とか「度し難い程に自分都合で生きている」などの場合は致し方ありませんが、これ以外で指南者が「分からない」という事を言ってはそれは自らが「腕が無い」と言っている事と同じ事です。
観えずらい、解釈しずらい、まとまらない・・・それでも何とか言える範囲で指南をするのです、相談者が上手く言葉に出来ない事は多々あります、又相談者の思い込みのある状態で質問をされても観えにくい事もあります、それでも「分からない」と言う表現は禁じ手なのです。
占い業や指南業とは「相談者が分からない事を聞いて来る事」なのですから、その指南者の我々が「分からない」と口にしたら、それは本末転倒なのです。
第八十四指南 真似から始まっても良いが・・・
占い業や指南業というものは独学では絶対的にプロには成れません、先生や師と言う存在が欠かせないのです。
運勢学を学問的に学ぶ段階ではテキストや教科書、書物はとても大切なものですが、実践から来る学びや先生や師の経験から来る教えは、教科書や書物などには載せても載せ切れない、言葉にして言葉に仕切れないものがあるのです。
そんな先生や師の実践のやり方や表現、占い方、指南の仕方などを駆け出しの最初の数年は「真似ます」当然多くの者がそうします、占い業だけでなくその他の業種でも当然ある事でしょう。
先輩や上司の真似をする・・・そうしながらも経験を重ね自分流や自分のスタイルを構築させて行くのです。
真似ながらも、先生や師がどの様に指南や占いに取り組んでいるのかを真剣に考える段階では、先生や師の真似をする事が何よりも勉強になります、真似る事により体感で様々な事を気付き覚えて行くのです。
一方で「本当に真似るだけ」の者もいます、先生や師は既に大勢の顧客を抱えています、又指南も手慣れているものですから、パッと見て「簡単にこなしている」様に見えるのです、故に「真似をして」お客が付くと思い込んだり、本人は最大限に努力をしているつもりでも全然その域に達していない事は間々ある事です。
先生や師も常日頃から最大限の努力をしているのです、簡単にこなしている様に見えるとしたら、それは最大限の努力を簡単にこなしている様に見えているだけの事です、「最大限の努力は当たり前」という姿勢が仕事を簡単にこなしている様に見せているだけの事です。
真似から始まっても良いが、「真似に始まり真似に終わる指南者は下の下の指南者」である、能々肝に銘じるべきである。
第八十五指南 自己満足を徹底的に嫌うべし
この占い業や指南業というものは、一回の指南で相談者が凄く響いてくれたりすると心が舞い上がり、ついつい有頂天になるものです。
相談者が本当に真心で「有り難い」と思い我々指南者に接してくれるとかなり経験のある指南者でもついつい鼻が天狗になるものです。
でも身内同士での「自己満足や自慢」はあっても良いでしょう、それ位に我々指南業というものは困難を極める仕事なのです、一回の仕事が上手く行ったら仲間同士で自慢話に花も咲かせたくなるものです。
ですが、それが行き過ぎて、知らぬ間に何となく身体から「自己満足」が出ている状態となると、大変いけません、「自己満足」が次第に「傲慢」となるのです。
「自己満足」や「傲慢」となると「成長が止まります」こうなると次第に止まるだけに留まらず「後退し始めます」最悪「害を生み出しかねない」事に陥ります。
ここまで来た指南者は指南業を辞めるべき段階に来ています、この段階まで来て再生できるとしても既にその資格を失っていると言えるでしょう。
「わきまえ有りきの自己満足」は「謙虚」と共に持つべきで、過ぎた自己満足はいつしか謙虚さをも失わせ気が付いたら「傲慢」な指南者に成って行くのです。
故にどこまでも「謙虚」な心得は肝に持つべきなのです。
第八十六指南 害を成す相談者
相談者が占いや占い師に害を成す事は実は結構あるものです、如何にこちらが「謙虚」に接しても、どんなに「価値のある指南」をしても、「真剣に指南」をしても、それらはどこ吹く風で「こちらの熱意や価値を無視」して「聞きたい事だけを聞く」相談者は場合により「害を成す」可能性が有ります。
これは「川の流れを自分に都合よく曲げる」とか「山の形を自分の好きな様子に変える」とか「春に咲く花を冬に咲かせよう」とする行為と同じです。
我々、指南者がその指南の中に「何を含んでいる」のかを探る気持ちや姿勢が皆無な相談者はどこかに「傲慢、独善、自分都合、独りよがり」な要素を多分に含んでおり、人格に大きな欠けを有している人と言えるでしょう。
又、この様な相談者は「自分に問題がある、自分に責任がある、自分に不十分な所がある」などという事を「真剣に考えていない」傾向があります、結果的に何か問題が生じた時は「周囲や他人の責任」にする人もいます。
この様な相談者にも一定は我々指南者も謙虚に接さなければいけませんが、「あまりに変わらない、成長しない、どこまでも自分流を振りかざす」場合は相談者を「切る」か「それでも真心で接する」かをこちらが「覚悟」しなければいけない段階に来ます。
何故ならば「聞きたい事だけを聞く」様な言動をされる相談者とは、「健全な指南者と相談者の関係」にはなれないからです、つまり我々指南者と相談者は最低限の「信頼関係」を築かなければお互いが発展しないからです、信頼関係あってこその「良質な指南」が出来るのです。
又「害を成す」相談者はどの様な「害」を犯すのでしょうか?
様々言えますが、自分都合な指南をしてくれなかったから「信じない」のなら左程の問題はありません、これは「自分一人が信じない」という事ですから被害もほとんど起こりません。
我々指南者にとって最も避けなければいけない「害」は「評判を落とす」という事です、所謂「ネガティブキャンペーン」を展開する悪意のある相談者です。
この「ネガティブキャンペーン」には「悪意、嘘、真実の曲解」などが多分に含まるので一度火が付いたり、一気に広がってしまったり、一定時間経過しても鎮まらない、などの状況になると根本的な解決をする事が非常に難しくなります。
「ネット、人の口コミによる噂、マスコミ」など使って有る事無い事、面白おかしく捲(まく)し立てます、こうなると手に負えません。
故にこの様な相談者に限る事なく毅然(きぜん)とした対応を常に心がける事と、指南に真剣であり、相談者に謙虚である事、それでも「覚悟の段階」が来てしまったと感じたら・・・当流は「切る」事を進めます。
「切る、切らない」は一人一人の指南者の自由ですが、非常にリスクを抱える事となるので、本来のやるべき事に集中できません、これを一つの大きな手掛かりとして自分はどうするかを考えて欲しいものです。
第八十七指南 「占い」に何を求めるか
相談者は「占い」に様々なものを求めます「問題の突破口」「人の気持ち」「物事の成否」「物事の是非」「成功する道」・・・など実に色々なものを求めて来るわけですが、これらは相談者の思惑であり、確かに相談者の望みを聞く事は大前提に求められますが、唯々ひたすらに相談者の望む指南をする事が占い・・・という事ではありません。
①「時に相談者の耳に痛い事を述べる事も指南業の務めです」
②「時に成長を含む指南をする事も指南業の務めです」
③「時に望んでいる以上の価値を含んだ指南をする事も指南業の務めです」
この三つが出来ない指南者は間違いなく「もぐりの指南者」です、又相談者に於いても①~③の質問を一切してこない様な相談者は恐らくは非常に程度の低い相談者の可能性が多分(状況による)にあります、又この三つの指南に対して「価値」を感じない様な相談者も同じ事が言えます。
又、「占いに何を求めるか」という事は、ある側面「相談者の生き方、相談者の生き様、相談者の人間性」を現わしています。
「占い」とは「物事の事象を探る」事を言います、その「流れ」を「人知越える方法(占法)」で観る事を「占い」と言うのですが、そこに「気付き、前進、本質、価値」などを欠いた答えばかりを聞いてもいずれは行き詰まるのではないでしょうか?
自分が納得いく答え、自分が受け入れられる答え、自分が満足する答え・・・一定はこの様な答えも必要ですが、一方で人生というものが「自分で想像出来る範囲ばかり」であったらとしたらどうでしょう・・・
こんなに面白くない人生はないのではないでしょうか?
人生とは「想像を超える」事が起こるからこそ楽しいのではないでしょうか、想像を超える嫌な事もあるでしょうが、同時に未来は想像を超える楽しい事も、想像を超える価値のある事もあるはずです、「占い」には「未知の手掛かりを探る」事が出来るはずです、だとしたらそこには「未知の価値を生み出す成長を求める、未知の可能性を切り開く成長を求める」事が相談者、指南者共に在って然るべきではないでしょうか?
「占いに何を求める」かは人の自由ですが、自分よがりに偏った質問や指南をしているといつまでも物事の真価に気付かない人生を送る事となります。
我々、指南者も「占い」には「高みを求める」姿勢が求められるでしょう。
第八十八指南 物事の本質を一定以上覚る
よく若い人で「占い師になりたい」と言う人がいます、十代、二十代、三十代で「占い師になりたい」という事は別段問題ではありませんが、先ず成ったとしても現場では通用しません、全員が全員、無理とは言いませんが、ほぼ全員無理です。
何故、若い者に占い師は難しいのか?
それは占い師に必要な最低限の経験値や成長が圧倒的に足りていないのです。
①一人一人に合わせた、その人らしい生き方を説く事も多々あります、つまり人生を説くお仕事ですか
ら一定以上人生を覚っていなければ指南が出来ません。
②本物の占い師になるには「本物」を学ぶしかありません、本物を学ぶのに最低でも10年以上かかり
ます、例え二十歳から学んでも本物を学ぶだけでもそこから十年以上かかるのです。
③物事の本質が分かっていない様では務まるお仕事ではありません、その「本質」を得るのに数年から
数十年掛かる。
以上の理由で若い人が占い師になっても現場で通用しない理由ですが、これら①~③の理由は若い人だけでなく四十代や五十代、六十代以上の人も同じ事が言えます。
「占い業や指南業」というものは「人生を覚り、物事の本質を得る、本物を習得する」最低限これらの事が出来なければ通用しないお仕事です。
故に「神秘論」に傾倒したり、「オカルト霊感」にかぶれたり、「心霊学」に染まったり、している人は論外です。
占いはどこまでも「本質的に人や社会の役に立つ為に在る」のです、つまりどこまでも「現実的問題を現実的に解決する」為に在るのです。
「占い」は「現実的なもの」なのです、このスタートから始めなければ占い師や指南者として「曲がり、歪み、濁ります」曲がった道は見通しが悪いです、歪んだ心では正しいものが観えて来ません、濁った水は飲めません。
占いとは皆さんが思っている以上に不必要な不純物で一杯なのです、古来より皆が少しずつ曲げ、歪め、濁して来てしまった結果なのです。
何事も「始まりが肝心」なのです「始まりが全て」です、スタート地点が間違っていたらいつまでもゴールには辿り着きません。
ですから其仙流は人格を養う修行に重きを置くのです、この「人格を養う修行」に十数年は最低でもかかります、又生涯を通して養い続けるものでもあります。
「物事の本質を得る」・・・これは想像以上に難しく奥が深いのです、「物事の本質を得る」事が出来ない占い師は本質的には人や社会にはお役には立ちません。
第八十九指南 オカルト霊感に染まった相談者
「こじらせた相談者」というものは様々います「人生をこじらせた、人間関係をこじらせた、仕事をこじらせた」などいますが、ここでは「オカルト霊感に染まり、こじらせた相談者」に絞って考えたい。
現実世界で生きていると人は誰しも苦しい時、不幸な時、理不尽な時というものはあります、又それが数年どころか数十年続くと、人は「これは何か前世の因縁なのか、不幸の星の元に生まれたのか、生霊のせいなのか」と現実的でない所に又、人の考えの及びもしない所に不幸や苦労の原因があるのではと考える人がいます。
気持ちは分かります、あまりに辛い人生が続くと皆さん生霊、悪霊などにその原因を求めてしまいます、でもこれは本質的では無いのです、「問題点は必ず現実に在る」のです、いくら「生霊や悪霊」のせいにしても問題の解決には絶対的に至りません。
又日頃から「オカルト霊感」を信じている人は「非現実的なものでも現実的に思考する」傾向があります、つまり「無いものを、有るとした前提で言動します」こうなったら周囲から距離を置かれたりしますので、更に人生をこじらせる事になります。
昔は「オカルト霊感」というものは皆さん興味はあっても一定の距離を置いていたはずがいつの間にやら、「現実的なものとして社会に受け入れられています」又「オカルト霊感というものがあまりに身近に有り過ぎる」のです、これはもう異常な状態と言っても過言ではありません。
「無いものが有る」という空想、妄想がまかり通る社会はどこか歪(いびつ)さを感じます。
「不幸や苦労の原因が生霊のせい」
「不幸や苦労の原因が前世のせい」
「不幸や苦労の原因が因縁のせい」
・・・よくこの様な事を見聞きしますが・・・一方で・・・
「不幸や苦労の原因は貴方の努力不足です」
「不幸や苦労の原因は貴方の判断力不足です」
「不幸や苦労の原因は周囲にも問題はありますが貴方の傲慢にも原因はあります」
どちらが現実的かは分かると思いますが、後者の方が本質的な問題解決の手掛かりが潜んでおり、現実的に解決しようとするからこそ「現実的に運も上がって来る、問題解決に至る、成長出来る」のではないでしょうか。
現実的問題の解決を非現実に求める人は「運に恵まれず、人生を豊かに生きてはいません」それは何故でしょうか?答えは簡単です、現実的な問題を非現実に求め解決してこなかったからです。
あまりに度し難い程に「オカルト霊感」に染まっている相談者には一定しっかりと向き合いながらも最悪はこちらからその相談者を切る事も考慮しないといけません。
「オカルト霊感」の全てを否定するわけではありませんが、問題解決の為には現実的に解決する以外に方法は無いのです。
第九十指南 占い師や指南者の修行とは
よく「修行」という言葉を聞いて「滝に打たれる、炭火の上を裸足で歩く、冬に川の中で念仏を唱える」などイメージすると思います。
相談者からたまに「どこで修行されたのですか?」などと言われる事がありますが、先に上げた様な修行は占い師や指南者には必要ありません、やりたければやれば良いですが、占い師や指南者に俗に言われる「荒行」などは別段しなくても構いません。
占い師にとっての修業とは「人格形成、実践、人生」の三つの修行です。
①「人格形成の修業」とは生涯を通して行うもので、これで「はい、仕上がり」などと言うものは存在
しません一生涯を通して「哲学」を深く学び、実践できるように練るのです。
②「実践の修業」とは二つあります、一つは「場数の経験」で指南の現場の場数をこなす、様々な相談
事を観るというもので所謂「数」をこなしていくというものです、もう一つは「一回の経験で深く
学ぶ」というものです、一人の相談者の悩みに心を砕き、これ以上は絞り出せない程に指南をす
る・・・という事です。初めは場数も大切ですが、次第に一回の指南で大きなものを得る事があり
ます、腕が立つに連れて次第に「場数」より「一回の経験から多くを学ぶ」事が重要となって来ま
す。
③「人生の修業」とは「人生を覚る修行」という事です「生き方や生きる姿勢」を説くお仕事ですか
ら、人生の何たるかを言える様になっていないとメッキが剥がれます。これは様々言える事なので萬
に通じておかなくてはいけません。「仕事、夫婦、家族、親子、人間関係、子育て、生きる、死ぬ」
などかなり多岐に渡り覚っていなければいけません。
これら三つの修業が所謂占い師や指南者の修行というものです、最低限これらを修めて初めて本格的に更に占法などの勉強をするのです。
滝に打たれたり、炭火の上を歩いたりする荒行の様な事は別段する必要は無いのです、それは修行僧などがするもので我々指南者には指南者の修業というものがあるのです。
何より「人格形成」が重要となります、人格を形成する修行です、人間性の中身を問う修行から始まり要らぬものを排除し実践を通しながら、ゆっくりと又人生を歩みながら次第に人間性に磨きが掛かって行きます、そして様々な事柄を覚って行き知らぬ間に「風格」を纏う段階に来て初めて「人格」が少し出て来たというものです。
人格形成は生涯弛まなく磨き続けなければ直ぐに落ちぶれくすみます、何度も言いますが、何より「人格形成」が重要です、腕利きの指南者、達人、名人の占い師に成りたければ「人格形成」を甘く見る様では到底無理な話しです。
第九十一指南 本物と紛い物の差
この占い業界には単純に分けて「本物」と「偽物、紛い物」の二種類しか存在しません、本来「本物と紛い物の差」は如何ともし難い程の埋め尽くせない差があるもので、素人でも何となくその差が分かるものでしたが。
昨今は占い業界も混沌としており、様々な思想の占法が日夜生まれ出て来る状況で又、テレビや雑誌なども占い師の人格や人物性の高低、占法の真贋などを加味せずに取り上げている始末、その結果一般人もスピリチュアルやオカルト霊感、神秘系、心霊系などの占いを信じる人が昔よりかなり多い状況となっています。
つまり現代は「本物と紛い物との差が無くなって来ている」のです、そもそもどうしてこの様な事が生じて来たのかと言えば「本物の基準」が分からないから起こり得るのです。
それでも昔は、オカルト霊感占いなどの紛い物の占い師は一定はいたものの、原理が間違った占法を使っている占い師でもしっかりと人格や人物性を磨き養っていたものですから、それなりに人生を説き運勢を指南できたものです。
今や占い師の人格も未熟な者が自分の信じる占法は絶対的に正しいと思い込み、相談者に「神秘、オカルト霊感、癒し系、前世占い」を交えたアドバイスをしている状態です、これではそう遠くない将来、「本物」を知る占い師や一般人はいなくなり「本物」は滅びる事でしょう。
もう一度、一人一人が「本物の占いとは?」と真剣に自分に問わなければいけない、厳しい段階に来ていると思われます、其仙流は占いは緩やかな滅びの段階にとうに来ていると判断しており、「本物」の基準を打ち出し、この業界の正常化、清浄化を図ろうとしています。
中国では昔から、「一握りの本物たちは占い業界の濁り歪み様に憂い世の陰に隠れる」か「一部の人間たちによって隠されてきた」かです。
又、中国では昔から「本物」を隠す為に「偽物を生み出し」世に流布させるという行為をして来ました「五行」「形貌派の相学」「命占」「方位学」などがそうです。
「嘘を100年言い続けたら、本当、本物になる」の言葉通り、嘘や紛い物を100年所か千年、二千年以上言い続け今や「偽物、紛い物が本物」とされ「本物が偽物扱い」される始末です。
この占い業界を真に憂う者ならば、ここは一度、目の鱗を落とし、思い込みを捨て去り、素直の心根でもう一度本物を問わなければいけないでしょう。
第九十二指南 専門馬鹿にならない
昔から「専門馬鹿になってはいけない」と言います、我々指南者で言えば「自分の好きな占法のみの研究ばかりをする」「自分の得意な相談ばかりに特化する」などでしょうか。
自分の占法が相学ならば相学ばかり研究、鍛錬するのではなく、易やタロットなど他の占法の事も出来るだけ深く学ぶ事は必要です。
又「占い業」以外の事にも目を向けるべきで「政治、国際事情、医学、芸能、ネット、哲学」など様々な分野に目を通す事が望まれます。
何故この様な事が必要かと言えば「視野を広げる、見識を深める、知識の幅を広げる」とする事によって「人間の幅、仕事の幅」が広がり総体的に人として成長出来るからです。
専門馬鹿になると「その専門分野の中の世界しか知らない」事になり、又下手をすれば「専門分野の中だけでの答えを出す」という非常に偏った選択肢を選ぶ可能性が大きいので、結果的に成長の伸び代が無くなります。
様々な物事や情報を取り入れながら、少しでも偏りをなくし、純粋な指南が出来る様になる為にこそ「専門馬鹿」にはなってはいけないのです。
昔からこの様な戒めの言葉があります「自分の好きな事で一角の人物に成るのは簡単だ、しかしそれはもう一つ本物ではない、自分の得意な分野以外の事も学んでこそ大きな器であり本物である」と言います。
第九十三指南 間違った指南をしてはいけない
「間違った指南やアドバイス」はしてはいけない事は指南者や占い師なら至極、当然です、ですが現実は違います、多くの占い師が自分は正しいと思い込み、間違った指南やアドバイスを日々繰り返し、プロ気取り、玄人顔をしています。
この「間違った指南」には二通りの意味があります。
①「間違った思想を元に指南をする」
②「間違った解釈を元に指南をしてしまう」
この二つは同じ「間違ったアドバイス」をしているのですが、根本の性質が全く違います、それぞれを説明しましょう。
『間違った思想を元に指南をする』
これは非常に根深く深刻な問題を孕(はら)んでいます、この状況に陥りやすい占い師は「神秘系、癒し系、オカルト霊感系」などに傾倒している占い師が大変多いです。
占法で言えば「スピリチュアル、ヒーリング、タロットを代表とする各種カード占い、前世占い、霊感占い」などです。
一つの例を出しましょう、スピリチュアルなどは「前世が有り、今世は前世の課題を消化する為に生まれて来る」と言う思想と「死者から生者に対するメッセージを伝える役割がある」という考えが主にあります、相談者が「現実的問題」で悩んでいても「前世の課題や死者からの伝言」に絡めたり「前世の課題や死者からの伝言」という「括(くく)り」でアドバイスをして来るので、いつまでも「現実的解決や現実的な問題解決の手掛かり」が出て来ません。
又この様な非現実的なアドバイスを信じてしまう相談者もいるので現場は非常に混沌とし、何が正しくて何が間違っているのか混乱して分からなくなり、占いを漠然と理解している者が更に漠然と曖昧な何でもあり状態へとなります。
「神秘系、癒し系、オカルト霊感」などは新興宗教の様にある種の「思想」に染まっているので一度これに染まってしまうと中々修正が出来ない心理状況に陥ってしまいます。
「思想」が決して悪いわけではありません、逆に「占法」には「思想が在って然るべき」と思いますが、「有りもしない世界観、自覚できない価値観、現実を迷ってしまう様な思想」は例外なく全て間違っています。
「思想」とは「人が持つ生きる世界観、生き方、処し方の一定の見解」を言います、つまり「現実感」から来るものです、それが今や「有りもしない、確認の仕様も無い、自覚の仕様が無い」様な「思想や価値観」を元に相談者にアドバイスをする様な「夢みる夢子ちゃん、不思議ちゃん」が「占い師ごっこ」をしている状況なのです。
我々指南者や占い師は「相談者の人生、運勢を預かる身」なのです「有りもしない世界観」つまり「非現実的な思想」を元にアドバイスをするという事は、間違ったアドバイスをするという意味なのです、能々自戒しないといけないでしょう。
『間違った解釈を元に指南をする』
これは「正しい占法」を使用しているという前提の話しになります、今こうしている間にも新しい占法が日々生まれていますが、この世の殆ど、実に99%の占法は誤りです、よって正しく運勢を観る事、謀る事が出来ませんので、ここでは省きます。
「正しい占法」とは「氣色や神氣などの無形を観る占法」という意味です、故に「無相」と「麻衣神相法」の二種類という事になります。
どの道、「占い」というものは「答え」が明確に存在し、明確に言葉に出来るものではありません、一定の「解釈」と言う段階があります。
一般的に言えば、「相学」では、「口や目や鼻などの各部位や氣色」などに一定の意味が存在しますが、最後には「総体的に解釈し更に言葉にしてアドバイス」します、タロットも「各カードに意味が付与されてはいますが、最後は総体的に解釈をしてアドバイス」をします。
各占法はこの「解釈」と言う段階を踏みます、この「解釈」を間違ってしまったら、そもそも論から誤った指南をする事になるので非常に注意が必要です。
先にも説明しましたが「間違ったアドバイスは間違った選択肢です、その間違った選択肢を信じてしまった相談者は間違った人生を歩む事になる」のです。
これは間違いなく「占い師の罪なのです」、昨今の占い師は「自分のアドバイスに責任を負う姿勢が無い」占い師が非常に多く情けない限りです。
『まとめ』
「間違った指南をしていけない」こんな単純で明白な事が出来ない占い師がこの日本の殆どの占い師の実態なのです。
では何故、この様な事態になるのでしょうか、それは様々な要因が背景にあります。
・本物の基準が一般に浸透していない
・平和ボケ(夢見る夢子ちゃんの出現)
・見識の低下(判断力が無い)
・テレビなどのメディアの質の低下
・占い師の勉強不足、覚悟不足、成長不足
以上が「間違った指南をする指南者が何故こうも沢山生まれて来るのか」の原因です。
そもそも「解釈」とは「意味を覚って言葉にする」事を言います、では何の意味を覚るというのでしょうか、それは「運勢の意味」です。
故に「運勢を正しく観る占法」とその「運勢を正しく判断し言語化できる占い師」が高い水準で求められるのです。
多くの占い師が「自己満足」に陥っている状況なので、大きな意識改革が無いとこの占い業界は非常に危機的状況にどんどんなって行くでしょう。
何はともあれ「相談者に本質的に必要な事を指南する」事は我々指南者の務めである事を忘れて行けません。
第九十四指南 指南者のお金儲けの姿勢
占い業に限らずですが「お金儲けに走り過ぎて信用を失った」という事はよくある事です、占い業で追加の相談を受けたら、すいません「追加の料金が発生します」などと相談者に伝えると「お金儲けに走っている」とか「占い師なのにお金儲け主義だ」とか占い師を「奉仕職」や「ボランティア」と勘違いしている相談者が沢山います。
これは全くの誤りです、「占い師や指南者」も「商売」です、確かに「聖職」ではあるものの商売である以上売り上げを追求する事は自然であり、当たり前の事です。
お寺の住職、神社の宮司なども全く同じ事が言えます、「聖職、神職」も皆さん「生活」があり又、「神社やお寺などの組織、団体、スタッフなど」を維持しなければいけませんから、当然「お金」が必要になります。
「神職、聖職、占い師」は「お金儲けをしてはならない」「お金儲けをする事は間違っている」と言う人は必要以上に「神職、聖職」を「神聖視し過ぎている」のです、これは正しく「神職や聖職」を理解していないので、「神職者、聖職者」たちが現場サイドで一般人に正しい事を伝えて行く事が重要です。
又、「お金儲け」と言っても実は大きく分けたら二通りあります。
①「単なるお金儲け」
②「利益追求、利潤追求」
この様になります、それぞれを説明しましょう。
『単なるお金儲け』
「単なるお金儲け」を「単純利益」と呼称するとして「単純利益」は「お金儲けをする事が目的」である、「志や意義があるお金儲けではない」と言う側面があります、これは度が過ぎたら「お金儲けの為のお金儲け」をする事となり終には信用を失う事になります。
但し「単純利益」を追求する事自体が決して必ずしも「不義なるお金儲け」と言う事ではありません、例えば、個人的な欲求を満たす為にお金儲けを求めても別段問題はありませんが、最低限守らなくてはいけない事があります。
それは「価値に見合うお金儲けをする」という事です、ここを無視したり軽視したりする「過ぎたるお金儲け」は「お金儲けの為のお金儲け」となります。
我々、指南者で言えば「正しい、意味と意義のある本質的な指南、アドバイス」が出来るかどうかです、決して「在りもしない世界観、神秘、心霊、根拠無きオカルト霊感」など「メルヘンやファンタジー」などを口にする様な指南者は「単なるお金儲け」をしている事になります。
又、原理が正しくない占法を使用している占い師も同じ事が言えます。
『利益追求、利潤追求』
「利益追求」は「利益を得てその利益を元に更に公私共に豊かになる為のお金儲け」つまり「社会的貢献や士民的貢献」がある「お金儲け」を言います。
言い方を変えれば「志や意義のあるお金儲け」と言えるでしょう。
この「利益追求」の姿勢は非常に素晴らしく、同時に大きな徳を積む事にも通じます、その目標や志が遂げられたら大きな利潤が循環し社会や他者が豊かになるものです。
例えば、スーパーマーケットの利益追求を例に取ってみましょう。
利益が毎月500万あれば「雇用が安定する、給料、賃金の安定」などは当たり前として更に「新商品を積極的に卸す事が出来ます、様々な商品の種類を豊富に陳列する事が出来ます、利益が上がった分セールが出来ます」などなど、「利益追求」は自分達だけでなく、顧客や地域、社会にも貢献できる側面があるのです。
我々、指南者で言えば「利益追求」をして「更に腕の有る人材を育成する為の環境を整える」「開運商品の為の素材の購入の為にある程度、値の張る高い素材も購入できる様になる」などなどあります。
『まとめ』
「過ぎたお金儲け」をする事は結局は信用を失い、信用を失えば売り上げ自体が入って来ない事になり、元の木阿弥となります。
お金は必要です、お金で解決する事は沢山あります、お金を求める事は何も悪い事ではありませんが、一つに「価値に見合うお代なのか」という事と、二つに「利益を追求して更にその先に意義があるのか」という事が高い水準で求められるのです。
「お金儲け」も「名声や名誉」も同じ事が言えます、「有名に成っても中身が有るのか」という事です、昔から「有名無力」と言う言葉があります、「世間的に名が知れ渡り、知らない人はいないが実力が無い、中身が無い」と言う意味です。
そんな占い師や指南者が今日もテレビや雑誌、ネットに出ています、「現実的な問題を現実的に解決する、手掛かりを示す」事が出来ない占い師は全て例外なく「お金儲けの為のお金儲け」をしており、その「名声」も「有名無力」なのが実態です。
「本物」の指南者と言うものは「有名有力、無名有力」のどちらかです、この様な指南者はどんなにお金儲けをしようが道を外す様なお金儲けをしません。
「有名有力、無名有力」どちらでも構いませんが、「お金儲けをする」のなら、それに「見合う価値と意義」が求められるでしょう。
第九十五指南 経験を積むという意味
指南業は大変、難しい仕事です「人生を説く、開運する為の道を示す、人生を豊かに生きる為の成長を示す」のですから、一定以上の哲学を養い、人格を磨き、見識を培っていなければ出来るものではありません。
故に生活する為に選ぶ「就職先」という認識では絶対的に無理です。
又、「本物」に成るには「本物から学ぶしか」ありません、そして「本物」から学んだら、「はい、本物です」ではありません、実践を経験し失敗、成功の積み重ねの先に徐々に「本物に成って行く」のです。
ダイヤモンドも初めからあの様な美しい輝きを発しているわけではありません、原石から何工程も経て美しい輝きを発して行くのです。
この「指南業」とは兎にも角にも「実践から得る学びが大きい」ものです、教室には真面目に通うがいつまでも「実践」をしない生徒さんはよくいますが、いつまで経っても「占いの本質は分かりません、腕も上がりません、占い業から得られる喜びも分かりません」これでは単なる「趣味」です。
一方、「実践の経験を積む」と言っても大きく分けたら二通りあります。
①数を熟(こな)す(場数を踏む、経験を多く積む)
②一回の経験でどれだけのものを学ぶか(回数ではなく内容、中身から深く学ぶ)
以上の二通りになります、それぞれを説明しましょう。
『数を熟す』
「場数を踏む」事は初心者の頃の先ず初めの必須の段階です、成功、失敗共に大切な経験で、初心者の頃の成功、失敗の経験はともに将来に腕の有る指南者となる為の大きな無形の財産と言えるでしょう。
昨今の占い師は「失敗」を極端に嫌い、「失敗」をしない様な占いのスタイルを取ってしまいがちです。
「解説、分析式スタイル」「オカルト霊感、前世占いの様な確認の仕様の無い占い」「スピリチュアル、神秘系、癒し系の様なメルヘン、ファンタジー色を出して本質的なアドバイスが出来ていない占い」などは「占いの成否」より「相談者の心に響くかどうか、相談者が共感を持てるかどうか、相談者が驚くかどうか」に重点が置かれており、「これが占いです」とは言えないものです。
この様なスタイルの占いの経験をいくら積んでも正当な経験ではないので本質的な意味はありません、又「ネットなどのチャット占い」や「占いの館などでの占い業」なども同じ事が言えます、「真剣な相談、命懸けの相談、人生の岐路に立った相談」をするのに普通チャット占いや占いの館などを利用するでしょうか?
多くの方が「真剣な相談の時は対面鑑定」をするはずです、故にチャット鑑定や占いの館などでいくら経験を積んでも正当な経験では無いのです。
正当な経験とは「街易、宅占」の事です、街易は昔から道端や商店街などの隅に机を出して客を待つもので、現代は道路交通法のお陰で中々難しいのが現状です。
「宅占」とは「家や事務所」などでお客を待つやり方です、昔は「街易を数年から十数年ほど経験し、腕を十分磨いたら、宅占を出す」というものが一般的なやり方でした。
一方、「場数を踏む」という経験は次第に中身の濃い経験が少なくなって来ます、それは自分の腕が上がって来たという事と似た様な相談内容を沢山経験して来るからです。
こうなると徐々に「場数」の問題ではなくなって来てしまい、「場数」で得られる学びの経験が希薄になって来ます。
この「数を熟す」経験はこの段階に来たら伸び代が極端に無くなって来ます、それでは次の段階はどうすれば良いのかと言えば、次に説明する「一回の経験でどれだけ深く学ぶか」という事です。
『一回の経験でどれだけ深く学ぶか』
徐々に経験を積み、腕が少しずつ磨かれて来ると、次第に「数に因る経験」からは深い経験が得られなくなって来ます、それでも経験は経験です、軽い相談、ありふれた相談でも真摯に謙虚に相談者には向き合わなければいけませんが、一回の経験の重さや深さのある内容を得られにくくなって来ます。
これは場数に因る経験を積んで来たという事と少しずつ腕が磨かれて来たという事から起こる現象です、こうなると次の段階へとシフトしなければいけません、つまり「一回の経験からどれだけ深く学ぶか」という事です。
例え巷にありふれた「恋愛の相談、仕事の相談、人間関係の相談」などでも一人一人その内容は微妙に違います、「どれだけ思い悩んでいるのか、その背景や情景に察するものが在るのか、その相談者を囲む環境が如何なるものなのか、この状況に至るまでの流れ」などなどを加味して観て行くと、中にこちらが深く学ぶ事があります。
昔から「名占に、学び在り」と言われる言葉があります、「名占」とは一言で言えば「凄い指南」という意味で「心に残る指南、深い感動を起こす指南、奇跡の指南、生涯忘れられない指南」などの事を言います。
どこまでも「相談者に真心から寄り添う姿勢」がなければ出来るものではありません、又「寄り添う」といっても「生温く安っぽい優しさ」を振りかざす様な「寄り添い」ではなく「毅然(きぜん)としながら相談者との適切な距離は取りつつ心の底から湧き出る一滴の優しさ」の様なものと言えば良いでしょうか、「馴れ合いでもなく、そこには気品がありつつも深い哀れみから滲み出て来る優しさ」です。
この様な心情から生まれて来る指南は時に一回の経験から「場数の経験」の100回分の経験を得る事があります。
「百回の書物から得る学びより、一回の実践から得る学びが大きく深い」ものです。
このたった「一回の深い経験」を得るかどうかは指南者の事前の「腕と心構え」に因ります、この域に達していない様な指南者はいつまでも「場数の経験」を続けるしかありません、つまり「本質的に腕が上がって来ません」故にいつまでも「場数の経験」しかしない指南者は限界があるのです。
『まとめ』
指南業の経験を重ねて行くと、「程度の低い相談、レベルの低い相談、幼い相談、未熟な相談、お粗末な相談、身勝手な相談」と「高尚な相談、レベルの高い相談、質の高い相談、真剣な相談」という様に「程度の低い相談と高い相談」とがある事に気付いて行きます。
「程度の低い相談ばかりをする相談者はその人間性や生き方も同じく程度が低いものです」故に「運が無かったり、運に恵まれません」又この様な程度の低い者は「真価、真意、高尚なもの、質の高いもの」を理解出来ないので、中々本質的に成長や開運が出来ないのです。
指南業はこの様な相談者が大半を占めるのです、初めは一つ一つの経験から多くを学びますが、程度が低い分、その経験から得る学びに次第に伸び代が無くなって来ます。
一方、「非常に質の高い、核心を突いた様な質問をして来る相談者」は「その質問の中に既に質の高い答えが潜んでいる」ので指南者側も観やすく的を的確に得た様なレベルの高い指南が出来ます。
故に「深い人格のある相談者、高い見識のある相談者、真剣な相談者」などのして来る相談内容はこちらも深く又時に多くを学べます。
しかし「人と相談に大小、高低、重軽はあれども、心の底から出て来る情を以ってして相談者に向き合う」とどの様な相談でも「一回の相談で深く学ぶ」事が出来ます。
「真剣な哀れみ、深い情け」つまり「真心」が有るか不十分かで「一回の経験からどれだけを学べるか」が決まるのです。
第九十六指南 養い難い相談者に如何に向き合うか
「養い難き相談者」とはよくいるもので、経営に成功してお金持ちの人でも、偉い政治家でも、病院のお医者様でも、その社会的立場が高いからと言って、その人物性も高いかと言えば、そうでない者も沢山います。
昨今は「本質的に賢くなくても、お金儲けに才がある人」「人格が出来ていなくても人生に成功する人」「物事の本質が分からぬ者でも幸せに生きて行ける人」・・・つまり「未熟者」でも豊かに生きて行ける時代、世の中となってしまった様で、非常に憂いの念があります。
昔は「本物でなければ成功しない」という一定の法則的なものがありましたが、昨今はこの通りでは無い様です。
しかしメッキはいずれは剥がれ落ちるものです、その時に自分の人生を代償に対価を支払う事になります。
この様な者を生み出さない為にも又、この様な未熟者と出会った時にどうすれば良いのか・・・それは「忍耐」の一文字です。
あの手この手で手を変え品を変え、哲学と物事の本質を教え説くのです、簡単に理解を示す様ならそもそも初めから「養い難き者」になっていません、「養い難き者」は「頑固で、自己流で、傲慢で、怠惰で独善」なのです、故に学びの姿勢に素直さを欠いている事が分かります。
先ずは「素直さの学び」から教え説く事からが第一歩でしょう、それでも学ぶ姿勢が成熟しない様ならその者の人生の伸び代は限界が生じ満足の無い人生となるでしょう。
第九十七指南 占いは万能ではない 其の二
九十六指南でも少し述べましたが、「どうしようもない相談者」というものはいるもので、どこかで「これ以上は無理と思い、その相談者を切るか奉仕の精神で更に寄り添うか」を判断しなければいけない段階というものが訪れます。
でも一つ言いたいのは「占い」は万能では無いのです、又我々指南者は如何に人の人生を説くと言えども、言葉を以ってしか伝え様がありません、その言葉をも介しない様な者を教え育てる事は非常に困難が生じます。
又、昨今は「占いは万能だ」と謳わんばかりの占い師がいる様で、困ったものです、「占い」とは「人生を説く、開運に必要な成長を説く、道を如何にすれば開く事が出来るかを教え説く」事が指南業の主たる所です。
当然、無理な事もあります、何でもかんでも観る事が出来るものでもありませんが相談者と指南者の知恵と工夫で少しずつ観える領域が出て来ます。
この様に「相談者と指南者のお互いが知恵を絞る事により」不可能を可能にして行くのです、つまり「相談者の真剣な姿勢と指南者の真心の姿勢が寄り添う事」で小さな突破口が開けるのです、これは小さな奇跡と言えるでしょう。
でもこれはお互いの努力が最大限あってこそなのです、「占いは万能ではない」で止まるのか、その先の可能性を見出すかは相談者と指南者の努力と知恵次第です。
第九十八指南 「指南」の言葉に責任を負う 其の二
第十四指南でも述べましたが、我々指南者は人生や運勢の指南をするのですが、その言葉に責任を負う覚悟でその指南なりアドバイスを口にしているのか?と問いたくなる時があります。
相談者によっては一回の指南でそれを心から信じ生涯心の支えにしたり、判断基準にしたりします、つまり人の人生を変える可能性がある仕事という自覚があるのでしょうか、非常に疑問と疑念が沸き起こります。
一方で「責任を負う」とは言え、「負い切れる」ものではありません、では何を負うというのでしょう、それはやはり「自分の腕の未熟さに言い訳をせずに素直に認める」事から始めるべきでしょう、その上で「指南業を辞める」「もっと自分を追い詰め腕を磨く」「弁償や賠償する」などを「覚悟」する事です。
指南に失敗したり、的外れな事をアドバイスしたりした上で、それを相談者の責任にしたり、言い訳をするなどの全く責任を負う姿勢の無い指南者は指南業に就く資格が無いのです。
指南業、占い業とは適当な事を言ってお金儲けをする仕事では無いのです、「真剣に相談者の人生に寄り添い、本質的に正しい一歩を歩める事を指南する事」に命懸けで挑む覚悟が求められる仕事なのです。
故に当然「指南に責任を負う覚悟」が求められて然るべきなのです、その真剣な姿勢が相談者に伝わり顧客となってくれるのが本質なのです。
耳障りの良い言葉、都合の良い言葉で相談者を顧客とした所で一時的に過ぎません、しっかりと定着してくれる顧客とは「指南の言葉に責任を負う覚悟」に信頼をしてくれる相談者が本物の顧客と言えるでしょう。
第九十九指南 指南者に成ってからが本当の修行である
「指南者や占い師」というものは先ずは「指南者、占い師に成る為の修行」が求められます、其仙流では「各占法の学び」「人格の学び」「哲学の学び」「運勢学の学び」「運の原理、原則の学び」「他占法の誤りの学び」その他諸々あります、でもこれらを修め晴れて指南者になってもまだまだ未熟です、ここからは実践的に学んで行くのです。
「本を読んで占い師に成った」「通信講座で指南者に成った」「十回の講義を修めたから占い師」・・・などという者は論外でこれではいつまでも経っても「本物」には成れません。
指南者や占い師というものは「先生や師」という存在がいなければ伝え様にも伝え切れないものがあります、「先人や師の経験から学ぶ」事もあります「言葉を超える学び」もあります、先ずは「学問的に学び」その後に「実践的に学んで」行くのです。
先ずは指南者を目指す初めから死ぬまで「素直」は必須となります、「素直」を生涯一貫して腹に据える事が先ずは「学ぶ姿勢を心得た」と言える段階です、これを中途半端にすれば必ず限界が生じます。
この「素直さ」というものは学問的に学ぶ段階から実践的に学ぶ段階、又その後のプロになってからも生涯必要な精神です。
では「実践的に学ぶ」とは何でしょうか・・・それは「学問的に学んだ」事を「実践で生かす」事と「相談者から学ぶ」の二つが言えるでしょう。
特に「相談者から学ぶ」はかなり重要な事で「学問」も当然重要ですが、「相談者から学ぶ」という事は「経験から学ぶ」事なのです、「学問的に学ぶ」段階は「知識を得る」段階で、これだけでは通用しません、「知識」を得てその上で実践し「経験を得る」のです。
これが又大変な事で、其仙流の先人の言葉で「百場千場(ひゃくばせんば)」という言葉があります、これは「指南の現場、相談者一人一人の悩みは似た様なものあるが、実は一つ一つ違う、百人の相談者、千件の相談、どれ一つ同じものは無い」という意味です。
一つの指南の現場を大事に出来ない様ではまだまだ未熟者と言えます。
又、先人の言葉で「百の教授より一の実践」という言葉があります、「百回の講義を受けても、一回の実践」が勝るという意味です。
どちらの言葉も「実践から学ぶ」事の大切さを説いたものです。
第百指南 奥を探る姿勢
指南業というものは兎角「奥を探る」事が求められます、例えば相談者の相談内容に「隠し事、少しの誤魔化し」などを含んだ相談をする相談者がいます、例えば「不倫問題、同性愛、借金問題」などです。
これを真に受けてそのまま指南に入った所で場合により相談者は響かない、ピンと来ない事があります、それは当然な結果なのです、「相談内容に欠けが生じている」から正確に占えないのですから。
でも、素人の指南者なら仕方ありませんが、更に上を目指し玄人になりたいのなら、又既に経験豊富な指南者ならば、その「言いたくない心情を汲み取って指南すべき」なのです、これも玄人の指南者の一つの心得です。
「言いたくない事情がある」のですから「言いたくない」のです、当然全て包み隠さず言ってくれる事が望ましいのですが、場合によりこちら側が察してあげる事も必要なのです。
又他の場合にでしたら、「生き方が非常に生温い」相談者に「社会は厳しい、生きて行く事は戦いだ、仕事とはある意味競争だ」と説いた所で「本質的でない生き方をしていない」という段階ならばある一定以上は厳しさを説くにしても、本人がその厳しい生き方を嫌がっている以上は本人が気付くまで待ってあげる姿勢も求められます、例えそれが十年二十年掛かろうが、そこに寄り添う事が出来ない様な指南者は腕が有りません。
この様に指南の現場では「奥を探る」事が求められるのです、この「奥を探る」という事が余裕を以って出来る様になって来ると少しずつ玄人の領域に入りつつある段階と言えるでしょう。
第百一指南 指南者の正しい姿勢 其の一
今までも散々至る所で言っていますが「占いとは神秘な側面があるにせよ、癒しの側面があるにせよ、当てものの側面があるにせよ、摩訶不思議な側面があるにせよ」その本質は「現実的問題を現実的に解決する術(すべ)」です。
ここを間違うと、その指南者の先々の伸び代はやがて限界が来ます、逆に「相談者の害」と成り得ます。
指南業に正しい姿勢で臨むには「正しい占法を正しい師から学び修め、又正しく取り組む姿勢を生み出せる人格を養う」事で初めて得られます。
つまり「そう簡単に占い師には成れない」「一人前の立派な指南者に成るには十年以上の相当な時間と経験が必要」という事となります。
「指南者の正しい姿勢」とは幾通りかに言えますが、ここでは先ず「相談者の目線」になっているか?が高い水準で問われるものだと自覚すべきです。
「相談者の問題が解決する指南」「相談者の人生を進める為の指南」「相談者が安心する指南」「相談者が覚悟が出来る指南」「相談者が気付いて行く指南」これらは大きな意味合いで「相談者の目線」になる指南の姿勢の現れです。
当てものや神秘にかぶれ、それらをいくら相談者に伝えた所で相談者の求めていないアドバイス、本質的に役に立たないアドバイスならば左程の意味もありません、指南者の先ず初めに必要な正しい姿勢は「相談者の目線になる指南」を心掛ける事です。
第百二指南 最善の更なる最善、改善の更なる改善 其の二
「如何に真に迫る指南が出来るか」の為に「最善の最善、改善の改善」を心掛ける事は当然大切として、更にその上を行くとしたなら「今から何を観る」の「観念」は「豊かに考えたい」ものです。
「観念」とは占法を使用する直前の段階で「今から何を観る」のかを設定する事を其仙流では「観念」と定義しています。
この「観念」を漠然と捉えている占い師も沢山います又「観念」の重要性を説かない占法も沢山ありますが「観念」の段階を踏まない占法は紛い物の一つの特徴と言えますし、「観念」を履まない占い師も偽物を言えます。
この「観念」が上手く出来たとして相談者も指南に納得をして価値を感じて頂いても、もう一段上の指南者は、更なる「観念」は出来ないものか、何か見落としが無いかを慎重に観る為に更なる「観念」を考える事は重要です。
相談者の求めている答えが「是非」であっても「是非を超える指南」や「是非に当てはまらない指南」をする時などがあります、その様な時にも「豊かな観念」というものは高い水準で求められます。
この「豊かな観念」とは様々言えますが、兎角気を付ける事は「漠然と観念しない」「漠然とする場合は可能な限り具体性を追い求める事」その上で「様々な角度からの観念」を言います。
角度とは「横幅の角度」から「角度を高める」という視点、更に視点を絞ってみるなど幾通りか言えます、単に「観念」の数を増やすという事ではなく、その「性質をも変えて観念する」習慣を持ちたいものである。
第百三指南 占いとは「学問」である
よく皆さん「占いとは学問」なのか「占いとは精神力、霊能力」所謂「能力」なのかと考えてしまう事は無いでしょうか?
答えから先に言いますと「学問の側面と能力の側面と両方ある」のです、更に厳密に言うなら「学問に重きを置きつつ能力を磨いて行く」のです。
「能力」と言っても「霊能力、スピリチュアル、宇宙人とチャネリング」などは一度横に置くとして、ここでは「現実的に人が持っている生まれながらの力」の事を言います。
「学問」とは「指南者としての人格形成を養う為の哲学」「運勢学」「指南者としての心構え」「運勢の法則」「占法の原理、原則」など多岐に渡ります。
一方「能力」とは其仙流に於いては「無相」が代表的な占法となります、他には「千里眼」「直観力」なども「能力」と言えるでしょう。
「能力」はその鍛錬に「生まれながら」では限界があります、例え生まれながらに「千里眼」が使えたとしても先生や師から能力の磨き方や鍛錬法を学ばなければ限界が生じます。
又「能力」だけを手に入れたり盗んだりしても限界が来ます、何故ならば「能力」は「その人物性に裏打ちされた所から発せなければ、相談者に見抜かれるから」です。
故に「学問に重きを置く事が重要となる」のです。
第百四指南 相談者や相談内容を選んではいけない
間々いるのが「恋愛専門の占い師になりたい」「女性だけの相談者相手の占い師をしたい」など「相談者」や「相談内容」を選ぶ占い師が時にいますが、これは全く以って論外の占い師のやる事です。
様々な相談を受けてその積み重ねの先に得意な相談の分野が「恋愛であったとか人間関係であった」「女性の相談に明るくなった」などという事は構いませんが、初めから「間口を小さく」する様な、「相談者を選ぶ、相談内容を選ぶ」様な占い師は結局は限界が来てしまいます。
人の人生は「この世に生まれ落ちて死ぬまで連綿と一本の糸の様に連なっている」のです、その一本の糸のある箇所は恋愛、ある箇所は仕事、ある箇所は人間関係という様にそれぞれの運勢や生き方があるのです、恋愛の部分だけを切り取って運勢を語っても人生全体、運勢全体を観る事が出来ない様なら正確で本質的な指南は出来ません。
恋愛を上手く行く様にする為に仕事が深く関わって来る可能性もあります、仕事を上手く成功させる為に事前の人間の養いが必要になる可能性も十分にあります。
「恋愛運」が「恋愛」だけの要素で成り立っているのではないのです、「仕事運」が「仕事」だけで成り立っているのではないのです、様々な要素が絡み合い「恋愛運、仕事運」を成すのです。
故に占い師は「萬(よろず)」に通じていなくてはいけないのです、「相談者や相談内容を選ぶ」様な占い師は自分で「腕がありません」と言っている様なものなのです。
どんな相談者にも、どんな悩みにも真剣に応じる構えは初歩の初歩に学ぶべきものです。
第百五指南 生き方にどう取り組むかの指南
昨今は恵まれ過ぎてか平和ボケのせいか「生き方が上手くない人」がいる様です、ある意味「可哀想でもあり、情けなくもあり」日本の行く末に憂いの念を禁じ得ません。
「仕事をするのが嫌」「自分だけ不幸」「いつになったら幸せになるのか」・・・この様な相談は非常に多いのですが、確かに中には苦労されている相談者、不幸の相談者などいるものの、一方で「既に恵まれいる」という自覚はどこかに失っている様に感じます。
人は果ての無い欲望を持っています、満たされても満たされても、尽きる事の無い欲望・・・「足るを知る心」を養いたいものです。
指南業や占い業とは結局の所、「生き方を説く」仕事です、その生き方は個人個人違います、「個人にあった生き方を説く」事が指南業なのです。
指南者が「現実的に相談者の人生を如何に生きるか」を指南しなければ本質的な腕などは微塵もありはしません。
では「生き方だけ」を指南して良いのか・・・それではまだ不十分です、「自分らしい生き方」をするには「人格を養う、物事の本質が分かる様に見識を磨く」などが一定仕上がって初めて「自分らしい生き方」が出来るのです。
仕事や人間関係など日々の日常の中に於いて、それぞれを通して「自分の生き方にどう取り組む」かが問われるのです、故に指南者たる者「生き方にどう取り組むか」を指南できてこそ指南者と言えます。
「占い」は「運勢を占う」という側面と「生きる心構え、取り組む姿勢」などつまり「精神論」の両面があります。
「占う」とは「運勢や物事の吉凶や行く末、流れを謀る」という事を言いますが、困難を乗り越えるとか成功するには「成長」が求められます、この「成長」には人の「精神」が深く関わって来ます。
「漠然と生きる人は漠然とした人生となります」「心がグラグラ、ダラダラしていると人生もグラグラ、ダラダラします」逆に「何かを成そうと相当な覚悟をすると人生に大きな軸ができ揺らぎが無くなります」「一見不可能な事も情熱を以って事に当たれば可能となります」・・・この様に人生は「心の在り様」で様々に変化します。
故に「占い」は「運勢を観る」事と「心の在り様や精神」を説く事の両面を指南すべきなのです。
しかも「心の在り様」は一般常識や感覚的に指南してもいけません、「その人らしい本質的な心の在り様」を説かねばいけないのです、「心の在り方」は誰にでも当てはまる事と本人特有のものとあるのです。
困難や災難も本人の取り組み方で乗り越える事も出来ます、すでに幸せでもより豊かにする事も出来ます、人は立ち留まるとその時点から少しずつ「後退」を始めます「運勢」も同じ事が言えます、「運勢」は「本人の器」と密接に関係しています。
小さい器には小さい運しかありません、大きな器には大きな運が入ります、その「器」を大きくするのも小さいままにするのも「本人の心の在り方」となるのです。
第百七指南 見下す事無きお説教
「指南業」をしていると間々ある事は相談者から「まるで人生相談に来たみたい」とか「お説教されに来たみたい」など耳にする事があります。
「指南業や占い業」とは「開運を提供する、本質的な成長をアドバイスする、生き方を説く」事が「占いの本質」なので当然「人生相談的な指南」や「時にお説教になる」事も有り得ます。
但しここで注意が必要な事は「お説教」とは言え「見下す事無き様に」腹に据えないといけません。
「ついつい見下す」は相談者が敏感に察します、こうなると高確率でこの相談者は二度と来ません、これは単純にお客さんを失ったという事ではなく「相談者自身の成長の機会を失った、邪魔をした」事になるのです、これは非常に深く受け止め考えなければいけない事です。
相談者を成長させる事が指南者の務めの一つであるにも関わらず、その機会を指南者自ら壊す事をしては本末転倒な事です。
愚かな相談者や未熟な相談者を指南者がついつい見下してしまう・・・初心者から中級者によくある事ですが、よくよくわきまえないとこれが原因で指南の腕に限界が生じます。
物分かりの良い相談者はお互いに気持ちも良い指南が出来るものですが、未熟で愚かな相談者程「自ら首を絞めている、傲慢、独善、未熟な思い込み」などをしますので、こちらも次第に心が疲れて来るのですが、能々考えてみたら、その様な相談者が殆どなのです、その様な未熟な相談者を育てる事が指南者の務めなのです。
第百八指南 指南者の報酬
「指南者の報酬」とは所謂「お金」です、お金はとても大事です、又占い師や指南者が「お金儲け」をすると一定いるのが「占い師がお金儲けをしてはならない」とか「あの占い師はお金儲けに走っている」とか「占いは聖職だからお金儲けをする様な占い師は卑しい、不浄な者である」・・・などと間違った認識があります。
「占い師」も商売ですので「お金儲け」は当然やるべきです、又お金という報酬があるから「間違ってはいけない」という意識が生まれるのです、「占い師=聖職」ではあるものの「お金儲け=卑しい」は間違いなのです。
日本に於いても占い師以外の聖職者は沢山います、「神道の禰宜(ねぎ)や宮司」「お寺の住職」「教会の神父さん」なども当然一定「お金儲け」をしているから生活が出来るのです、「聖職」を不必要に神聖視し過ぎている結果「聖職者はお金儲けをしてはならない」という誤った認識が生まれたのです。
故にお金儲けはどんどんやるべきですが、一方で「指南業」の報酬は本当に「お金」だけなのでしょうか?
ここには大いに否定をしたいのです、「長い月日、年月を掛けて相談者が本質的に成長する」「相談者の深刻な悩みが解決、解消された」「相談者の重い病が完治、改善された」・・・この様な時には「お金という報酬を超えた報酬がある」のではないでしょうか。
「相談者の真心からの感謝や笑顔」はお金には換えられない無形の価値があるはずです、それはいつしか指南者の「腕や信頼、信用」という「無形の財産」となって行くはずです。
第百九指南 現実を語るのが指南業である
相談者に時にいるのが「神秘論に傾倒している」「オカルト、霊感に傾倒している」などという所謂「メルヘン、ファンタジー」に浸っている相談者です。
「神秘やオカルト、霊感」などを一般人に喚起、助長させる占法と言えば「スピリチュアル」がその代表ですが、その他にも「シータヒーリング」など「ヒーリング全般」「前世占い」「タロット占い」「占星術」などがあります。
日々起こる問題や悩みは「現実的に起こっている問題」のはずですが、その解決法や問題の原因を「メルヘンやファンタジー」に求める相談者がいます。
これは恐らく様々な原因が考えられますが、「相談者に思考する力が無い若しくは弱い」「相談者本人が夢みる夢子ちゃん的な思考法を持っている」などが十分考えられます。
一方で占い師や指南者側にも「メルヘンやファンタジー」を助長させる発言をする者がいる事がこれまた大問題です。
「今の不幸の原因は前世の業の問題です」「創造主が貴方を守って下さります」「貴方の守護霊が悪霊に負けているせいで今の問題が起こっているのです」など問題を「現実的に解決できない、乗り越えていけない」発言や指南をする指南者がいる事により、それを信じる相談者がこれまた困った事に増えて行くのです。
「現実的に起こった問題は必ず現実的に解決すべき」なのです、又「メルヘンやファンタジー」で問題は解決しません。
故に指南者や占い師は相談者の問題点や悩みを「現実的に解決する」心構えが求められるのです。
長い事、指南業をやっていると「神秘的な出来事」「オカルト、霊感と思ってしまう出来事」に遭遇する事も時にありますが、一番大切な事は「何が神秘で奇跡で、何がオカルト霊感なのか」という核心を得ていない思考でその様な事を考える事自体問題があるのです。
孔子曰く「鬼の事は語らぬ」という格言を現代占い師の多くにその胸に矜持の如く持ってほしいものです。
原文は「不語怪 力 亂」です、読みは「子は怪力、亂神(らんしん)を語らず」で意味は「孔子先生は、有り得ない力、如何わしい神霊や鬼の事を語らなかった」という意味です。
孔子はこの様な事を妄りに語る事は人心を惑わす下卑た考えだと強く戒めています、現代占い師や指南者はこの事を強く腹に据えるべきでしょう。
「占いは現実的問題を現実的に解決する術」なのです。
第百十指南 運勢を観る
指南業や占い業というものは「個人個人の運勢を観て吉凶を判断し、人生の歩み方、生き方を説く」というお仕事です。
ここで一つ重要な事は今までも何度も言ってきましたが「運勢を観る」という事が殆どの占い師が出来ていない事実です。
タロットをいくら駆使しても、それは「タロットカード」を見ているのであって「運勢を観ている」事ではない。
いくら命占、命式に精通しようが、生年月日では個人の運勢を観る事は出来ません。
いくら前世論を語った所で、前世などを観る事は基本的に叶いませんし、「前世と運勢には因果関係はありません」ので意味はありません。
「個人の運勢を観る」という行為は言葉のまま「運勢を観る」事が出来るか出来ないかです、「運勢を直接的に観る」事が出来て初めて「占い」なのです。
正しい原理に基づいた占法一つであらゆる事に通用し、観る事が出来るものが「本物」なのです。
「運勢を観ているつもり」ではいずれ限界が来てしまいます、真剣勝負の相談、命懸けの相談などに「占い師ごっこ」をしている様では高が知れています、運勢を観る事が出来て初めて占い師なのです。
第百十一指南 個人の課題に寄り添う指南
指南業や占い業とは大まかに分けると第三指南でも述べましたが「是非を述べる」相談か「課題を述べる」相談かに分ける事が出来ます。
「是非」とは「良い悪い」「進むべきか退くべきか」など物事の「可否や成否」を観る事です、ですが「是非」を述べても「開運」には中々至りません、「開運」には「成長」が加味されるからです。
その「成長」を加味した指南やアドバイスは「課題」となります、この「課題」は場合により数年、十数年掛かり数十年掛かる事もあり得ます。
この「課題」を真剣に又相談者の心に響く表現力を用いながら指南が出来るかは高い水準が求められます、故に「相談者に寄り添う指南」とは「課題に寄り添う指南」とも言えるのです。
何故「課題を述べる指南」はそれほど難しいのか・・・それは相談者の「理解力や成長、学び、努力」などが問われるからです、当然時間が掛かります、課題を乗り越えて行くと状況、流れ、人間関係、生き方、信頼関係などが変化して来ます、でもこれらの事はそう簡単に変化しません、悪い方に変化はしやすくとも良い方向に変化するにはそれなりの本人の成長が求められます。
この「本人の成長」が「課題指南」の最も難解な所と言えます、自分本位な成長しかしない、独善的な生き方、我流な生き方、自己主張に過ぎる態度などを人は大なり小なりします、この「未熟な自我」が「本質的な成長」の邪魔をしますが本人は正しい成長と思い込んでいたり、成長の足かせになっている事への気付きにもう一つ達していない事が問題となります、故に「課題指南」に力を出せる指南者を目指すべきなのです、「是非を正しく、正確に述べながらも」「課題指南に寄り添える」指南者を目指したい。
第百十二指南 幸せの定義
ここはあくまで「幸せの質をより上げるには」に重きを置きます。
「幸せ」とは「個の充足感」を言います、要するに満たされているかどうかという事です。
でも、それぞれの人の立場で「幸せの在り方」はあると思います、「お金持ちになり裕福な生活を送る事」「芸能人や俳優になり成功する事」「研究者になりその研究でアカデミー賞を取る事」などなど人それぞれ「幸せの在り方」は違うでしょうが、ここに一定の正則的なものを加味するとしたらどうでしょうか。
先ず「高い人格性を有する」次いで「本質的な開運」これらの二つが最低でも加味されない「幸せ」は「本質的」でない可能性があります。
社会的に成功しているからその人格性も優れているかどうかは別の問題です、公務員でも経営者でも犯罪を犯すのがその根拠です、故に「個の完成を目指す事」は非常に重要となります、その手掛かりは「東洋哲学」にあります、「東洋哲学」を学び、実践しながら人格を磨き養って行くのです。
又「本質的でない開運」・・・独りよがりな成功、独善的な二代目社長などなど他にも様々あります、一方「本質的な開運」とは「物事の本質を得る」生き方、経営、判断を重ねて得た幸せや開運を言います。
我々、指南業に就いている者は「物事の在るべき本質」を一定得ているからこそ、人に説く事が出来るのです、報われない職場、パワハラな職場の相談者に軽々に転職を勧める占い師が大変多いものですが、それが本当に転職が必要なのかは玄妙な判断が求められます、理不尽や不条理の中で底力や忍耐を養う段階、自分と向き合う段階などの時は帰って転職をしてはいけない事もあります。
我々、指南者が「幸せの本質」を心得ていないと俗なアドバイスしか出来ない事になります、時に指南やアドバイスは高潔で高尚なものを求められます、その様な時に「本当の幸せ、本当の不幸」とは何かを悟っていなければ「在るべき指南」は出来るものではありません。
第百十三指南 熱のある指南、温度のある指南
指南業や占い業は相談者に「生き方や人生を説き、成長をアドバイスし、開運を提供する事」です、簡単に言うと人にアドバイスするのですが、それが「仕事や生き方、人間関係にどう真剣に取り組むかが加味されて然るべき」なので、単純に「アドバイス」と言っても淡々と理屈を説明すれば良い、という事ではありません。
そこには「情熱や温度」が求めれます、この「情熱や温度」は自分達、指南者や占い師の仕事や相談者に対する「取り組み方そのもの」です、真剣ならば自然と熱が入ります、どこかお金儲けが優先されているとか、神秘やオカルト霊感、メルヘン、ファンタジーでアドバイスし問題の解決をしようとするとどうしても、「熱が歪(いびつ)に伝わる」ものです、これは分かる人と分からない人と別れます。
熱を帯びるからこそ相談者に指南やアドバイスが伝わるのです、相談者の中には都合の悪い指南や受け入れ難い指南を拒否したり否定したりする相談者もいます、その様な相談者にこそ「情熱や温かさ」を以って指南する事が必要なのです。
但し「熱や温度」が必要であると言っても、「過剰な温度」はこれまた逆効果ですので注意が求められます、「熱すぎる」と「空回り」したり逆に相談者に「熱が伝わらない」事になります、どうやってアドバイスを相談者に伝え様かと指南者側が思ってついつい思い余って熱が入り過ぎる事も間々あるものですが、ここは注意点です、熱はどれ程熱くても構わないですが、相談者に伝える「熱量」には一定の配慮が求められます、ここは時に微妙が求められる事があるので慎重さが必要です。
熱のある指南ともう一つ熱の無い指南・・・どちらの指南に人は心が響くのでしょう、深く考えたいものです。
第百十四指南 正しい取り組みがあってこそ
個々の占い師や各占法の真偽はあるにせよ、そもそも「指南業や占い業」というものは時に「玄妙を指南」「人生を指南」「吉凶を指南」「成長を指南」「開運を指南」するわけですから、当然「然るべき取り組む姿勢」というものは求められるわけです。
・当てものをする占い師は「当てる事に終始します」から相談者の悩みに寄り添いません、又心に響く
指南が出来ません。
・スピリチュアルやオカルト霊感占いなどはメルヘンやファンタジー、根拠無き神秘などで問題の解決
を図ろうとしますのでいつまで経っても現実的解決をしません。
・タロット、易、四柱推命、姓名判断などは予め決められている答えに当てはめをするので、いつまで
も「理屈を超えた指南」が出来ませんので、正しい運勢の道筋が観えて来ません。
それぞれの言い分や主張はあるにせよ、一番肝要なのは「正しい取り組みがあるからこそ、正しい指南が出来る」のです、だからこそ相談者は納得してくれお代を払ってくれるのです。
正しい取り組みとは・・・
① 現実的問題を現実的に解決する姿勢。
② 相談者や悩みに真剣に向き合う。
③ 自分の常識や価値観、判断力などを一度ゼロにする。
④ 相談者や悩みから逃げない。
これら四つ以外にもあるかもしれませんが、恐らくはこの四つに集約されるのではないでしょうか、それぞれを説明しましょう。
①現実的問題を現実的に解決する
多くの占い師が出来ていない代表例がこの「現実的問題を現実的に解決する」です、神秘思想やオカルト霊感などメルヘンやファンタジーで現実的問題は絶対的に解決しません、例えば前世が在るか無いかは一度横に置くとしても現実の問題の原因が過去生にありますと言われた所で問題は一向に解決しません。
現実的問題の解決法は「必ず現実にある」のです、当然「解決しない問題」もあります、この様な時も現実的にどう乗り越えればよいのか、どう受け止めるべきかなども現実的にアドバイスする姿勢が「本物」と言えるでしょう。
時に理不尽な苦労や不条理な状況が続く事も人の人生はあります、でもそれが本当に無意味で無価値な苦労かどうかは別の判断が高い水準で求められる事も多々あります、その様な時に非現実的に問題に取り組んでもそれこそ無価値で無意味な事でしょう。
指南者たる者どこまでも「現実的に指南すべき」で、これが出来ない様な夢みる夢子ちゃんやメルヘン、ファンタジーの思想に染まった様な指南者や占い師は偽物か占い師ごっこをしている者です。
②相談者や悩みに真剣に向き合う
①とかぶる所もありますが、「相談者や悩みに真剣に向き合わない」占い師は大勢います、例えば「相談者を選ぶ」様な占い師、当てもの占い師もこれに当てはまります、当てもの占い師は当てる事に意義があるので相談者の相談や悩みを解決又は解決に至るヒントを探ろうとしません、他には相談内容に対して高を括り見下す占い師もいます、例えば人間関係やコミュニケーションの苦手な相談者が職場での人間関係に悩んでいる様な相談で相談者を心のどこかで馬鹿にしたり見下したりする事もあります。
これらはほんの一例に過ぎません、他にも様々な形で占い師や指南者が「相談者や悩みに真剣に向き合わない」事はあります。
相談者や悩みに真剣に向き合わない限り、相談者の心に響く指南やアドバイスは出来ませんので、いつまで経っても腕は上がりません、「相談者や悩みに真剣に向き合わない」占い師は占い師以前の問題で人として、又社会人として一から哲学を学び直し、自分作り人作りを見直す事が必要です。
誰しも初めから「立派」では無いのです、誰しもが幼く未熟な段階があるのです、それを教える事も占いの仕事の範疇なのです。
③自分の常識や価値観、判断力などを一度ゼロにする
これも多くの占い師が出来ていない事です、例えば「不倫は絶対的にいけない事である」という思い込みが過ぎ、どの様な不倫に対しても「戒める指南しかしない、否定的な指南しかしない」とか「不倫恋愛の相談は見ません」と主張する占い師も多くいます。
他には「お金儲けの相談」は受けませんとか様々あります、占い師個人の価値観や常識を指南に盛り込んだり、前提として自分の判断力や見聞を元にアドバイスをする事自体「運勢を観ていない」事になるので論外となります。
本当に運勢を観る事が出来るならば、例え不倫でも上手く行く場合も稀にあり、お金儲けをする人でもあってもしっかりと社会貢献をしている人もいます。
自分の価値観や考えを指南の軸にする様な占い師は未だ未熟な段階にいる占い師と言わざるを得ません、運勢を観る時はどこまでも「無、素直」に観る事、自分の人格が未熟な段階や哲学の学びが浅い時などは特に注意が必要となります。
④相談者や悩みから逃げない
これもよくある誤った占い師のやる行為です、占い師たる者、指南者たる者決して「相談者や悩みから逃げてはいけません」これが出来ない様な占い師なら占い師をやる資格はありません。
相談者によっては非常に難しい問題や高度な相談を持ち込んで来る相談者もいます、経営の相談、病気の相談、政治の問題、他にも様々あります。
後は女性の相談者しか見ません、とか二十代~四十代の相談者しか見ませんとか性別や年齢制限をする様な行為もこれに当てはまります。
指南者や占い師が相談者や相談内容を選ぶ様な事をしてはいけないのです、この様な事をする占い師は当然底力が養われませんので限界が来ます。
「どの様な相談者でも、どの様な相談内容でも観る!」という覚悟の元に指南に取り組むと自然と腕が上がって来ます。
【まとめ】
この様に現代占い師の多くは「正しい取り組み」が出来ていない者が殆ど若しくは思い違いしている者が殆どです。
正しい本物の師や先生から教わらない事がこの様な事を招く大きな原因です、つまり運勢学や占いというものを自分勝手に理解したり、自分都合に解釈したりする事を重ねた結果が現代の占い業界なのです。
時に人の人生、地域の先々、企業の行く末を左右しかねない事を口にする務めです、正しい取り組みを心得ねばいけません。
決して自分都合な価値観や思い込み、正義感などを振りかざして良い仕事では無いのです、世は無常と言います、右にも左も都合よく傾いてはくれない・・・それが自然であり、運勢であり、理なのです。
何が正しいかを謀るには先ずは「東洋哲学の学びを深く」する事により、物事の本質を得る事から始めなければいけません、物事の本質を得る、道を得る、本物を得る事によって正しい取り組み方が次第に分かって来ます。
第百十五指南 核心を突いた指南
指南と一口に言っても、嘘や誤魔化しの指南は論外ですが、相談者から間々言われるのが「具体的に言って下さい」と言われる事があります。
一見して、これは「指南者が言葉足らずなのかな?」とか「漠然と解釈し過ぎなのかな?」とか「表現力が足りていないのかな?」と思うかもしれませんが、運勢を正しく観てもこの様な事は起こり得ます。
そもそも「人の目には見えない運勢というものを観る」のですから、言葉の表現には一定の限界が生じる事も当然あります、事前に表現力の鍛錬や養いも必要ですが、どう言葉を表現しても相手が理解出来ないという事が生じる場面があります。
これは相談者が「思考する」という事に不慣れな人に多いもので、殆どの原因が相談者の「考える力不足」に因る事が圧倒的に多いです。
ですが、指南者側も「核心を欠いた」指南をいくらしても相談者が考えられない、想像できないという事態に陥る事は多々あります。
目に見えない運勢を観て解釈して言語化するのですから当然、ある程度の漠然的な表現にはなりますが、そこに「核心を突いた指南」が出来るかどうかで多くの相談者が納得するかどうかが問われます。
漠然としてその上で核心を欠いた指南をしていると当然、評価されません、相談者に伝わる表現を選ぶ前に相談者の運勢の核心を得た解釈を心掛ける事が重要となります。
第百十六指南 お互いに探る構えが求められる
第百十五指南や他でも様々な言い方で主張して来ましたが、「占い」とは「目に見えない運勢を観る」行為ですから、当然「言語化」する時に一定の「漠然とした言い方、曖昧とした表現」が出てしまいます。
ですからに当然、指南者側は「解釈」をより洗練させる為に「短歌や和歌」「自然との触れ合い」などを通して「感受性」を養い、「表現力」をより豊かにする為に「言葉の学び」「哲学の学び」などを通して相応しく「核心を突いた表現力」を養います。
ですが、一方で相談者の中には「アドバイス、指南」を「答えそのものを示してくれる」事だと思い違いをして来る相談者もいます。
確かにその様な側面もありますが、時には「ヒントに始まり、ヒントに終わる」「手掛かりに始まり、手掛かりに終わる」「含んだ表現、醸し出す表現、遠回しな表現」をする時もあります。
これは「相談者に察して欲しい時」や「自分で気付いて欲しい時」などにこの様な表現になる時があります。
つまり「相談者に考えて欲しい、思考して欲しい、深く省みて欲しい」時なのです、故に「相談者も指南やの指南が一体何を言っているか」という「探る気持ちや、探る構え」が必要なのです。
でも多くの相談者はそれを知らないで尋ねに来る事が殆どです、ですからこそ指南者側がそれを相談者に教育する事も非常に現場では高い水準で求められるのです、実は「相談者の相談にも尋ね方」というものがあるのです。
第百十七指南 病んでいる相談者
ここで言いう「病んでいる相談者」とは所謂、病気を患っているという意味で無く、「心が疲弊している、心身ともにボロボロ、どうしようもない程に孤独」という「メンタルや生きる姿勢」が病んでいる者を言います、この「生きる姿勢や人生を病んでいる相談者」にも様々います、先ずは大きく分けると「自らに非がある人」つまり自覚が有る無いに関わらず自らに原因がある相談者。
もう一つは「周囲の環境、流れ、他者」によって問題の現状が生じた相談者で「自分以外に原因がある相談者」です。
前者の「自らに原因がある人も大変、大勢います」がここでは後者の「自分以外に原因がある相談者」について少し触れてみたいのです。
「心身共に疲弊しきっている相談者」は正に運気も最低状態が多いもので、運気を少しでも上げようとしても心の力が出ない状態なので、運勢を上げようにも中々難しい側面があります。
この様な時は兎にも角にも「心の休息」が必要となりますが、出来るだけ「心が安らかになる指南」を事が望まれます。
癒し系の占い師になれ!と言っているのはありません、「心や精神の回復」を速やかに行い、苦難を乗り越える為の力を回復させる為の休息を心身ともに取れる指南をするのです、不必要に癒しの言葉を投げ掛けるのでもなく、唯々、休みなさいと口だけの指南をするでもなく、現実を生きるだけ、苦難を乗り越えるだけの力や気力を得る為の休息を得られる言葉を指南するのです。
第百十八指南 不変を説く指南
本来「指南」とは「偏りを含みつつも不変性を説く」事を言います、つまり「本質」を説くのです、時に現実を取ったり、個人的に偏った選択肢を指南する事もありますが、あくまでも「指南」のその本性は「不変性」と説く事です。
時代によって「生き方」は変化するにせよ「人生の在り方」は不変であるはずです、時代によって男女の在り方は変化するにしてもその「本質」は変わらないはずです。
この様に一定の偏りや変化を含みつつも「在るべき姿は変わらない」という「不変性」を説く事が「指南」の「本質」と言えるでしょう。
その「不変性」を我々指南者が十分に心得ておかなければ価値ある指南は出来ません、その「不変性」を養うには「東洋哲学」中でも「老子、荘子、孔子」の哲学は物事の核心や本質、不変性を説いている学問です。
例えば「人は徳を積む事によって道が開ける」「人は徳を目指すからより人として完成に近づく」など「徳を積む事」は本来は「不変」であり、「是」であると言えます。
東洋哲学を学ぶと共にもう一つ不変性を養う重要な手掛かりは「自然に触れる」です、これは決して軽々に思ってはいけません、人は春夏秋冬の季節、山や川、夏には陽光、秋には栗の実、冬には雪景色、春には命の芽吹きを感じます、人は自然と触れ合う事でその中に存在する不変性に次第に気付いて行くのです。
「変化」の中にも「不変」という秩序が存在するのです・・・。
第百十九指南 視野の狭い相談者
「視野の狭い相談者」とは様々いるもので、「単純に世間知らず」という事だけに止まらず「理解力が低い、探る構えの不足、成長や学びに対しての認識不足」なども含みます。
一般の勤め人でも「視野の狭い人」は沢山います、一方「社会的立場」のある人が「視野が狭い」と周囲に対する迷惑が一般人のそれと比べて深刻化しやすい傾向があります。
「視野の狭い経営者」は「部下に対する扱い、評価に根本的に問題が生じやすく」なります、最悪「事業」そのものに問題が出て来る可能性もあります。
この様な相談者の特徴は「問題点を指南しても本人がそれを自覚できない」又「本人にとって受け入れ難い内容なら認めない」など要するに「重要視しない、もう一つ意識が向かない」という特徴があります。
この様な相談者は場合により時間を掛けながらもジリ貧になって行きます、例えば実話で言えば「重要なポストにいる人物を変えなさい、この人物は貴方の前では柔順を装いますが、他の人には自分の感情で接する人です」と指南しその理由も述べても本人がその重要性を認識しないという状況が続き、このポストの人事変更が中々行われない状態が続きました。
結果このポストの人事変更が五年も行われず、有能だった部下たちは他社に引き抜かれるか転職されて行き、そのポストの人物は病気を理由に退職、既に時遅しの状況で会社は致し方なく大きく後退せざるを得無くなりました。
この「視野が狭い人」はどうすれば良いのか?
それは答えは簡単です「視野を広げる」のです、「視野を広げる努力をするしか無い」のです、他に方法はありません。
「視野が何故狭い」のか・・・それは「今の現状が最高だと思い込んでいる」からです、「十分視野は広いというまやかし」「自分は人間的に優れているという思い違い」「自分は能力が大変優れているという過大評価」これらが真の姿を見ようとする姿勢を邪魔しているのです。
「自らの殻を自ら打ち破る事」を「学び」と言います、「視野の狭い人の最大の特徴、原因」は「学ばない」事です。
故に我々指南者はその様な相談者には「学びの必要性の指南」をするのです、ここは非常に重要なポイントとなります。
「時に優しく、時に厳しく」「時に淡々と、時に真っ直ぐに」「時にサラッと、時に堂々と」「学びの重要性と不十分さ」を説いて行くのです。
相談者が「自らの視野の狭さに気付き、学びの重要性に気付く」のに数年、十数年、数十年掛かる事もあります、指南者はその時間、相談者に寄り添う事を覚悟しなければいけません。
人を教え育てる事は「忍耐」が事前に求められるのです。
第百二十指南 流れを止めない指南
「指南」とは単純に言えば「アドバイス」という事ですが、何でもかんでもアドバイスを口にしたら良いという事でもありません、人には誰しも「流れ」というものがあります、「仕事、人間関係、生活、人生、運勢」など全ては流れているものです。
この「流れ」を指南の為と言っても止めてはいけません、例えば「経営に問題がある相談者が来たとして、経営者の判断力や人材を見る目」などに不足があるとします、その「判断力や見る目」を養う為に経営そのものを止める様な指南をしてはいけません。
「流れ」を維持しながらも「判断力や見る目」の養いを指南するのです、又違う例えで言えば資格を取る為に仕事を疎かにする様な指南をしては「仕事の流れが鈍化」してしまうので、注意が必要です。
極力、流れを止めないで如何に道を開くか、成長するかを指南するのです。
でも一方で「重い病気」とか「人生を大きく変える様な選択」の場合は良い意味で「流れを止める、流れを変える」事も十分有り得ます、これらを除いての指南の場合は「流れを止めない指南」が尊ばれます。
又、相談者にしても「流れを止める」様な相談者はよくいるものです、「不必要な一言を軽々に口にする」「妄りに反対、反発する」などこの他にも「流れを止める言動をする」人はよくいるものです。
水も流れるから清く飲める水となるのです、流れを止めると水は腐り飲めなくなります、「仕事も人生もそして運勢も流れを流れる」からこそ意味と意義があるのです。
第百二十一指南 天衣無縫
「天衣無縫」とは其仙流の指南の現場に於いての心得の一つで、運勢を謀るに「人為に過ぎず、自然に捉え、本質を捉え、隙の無い解釈、指南が玄妙な領域へと達している又は目指す」事を言います。
人生は本人であろうが、他者であろうが、目に見え、実感出来るものを人は「人生」と言います、でもその実感出来る人生の体験に至るまでは目に見えず、水面下で、運勢的に、様々な選択肢の中から「道」を選んだ結果の人生経験です。
一つの選択肢を選ぶ、又は一つの道を歩んでいても、その他多くの「可能性」の上にその選択肢や道があるのです。
その人生を生きるに人は迷い悩みます、それ故に指南者に相談に来るのです、その様な相談者に「天衣無縫」の姿勢で臨み、一歩でも前に進める様な指南をする事が指南者の意義と言えるでしょう。
人為と自然のどちらを取るかはその時々に因りますが、本質を得る事が出来る指南者ならばそう問題では無いはずです。
又、隙の無い指南は確かに難しい側面もあります、そもそも運勢は目に見ないのです、その目に見えない運勢を観て判断するのですから、一定は隙が生じる事もあります、でも「油断」から生じる「隙」を見せる様ではまだまだ未熟と言えます。
隅々まで行き渡るかの如くの指南が出来る者は玄妙な指南が出来る段階に達していると言えるでしょう。
第百二十二指南 指南業はお遊びでは無い 其の二
「六十八指南 其の一」では「命懸けの指南が出来ていない」を取り上げました、「相談者に対して命懸けの姿勢で指南をしていない」「指南に責任を負わない」「相談者に真剣に向き合っていない」という意味合いでした。
今回は「相談者の悩みに現実的に対応していない」を取り上げます、要するに「神秘、オカルト霊感、メルヘン、ファンタジー」などで相談者の相談に答えやアドバイスを示すというものです。
これ自体が既に完全なる「お遊び」の範疇です、相談者も遊びでその様な占い師に相談するなら構いませんが、「真剣に悩んでいる」「深刻な悩み」「人生を懸ける様な悩み」に「お遊びの占い」で対応する占い師は本質的に「罪を犯している」事を自覚すべきです。
何の解決にも至らない様な事を口にして一体何の意味があり、価値があるのでしょう。
唯々、人や社会、秩序を乱して行く種をばら蒔いた事に根本的に気付くべきです、それは長い時を掛けて「占い」を下卑たものやお遊びの延長のものに貶める行為なのです、既に運勢学が生まれて五千年が経ちます、現代占いはもう「占い」の底力や玄妙さ威力を失っています。
占い業や指南業はお遊びでは無いのです、人の人生を説くお仕事なのです、その意味を深く理解し実践しないと自分自身だけでなく占い業界全体の価値を下げる事になるのです。
自分が心の底から悩み、知人に相談して、適当に対応されたらどう思いますか?それと同じ事を多くの占い師がしているのです、ここで正しい取り組み方に舵を大きく切る時と言えるのではないでしょうか。
第百二十三指南 お金を頂くから観える
昔、高島易斷の高島呑象先生は「占いは売らない」といって相談者からはお代を頂かなったそうです、今ではその話しが神聖視されていますが、その真偽は定かではありませんが、本来「占いというものはお金を頂く事が本質」と言えます。
お金を頂くからこそ、「正しい指南をしなければいけない」と感じ思うわけです、そこに緊張と正しい姿勢で観ようとする覚悟が生まれるのです、外したり、的外れな事を指南すると当然、相談者から見限られます、それは対価に見合わぬ金額を支払うからです。
そうなると、指南者側も対価に見合う腕、実力を養う事を目指します。
恐らくは呑象先生は材木業、建築業で大成功していた為にお金に対して執着が無かったのでしょう、占いはあくまでも趣味、副業的な位置づけであり、「占いで生計を立てる!」という一般的な指南者とは立ち位置が相違なものと言えるでしょう。
この「お代」を頂くという事は「それに見合う実力」が問われます、だからこそ真剣な占い師であればある程に己の腕を磨き、その人格を養おうとするのです、これが占い業、指南業の自然で本質的な在り方なのです。
又、生業に対する対価は「お金」が一般的ですが、時に「人の思いや気持ち」であったり、「物」であったりとする事もあります、場合にも因りますが、時に対価は「お金でない」又「お金を超えるもの」もあるという事は肝に銘じておきたい所でもあります、指南者はお代を頂くからこそ真価を発揮するのです。
第百二十四指南 運は育てるもの
「運」と一言に言っても「運は頂くもの」「運は持って生まれるもの」「運は授けられるもの」「運は引き寄せるもの」・・・とこの様に様々言えますが、もう一つ言える事は「運は育てるもの」と言えるでしょう。
頂く運にしても、授けられる運にしても、引き寄せる運にしても、その手に入れた運を更に育てる工夫や構えが欲しいものです。
そうする事により、造化が行われ「運」は更に磨かれ、大きくもなり、強くもなり、玄妙に作用が働きます。
大事に大切に運を育てる構え・・・・植物に肥料をやり、水をやり、太陽の光を与えるかの如くに、その恩恵を頂きながらも貪らず、雑で適当な扱いをせず、自らも学び、成長しながら運も大切に育てて行くと人生は小さくとも豊かになります。
この「運を育てる」指南も指南者には高い水準で求められます、「運」を育てるには何が必要なのか、この相談者の場合はどうすれば良いのか?
これが分かる者でなければプロの占い師は務まりません、「運」が手に入った時は、有り難く思い大切にするが、事が終わればおざなりにする様では、本質的にうだつが上がりません。
「運も人も仕事も社会」も全部ひっくるめて育てるものなのです、人間関係を大切にしない者は「運」を大切にしません、仕事を疎かにする者、社会を馬鹿にする者も総じて「運に恵まれる」事はありません、本当の意味で「運」を大切にする人は、その他の全てを大切に出来る人と言えます。
第百二十五指南 自らに限界を作らない
「自らに限界を作らない」とはよく耳にする言葉ですが、これが本質的に出来ている人が一体どれくらいいるのでしょうか、恐らくは世界人口の一割も出来ていないでしょう。
「自らに限界を作らない」・・・この聞き慣れた言葉は本当に深いものなのです、仕事でも限界を作らない、人生でも限界を作らない、成長や学びにも限界を作らない・・・でもまだまだ不十分です。
「限界」とはそれ以上に前に進む事が出来ない、上に上がる事が出来ない事を言います、でも人は限界突破をするからこそ本質的に前進するのです。
「自らに限界を作らない」と言葉では理解していても、もっと根本的な意味合いで理解している者は僅かです、例えば人は「神様を最も偉大な存在」とします、つまり世界の存在するものの中で神様が一番上であり、神を超える事は出来ないと人は漠然と思い込んでいます。
これはある意味で、「自らに限界を作っている」事になります、「神様」が存在しているか、していないかは一度横に置くとして、これは「神様」を「信じるな」「蔑(ないがし)ろにしろ!」と言っているのではなく、あらゆる概念(それが神様の作ったものでも)や価値観も超える考えが求められる時に、自らに限界を作る者はそこまで止まりとなります。
人の心は本来何ものにも縛られない自由な存在のはずです、その自由なままの状態で物事を創造する時に限界を設ける様ではいけません、相談者にも限界突破の指南をする為にも我々、指南者が限界を作ったらもう一つ価値ある指南は出来ません。
第百二十六指南 本物
占いの業界は二極に分かれています、それは「本物と偽物」です、この世の殆どの占法や占い師は偽物です、メディアで有名な占い師も偽物だらけです、又その偽者の中に於いても「自分が偽物と分かっている者」と「自分が本物と思い込んでいる者」とに分ける事が出来ます。
占いは「当てものでも、癒しでも、神秘でも、前世でも」ありません、占いは「本質を説く事が大前提」です、「人生の本質、仕事の本質、物事の本質」・・・当然その中には稀に「当てもの、癒し、神秘と思える事」などもあるでしょうが、それはおまけの部分とでも言うべき所で、占いの核心は「開運を指南する、成長を指南する、禍回避を指南する」つまり「人生指南」なのです。
故に「本質を得る」事が出来なければ指南が出来ません、つまり本物の占いの大きな基準は「本質を述べ事が出来る」かどうかです。
本質を無視した様な事をいくらそれらしく述べ様が全く意味も価値もありません、例え相談者が納得しても感動してくれても「本質的には意味はありません」、本物は指南すべきを指南するのです、例えそれが相談者の納得できない事でも、受け入れられない事でも、信じられない事でも言うのです。
「本物は運勢を観る」のです、前世や神秘や当てものを口にするのではありません、相談者の運勢を観て成長が必要と感じたらどの様な学びがいるのか、何が欠けているのかを指南し、発展したいのなら何が求められ、何を目指すべきかを指南するのです。
占い業とは、自分が本物だと思い込んでいる様な者に務まる仕事では無いのです、故に常に自らに本物を問い、本物を目指す様な人格形成を目指し、腕を磨いて行く事が重要なのです。
第百二十七指南 相談者に合わせるにしても一線は引かなければならない
相談者の中には神秘やスピリチュアル、前世、生霊など「運勢も人生も、現実も非現実も、想像の世界と現実世界、迷信と俗説」などを全てゴチャ混ぜにして相談して来る人もいます。
基本的にはその様な「オカルト霊感、神秘思想、生霊、前世、スピリチュアル」などを信じている相談者には正しい認識を促す指南をするのですが、場合により一定、指南者側も相手のその様なものを信じている事を受け入れてあげないといけない事があります。
「否定をすると逆上する」とか「否定をすると相談者が支えを失う状況」とか「否定をするにしても時間を掛けなければならない」など、この様な場合は時に相談者に合わせてあげる事もあり得ます。
ですが、それも一定だけの話しです、「相談者に合わせ切る」事は本質的でないので注意が必要となります。
「現実と非現実」「真実と虚偽」「本物と偽物」の判断が付かない様な相談者に一定は合わせる事はあってもそこには一線を引く事が望まれます、そうで無いと後々まで相談者は「あの占い師はスピリチュアルを受け入れてくれた」と自分都合に思い込んでしまうので、少しずつでも本質を説いてあげる様にしないといけません。
有り得ない事は有り得ないのです、その事実を相談者に自覚してもらうには、こちらも時に忍耐を要する事もあるのです、それでも最後は本質をしっかりと伝えなければいけません、これは何も「神秘思想やスピリチュアル、生霊、前世論」などに限った事ではありません、仕事や日々の生活の中に於いて様々な事柄に有り得る事です、相談者の思い込みを解いてあげる事は難しいものなのです。
第百二十八指南 パラノイア
昔から一定は「オカルト霊感、神秘思想、スピリチュアル、生霊、前世論」など荒唐無稽な事を信じて主張する人はいましたが、昨今は頭を悩ますほどに「メルヘン、ファンタジー」を信じている人が多い事に深い憂いの念を感じます。
占いはあくまでも「現実的問題を現実的に解決する方法」です、これを成すのに「運勢を観て、吉凶を判断し、何が欠けており、何を学ばなければならないのか」など「禍回避、発展、成長、開運」を指南する事が占いの主な所です。
つまり占いは「現実的なもの」なのです、ここを理解しておらずに「神秘思想、スピリチュアリズム、オカルト霊感、前世論」など非現実な思想に染まっている人が相談者、同業者共に非常に多い現状です。
この「非現実」な事を信じている事を単純に言えば「妄想者」と言います、心理学の中で「パラノイア」という言葉があります、「パラノイア」とは「妄想性障害」の事で、妄想性人格障害の妄想よりは重いが妄想性精神病の妄想よりは軽い妄想を持つ障害で、精神病性障害の一つです。
妄想とは全く、現実でない信念、概念、心理、思考の事で、変わった考えを持つ人は世の中に沢山いますが、普通は自分の考えが少数派又は非現実であると自覚しています、しかし「妄想者」はかなり屈折している場合もあり、又頑固に強固に信じている事もあり、現実を自覚させる事に悩まされる事があります。
相談者や同業者の中に実際に重い精神病や人格障害を患っている人もいますが、ここではもう少しマイルドな妄想者を取り上げてみようと思います。
妄想の種類には次の様なものがあります。
①「被害妄想」
自分は狙われているという妄想です。
②「関係妄想」
関係の無い偶然性を、自分と関係のある事と思い込んだり、その偶然性を自分にとって必然だと思
い込む妄想です。
③「誇大妄想」
自分が高貴な人間だとか、大金持ち、特別な才能を持っている人だと思い込む妄想です。
④「憑依妄想」
自分に何かが憑りついている、操られている、意識や精神が乗っ取られているという妄想です。
これら四つが妄想の種類となります。
日常に於いて「スピリチュアル、オカルト霊感、生霊悪霊、前世論、神秘思想」などに染まってしまっている相談者、同業者に多い「妄想」は②の関係妄想、③の誇大妄想、④の憑依妄想の三つです。
「関係妄想」で相談者、同業者に多いのは「前世論や覚醒を謳う」「偉大な存在からのメッセージ、ギフト」を謳うなどがあります。
「誇大妄想」で相談者、同業者に多いのは「自分の役割や使命、宿命を信じる」「自分は救世主だ」「自分は偉大な存在だが普段はそれを隠している」「自分には特殊な能力、使命がある」「自分の前世は陰陽師で鬼を退治した」などがあります。
「憑依妄想」で相談者、同業者に多いのは「自分に生霊悪霊が憑いている」「自分は神と一体となっている」「自分は宇宙の意識体と一つとなっている」などがあります。
これらを自分一人で「妄想を楽しむ」範囲で想像する事は何も問題はありませんが、困った事にこれらを信じる「妄想者」は現実世界にメルヘンやファンタジーを持ち込むので、人や社会と何かしらズレが生じます、初めは小さなズレで、周囲もそのズレが本人の個性だろうくらいにしか思いませんが、徐々にそのズレが深刻化し相容れないものを感じる様になり、周囲の人に距離を置かれてしまいます。
この様に有り得ない事を現代の占い師、テレビ、雑誌、各メディアがさも有り得るかの様に取り上げる事により占い業界は混沌としてしまい、今や「偽物が本物扱いで本物が偽物扱いされる」始末です。
【まとめ】
占いは確かに神秘な側面、オカルト霊感な側面、などある種の奇跡かと思う様な側面があるにせよ、大前提としては「占いは現実的なものである」という認識は心得ておかなければいけません。
昨今は、何でもありの状態、言った者勝ち、など占い師側のモラルや知識に問題があり、正しい言動が出来ていない占い師が大変多くいます、この様な偽物の占い師の台頭を許している背景には「各メディア」の存在は無視できません。
又この混沌とした状況の中に於いて相談者もその「メルヘンやファンタジー」を信じ込んでいる者がおり「偽物、紛い物の占い師の台頭」「本物、偽物の区別もない各メディア」「メルヘン、ファンタジーに毒された相談者」の三者が入り乱れており、今の占い業界の状況はより深刻化しています。
本物の占いは人、社会、人生を救い、発展させる事が出来るもので、人や社会に本質的に役に立つものです。
有りもしないものを信じる事も度を越えたら「個性の限度を超えた人格の大きな歪み」と言えるでしょう、この様な相談者や同業者は「物事の本質、真実にいつまでも辿り着けずに、虚構やまやかしを追い求め、最後は価値も無いつまらない人生を送る」事になります。
あくまでも「占い」は「現実的なもの」なのです。
第百二十九指南 相談者と共に・・・
其仙流に「指南者は相談者と共に成長する」という言葉があります、相談者の悩みを解決する為に、指南者側も知恵を絞り、一生懸命指南をする・・・その先には「相談者も指南者もお互いが成長し富む」という事です。
指南業や占い業は「相談者に鑑定料金以上の価値ある事を指南する」そして「指南者は鑑定料金以上のお返しがある」この様な関係性が本質であると先人達が後世の私達に説いています。
「指南者は相談者の重荷を半分担いであげるつもりで現場に臨め」と腕の有る指南者は言います、相談者一人で乗り越えられないから、我々占い師の所に相談に来るのです、相談者一人で突破口が開けないから占い師に相談に来るのです。
その相談者を一人で歩ける様になるまでは指南者が相談者の重荷を半分担いであげる姿勢が求められるのではないでしょうか。
その先には「相談者と共に指南者も成長し富む」のではないでしょうか、時に厳しく、時に暖かく、時に冷静に、時に共に喜び、相談者の人生に寄り添う・・・。
占い業は忍耐を求められ、知恵を求められ、人格と腕を求められる仕事です、並みの者では務まるお仕事ではありません、相談者を成長させ、開運、禍回避を提供させるには「相談者と共に成長する」という心得が必要でしょう。
第百三十指南 骨に響く指南
指南者は経験を重ね、腕が磨かれ実力が付いて来ると、重みのある指南や迫力のある指南など所謂「響く指南」というものが出来る様になって来ます、しかし「胸に響く指南、心に響く指南」などありますが更に言うと「骨に響く指南」が理想的です。
骨は体の一番奥にあり、体の中心であり、建物で言えば柱です、この骨格に響く指南はそのまま骨格が丈夫に成る指南とも言えます。
いくら心に響く、胸に響く指南と言っても骨が貧弱ならばいずれは持ちこたえられません、骨に響く指南を心掛け、相談者の骨格を丈夫に育てる事が腕の有る指南者の一つの要素です。
骨に響けば自然と心や胸にも響きます、体の奥底にまで響く指南を心掛ける・・・そう簡単な話しではありません、昨今の占い師の生温いアドバイスや偽物、紛い物の占い師、占い師ごっこをしている様な者では到底無理な話しです。
正しい占法、正しい取り組み方、正しい自信、豊かな感受性、高い人格性があって更に幾度となく修羅場の様な指南、難しい指南、名占と言われる様な指南などを積み重ねて初めて到達出来る領域です。
又、腹の底から湧き出る気力と相談者を何が何でも前進させるという気概が前提となります、「憧れ、自惚れ、自己満足」な占い師では論外な事です。
骨に響く指南が出来る指南者は「胆力が並みでない、肝が据わっている、熱量が膨大」でそれでいて「さりげなく、すばやく、軽やか」でもあります。
第百三十一指南 響かない相談者は高が知れている
これも何度も言って来た事ですが、「本質的な指南をしても、核心を突いた指南をしても、急所を突く指南をしても」全く「響かない相談者」は人としての根本部分に欠けを持っている人と言えます。
占いを「当てもの、癒し、神秘」と思い込んでいる相談者や、「自分の都合の良い答え」だけを受け入れる相談者や、「自分の思惑と違う答え」を指南すると、理解出来ない事や否定する、などの相談者は「現実を生きる力不足」の側面がかなり大きいと言えます。
「響かない」という事は様々な問題を抱えているはずです、「理解力が一定に達していない、視野や世界観が狭い、人生観が自分都合、共感性が無い、故に独りよがり、自分本位な生き方」などなど問題を抱えている可能性が高いでしょう。
「響く」という事は「思わぬ事に気付く」「見えていなかった側面が観える」など一言にすれば「気付き」の事を指します。
つまり「響かない人」は「学ばない、成長しない」のです、これは人として非常に困った状態にいるという事に気付くべきです。
昔から言います「学びの無い者は教え様が無い」「学びの無い人はどうしようもない」「学びの無い人は周囲に迷惑を掛ける」・・・この様な「響かない相談者」には一定はしっかりと時間を掛け先ずは「学ぶ姿勢」を指南する事が一つの軸になります。
数年、十数年掛けても、それでも「学ばない、響かない」様なら、それが限界という人です。
第百三十二指南 普通と普通ではない
相談者の中には「普通に生きて行く人」と「普通と違う人生を歩む人」といます、この「普通と違う人生歩む人」に対する指南は一定しっかりと我々指南者側に注意が必要です。
「普通でない道を生きて行く」・・・通常はこれを諌(いさ)める指南をしますが「本人の覚悟がある、本気である」という時は「普通でない人生」を「否定せず」如何に成功するかを全力で指南する事が高い水準で求められます。
「普通で無い」から「必ず間違う、必ず失敗する、必ず踏み外す」という事ではありません、「本質を得ながらも並々ならぬ情熱や達成意識があれば」成功する可能性もあります。
又この「普通でない」という事を「異常」と取らない様に気を付ける事は高い水準で求められます、例えば「同性愛」は「普通ではない」が「異常でもない」何故ならば「人が人を好きになる」のに「性別は関係無い」という価値観が存在するからです、どんなに普通の人からしたら異常に思える事も本人は真剣なのです。
ですが一方で、「普通でない人生を歩む」という事は「普通の人からの理解や援助は得られない」と「覚悟をすべき」です、何故ならば「普通でないから」です。
それでもその生き方を貫けば少しずつでも理解者は出て来るかもしれません。
この「普通でない」事を我々指南者が「否定したり」「拒否したり」する事無き様に臨み、「覚悟、情熱云々」が十分あると判断した時に如何に成功するか、如何に充実するかを指南するのです。
第百三十三指南 寄り添うが生温い事を言うべからず
人の社会や人間関係は「戦いではない」などという事を主張する人がいます、確かに人の社会、人間関係は「和を以って然るべし」「相手や周囲を思いやりながら接する」など一言で言えば「和や情」を重んじる側面はあります。
ですが、一方で「弱肉強食、戦い」の側面がある事も否めません、これを否定する人は「現実を生きる力不足」の人か「単なる世間知らず」か所謂「理想家」のどれかでしょう。
でも「戦いばかり」でもありません、人の世は優しさや労わりでもある事は現実ですが、「戦いの場で優しさを主張する、労わりを求める」様な人は残念ながら「世間知らず、生きる力不足」の人です。
指南の現場でも「助けを求める、許しを求める、寄り添いを求める、救いを求める」相談者が訪れます、その程度によっては逆に「お尻を叩いてあげたり、諌めたり、叱ったり、窘めたり」しますが、かなりの深手を負っていると判断した時は「心の傷を癒したり、受け入れてあげたり、救いの言葉を伝えたり」と相談者に「寄り添う」時もあります。
でもここでの注意点は「寄り添う」は良いが、いつまでも「生温く寄り添う」わけには行きません。
又いずれは相談者の人生を相談者は自分の足で歩いて行かなければならないのですから、「自立できる」様に指南をしなくてはいけません。
生きるとは戦いなのです、生きるとは弱肉強食なのです、生温い生き方では負けます、人の世は「優しさと力」の二つを以って初めて生きて行けるのです。
第百三十四指南 自分で判断する・・・
相談者には様々なパターンのタイプがしますが、ここでは「自分で判断する」という相談者を取り上げてみようと思います。
「自分で判断する相談者」とは大きく分けて二通りあります、一つは「指南者のアドバイスを素直に聞き入れてその上で自分で判断する」という「素直な相談者」と二つ目は「指南者のアドバイス自体を判断するのも自分だ!」という「傲慢で世間知らずで、我を張る相談者」の事です。
「自分で判断出来ない相談者」も困りものですが、この「指南者のアドバイスをも自分で判断する」という相談者はいつまでも根本的成長が出来ません、そもそも手を尽くし、自分でどうにも出来ない状況が発生したから指南者に相談に来ているはずなのに、その指南者のアドバイスをも判断するのは「自分」とする相談者は物事の本質が観えていないのです。
確かに相談者が何から何までも指南者の言われるがままに受け入れて従うのか?と言われれば、それは違います、でも「素直さ」に欠けがある人の判断はどこか「傲慢、独りよがり、過ぎる自己主張」の側面が見え隠れします。
一方「素直な相談者」は自分で判断するにしても、そこには「透明感があり、謙虚さがり、周囲に配慮があります」
「自分で判断する」・・・確かに人は己で判断をし、己で責任を負い、己で覚悟を決めなければいけませんが、その根本に「素直さの養い」があるかどうかが高い水準で求められるのです。
第百三十五指南 褒めるか叱るか
指南業の基本中の基本に、「相談者を褒めて育てるか、叱って育てるか」という問題があります、子育てや部下を教え育てる事と同じです、どの世界でも「育てる」という事は難しいのです。
他には「いきなり否定から入るのか、否定はするが一度受け入れてから否定するのか」なども根本は同じ性質の問題です。
ここは一概には言えないもので、相談者との信頼関係や距離感、温度差、顧客なのか一見なのかなどでも違って来ます。
心に余裕がり、腕の有る指南者であればあるほど、「玄妙な対応」が出来ます、「褒めるも良し、叱るも良し」となります。
褒める時も褒め過ぎれば相談者は場合により図に乗ります、叱る時も叱り過ぎれば相談者が委縮してしまいます、下手をすればこちらに噛みついて来ます。
又、「叱る時」も「言葉は叱っているが、口調は冷静である」とか「言葉に迫力を込めて叱る」のかなど、その表現も様々あります。
褒めるばかりの指南者も腕が無い・・・叱るばかりの指南者も芸が無い・・・どちらも状況と相談者に合わせて絶妙に使い分けるのが一番良い方法です。
どちらか一方などと言う極端な方法しか取れない様ではもう一つ腕がありません。
第百三十六指南 先ずは人格から 其の一
何度も言って来ている事ですが「指南者や占い師」に初めに求められる事は「人格形成」と「生涯学ぶ姿勢」です、この他にも様々な要素が求められますが、何はともあれ「人格形成」と「生涯学ぶ姿勢」の二つは外すわけには行きません。
その中でも「人格形成」は中途半端にしてしまうと帰って良くありません、徹底的に人格の基礎を養い、歳や経験を重ねるに連れて奥ゆかしい人物へとなる様に生涯に渡り哲学を学び実践するのです。
この「人格形成」に絶対的に必要な基本的要素は「素直」です、「素直」は「人格形成」だけに必要なものではありません、いついかなる時でも「素直の精神」を忘れる事無い様に、骨身に染みる様に養うのです。
この「人格の養い」が中途半端や自分都合な人は、その後に何を学んでも「中途半端で自分都合」となります。
「人生の歩み方、生き方、自分作り、運作り」を指南する務めの者が「中途半端な人格形成」ではその指南もいずれはボロが出るというものです。
でも、初めから高い人格形成は難しい側面があるのは否めません、ですから尚の事「素直」が求められるのです、その上に更に「謙虚と感謝」を持つ事です。
「人格形成」や「素直、謙虚、感謝」を軽んじる者は世間から評価されません、もし世間から評価されると言うのなら、それは世間が淀んでいる時代か、その者が死んだ後に評価が落ちるかのどちらかでしょう。
第百三十七指南 先ずは人格から 其の二
今や占い業界では様々な主張をされる占い師で溢れています、「スピリチュアル、前世、霊界からのメッセージ、生霊、悪霊、守護霊」切りがありません、でもこれら全て「占い」という意味に於いては全く本質的ではありません。
人格形成が中途半端な占い師が運勢や人生を見る・・・当然、「運勢の何を観るのか」という事にも問題が生じます、その前には「中途半端な人格の占い師」は本物を知らないので「デタラメな占法を使用します」
つまり「偽物の占い師」になっている事に気付いていない若しくは、偽物と知っていて占い師をやっているのです。
遥か昔は「指南者」になる為には、いきなり占法を教える様な事はしません、長い時間、月日、年月を掛けて先ずは「人格を養う」のです、そうでなければ「指南の判断を誤る」可能性が多分にあるからです。
「自分の思い込みを排除する」「物事の本質を観る眼を養う」「相談者に相応しい助言をする」これらを成すには高い人格が求められます。
故に「指南者や占い師」には先ず「人格形成」の学びが求められるのです、又、占い師を目指すに当たって占法を選びますが、これが本物かどうか、正しい作用があるのかどうかの判断が「感情的、思い込み、間違った思想や知識」などがあれば当然、その選択は誤ってしまいます。
何に付けても指南者や占い師を目指すに「人格の形成」を口にしない、指導しない先生や師、教室などは二流以下か偽者です。
人格の養いを生涯行いながらも、一定の人格を有する指南者ともなれば、正しい占法を体得した上ではあるものの、正しい自信が付き、物事の本質を悟る事ができ、相談者に相応しい指南が出来るものです。
又、「人格形成」とは「人格を優れた段階へと養う事」を言います、「物事の本質を悟る事ができ、指南すべきを指南し、物事の玄妙さを悟る事が出来る者」つまり「人格者」を言います。
簡単に養う事など出来るものではありません、「東洋哲学の学びを深く養い、大きな徳を目指し、高い見識」を身に付けなければその入り口にすら立つ事も出来ません。
昨今の占い師は「人格を養う」という意味すら正しく理解出来ていません「人格」の「格」という文字には「いたる、きわめる」という意味が含まれています、つまり「人格」とは「道に至る人、物事の本質に至る人、道を究める人」という意味です。
「占い馬鹿、専門馬鹿」にならず「占い業を軸にしながらも高い人格を養う」事が指南業には求められます。
第百三十八指南 完璧な占い師はいない
古今東西、完璧で完全な指南者や占い師などは存在しません、其仙流内でも口伝で「占いの腕が一流になれば成る程私生活は三流に成る」と伝えられています。
これは様々な意味合いが含まれています、「指南業に没頭するあまりに生涯独り身でいた」「指南業に誇りを持つがあまりに豪快に稼いで、そのストレスを豪快に遊ぶ事によって発散する」「腕が一流になる程に人の欠点や程度の低さを悟るが故に人付きあいに嫌気がさす」などなどは先人達に実際にあった事です。
先人達は様々な思いはあるにせよ、結局最後は指南業に真剣に取り組みました、これは指南者の性とも言うべきものです。
そもそも、人の「運勢は未来が決まっているわけではありません」人の未来は何をするか?何を求めるか?何を選ぶか?つまり「未来とは本人の選択の連続」であるのです。
故に我々指南者は運勢に何を観ているかと言えば、それは「高確率で訪れるであろう未来」という事です、決して決定された未来では無いのです。
又、間々耳にする事は「未来は初めから決まっている」と主張する人がいますが、もし「未来が決まっている」のなら人は「努力する意味がありません」
どんな「未来」が訪れるか分からないがより良き未来を模索して来たからこその「現在」のはずです、その「現在」でさえも遥か過去に決まっていたと主張する人は「メルヘンかファンタジー、神秘思想」に毒された人と言えるでしょう。
未来は決まっていないのです、人は瞬間的に選択を変える事もあり得ます。
故に「いつ何が起こる」という所謂「現象を言い当てる」事を求める相談者や占い師は「占い」そのものを理解していないのです。
「占い」とは「本質を当てる」行為です、「本質がズレている」とそもそも指南に筋が出て来ません、本質を先ずは得た上での運勢的、現実的に判断をして行く事が占いと言えるのです。
占いに完璧完全を求める様な事は初めから無理なのです、人は不完全な生き物です、現実も不完全で未完です、運勢も不完全なものです、そんなものを観ようとするのですから自ずと「朧の存在と実体の存在と虚構の存在」が生まれるのです。
「実体とは現実、実際の事」で「朧とはまだ現実にはなっていない段階、成すか成さないか分からない段階の事」で「虚構とは選択肢には出てきたが現実化しなかった事」です。
世界は「朧から生まれ、現実か虚構に分かれる」のです、それ故に「完全に未来を見切る」事は不可能なのです、恐らく「神」という存在がいるとするならば、その「神」でも無理な事でしょう。
第百三十九指南 人を不安にさせない
相談者を不安にさせる占い師が間々います、不安に落とし入れ、一体何の意味があるのでしょうか?
その不安を解消させる事が指南業、占い業の本質であるのですから、本質から遠く逸脱している行為と言えます。
但し、時に致し方なく相談者を不安に落とし入れるつもりは無くとも結果的に不安、辛い思いにさせる事はあります「寿命間も無い人の残りの命を観る時」「己の負けを告げる時、(例えば、出世争いで負けた、就職活動でどこにも受からなかった)」など致し方ない状況もあります。
人生は思い通りにはならないのです、又一時の苦労や不幸、苦難に負けずに、乗り越えて行こうとする気概が本当の幸せを引き寄せるのですから、「苦難や苦労」がイコールで「不幸、不運」とは言えないのです。
その「苦労や苦難」を乗り越えようとする「元気や気合」を与えてあげる、指南する事が指南者の本質でもあります。
本来、占いは「不安な事を告げる」ものではありません、本来、占いは「安心に通ずる道を指南する」ものなのです。
これが分からない者は占い師失格と言えるでしょう、占いとは「人を育てる、より良い人生を説く、より良い生き方を説く、生成発展の為の努力の在り方を説く」お仕事ですから、決して人を不安にさせる事がその本質ではありません、簡単に言えば占いとは「人を幸せにする」ものなのです。
第百四十指南 やりたい占法、信じている占法・・・ では通用しない
指南業、占い業によって「占法の選択」は大変重要なものです、何故ならば、その占い師がどの占法を信じ修得するのかはそのまま相談者の指南に直結するからです。
現代では様々な占い師が溢れている状況ですが、その殆どの占い師が「自分が本物だと信じている」占法を習得している状況です。
「信じる」のは構いませんが、そこには多分に個人的感情が含まれています、これではもう一つ本物なのか否かかの判断が付きません。
自分が「やりたい占法、信じている占法」では実践では通用しない事が多々あるのです、長年指南業や占い業をやっていると「奇跡や信じられない事を言い当てる」事もあります、又「驚く程相談者が感動してくれた」なんて事もあります、これ故に自分の信じた占法はやはり正しい!
と、思い込む占い師が沢山います、要するに「経験則」からの「自分が信じている占法は本物だ」と判断する占い師がいますがこれも大変、よくある事で、非常に間違いやすいものです。
先ずは「正しい占法」というものは「正しい原理が作用しているか」が問われます、つまりどの様な理屈で「運勢」を観る事が出来るのか?という事です。
このとても大事な部分が殆どの占法でスッポリと抜け落ちているか、又は間違っているかのどちらかになります、例を上げれば「タロットカード、オラクルカード」の様に各種カード占いは一見「原理、原則」が存在しているかの様に思えますが、実はどこにも原理が存在していません、多くのカード占いが、「運勢を観ている」と主張していますが、それは「カードを観ている」に過ぎないのです、又姓名判断や九星気学の様に一応は理論立てて説明できる占法でもその原理や理論に大きな欠けや誤りがあり、占法として破綻している占法も沢山あります。
後はスピリチュアルをはじめとする「オカルト霊感、神秘思想に傾倒する各種占法」などは原理、原則は基本的に存在しておらず、所謂「霊能力、奇跡」の類を謳うので論外となります、神や大いなる意思の存在がいるかどうかの根拠が無い上に、その様な存在からのメッセージを伝えるなどというかなり特殊な能力を如何に体得するのかの説明や根拠が明確に示されていませんので、「人為的なお遊びの占法」なのは明らかなものです。
正しい占法には必ず「原理、原則」というものがあります、その上で「運勢」を「知覚」できるかというものです。
これも非常に重要な要素で、「運勢」は当然、個人個人違います、似ている様でも微妙に違っていたり、激しい運勢があれば静かな運勢があったりと千差万別でしかも常に流動的で変化をします、故に「運勢」を謀る時は「直接的に観る」事が重要となります。
故に「四柱推命や算命学」などの「命占」も論外となります、決定的な問題点は「致命的に個人差が出ない」の一言に尽きます、「運勢」というものは数値化や見立てが出来る様な単純なものではないのです。
正しい占法を選ぶには「原理が正しいか」という事と「直接的に知覚できるか」の二点が先ずは高い水準で求められます。
となると、その様な占法は当然かなり稀有な存在となります、我々其仙流も世界中の占法を知っているわけではありませんが、恐らくはその様な占法は「無相」と「麻衣神相法」とその他の其仙流が保持している占法以外では今はもう存在していないと思われます。
初心の頃は間違った占法でも構いませんが、真に相談者の為の占いを行いたいと思ったならば「本物」を目指さないといけません、それに気付く事ができるかが本物の指南者になる最初の求められる事と言えるでしょう。
間違った占法で相談者を喜ばせたり、お金儲けをしたりして自己満足に浸る所で止まっている占い師が多いこの業界で、「本物に成る」と心底から思ったならば「自分がやりたい占法、自分が信じている占法」を選ぶのではなく、「正しい占法」を選ぶ事が重要となるのです。
第百四十一指南 様々な占法を会得し使用する事に本質的な意味は無い
現代では一人の占い師が複数の占法を会得するという事が多く見受けられます、又その様な占い師の中には「恋愛はタロットで、仕事は四柱推命で、人生や人間関係はスピリチャルで見ます」とか「占い師たる者あらゆる占法に精通していなければダメだ」とかを主張される占い師や又、一般の人の中にも「複数の占法を会得している占い師がより本物である、プロである、専門である」とする傾向が見受けられます。
答えから言いますとこれらは全くの「素人の主張」でしかありません、「真の本物の指南者」ならば本物の占法を一つ極めれば良いだけの事でより精度を上げるとか、補助的に使用するとか、限定的に使用する占法をもう一つくらい体得していれば実践では事足ります。
又、占法には「原理、原則」というものが存在します、「原理、原則」とは「何故、占う事が出来るのか」という事で「車」で言えば「エンジン」があるから車が走るわけです、このエンジンがどこにどの様に作用しているのかという事です。
占法の原理は一貫しており尚且つ、一つ二つの占法である程度全てを判断出来る者が真に本物の占い師の一つの条件です。
複数の占法を習得している占い師は一つの占法をも極めていないと言っているに過ぎない事に根本的に気付くべきです、全く以って恥ずかしい事です。
其仙流でも実に様々な占法を取得はしますが、あくまでも「研究の為」に修得するのであって、指南の現場や実践の現場に於いて様々な占法を使う事は有り得ません、未来を指南する時は「無相、麻衣神相法」の二つのみです。
そもそも、「タロットやスピリチュアル、九星気学、姓名判断、マヤ暦占い」などは「原理が無い、若しくは間違っている」ものなので正しい指南が根本的に出来ません。
「真の本物の指南者」というものは「一貫された原理の占法を一つ二つ修得していれば事足りる」のです。
複数の占法を修直している様な占い師は、根本的に占いを理解出来ていないか、一種のパフォーマンスをして誤魔化しているか、全くの偽物、紛い物という事になります。
「何を習得しているか」「どんな占法を体得しているか」「幾つ修得しているか」が本質では無く「相談者に必要な指南が出来るか」が重要なのです、その根本が分からない様な者は占いをすべきではありません。
第百四十二指南 誰にも通用する指南が出来るか
得意な相談者や相談内容というものが指南者には長年指南業をやっていると出て来ます、「男性の恋愛は苦手だけど女性の恋愛相談は得意」とか「年配の方の相談者より若い方の相談者が得意だ」とか「家族の問題の相談より恋愛の相談が得意だ」など占い師や指南者によって得手不得手というものはあります。
得手不得手があるものの、その一方で、「誰にも通用する腕」というものも指南者には求められます、一定の得手不得手はあるにせよ、「仕事、人間関係、恋愛、健康問題」などの相談内容や「勤め人、パートタイマー、経営者、政治家」などの様々な立場の相談者にも対応が出来てこその指南者です。
自分の得意な相談内容や相談者を選ぶ様ではいずれ限界が生じる上に、初めから狙いを定めている様な指南者はお話しになりません。
「誰にも通用する腕」とは「誰が来ても構いません」の構えが有るか無いかです、「いつ誰がどの様な相談を持って来るか分からない」のが指南業、占い業です、先ずは「気構え」が有るか無いかです。
経営の相談が来たら「何をどう見たら良いか分からない」という話しも耳にしますが、そこは工夫(造化)をする事により対応出来るはずです、其仙流では「観閃眼」があるので、相談者に選択肢を絞ってもらうか指南者側で選択肢を考えるかして運勢を観るのです。
そして次第に経営の事にも、政治の事にも、専門的な分野の事にも知識や見識が付いて行く様に養って行くのです。
出来ないからと言って初めから、「相談者や相談内容を選ぶ」行為は最低の占い師のやる事です。
第百四十三指南 指南の現場は学びの場 其の一
相談者の相談には実に様々なものがあるとは言え、「指南の現場の本質」は「学びの場」なのです、ここを昨今の占い師や相談者は理解を出来ていない人が多くいる様に思います。
指南の現場は安易に「答え」を求める場でもなければ、「神秘や不思議」な事を語る場でもありません、指南の現場は「どう生きて行くか、何が欠けているのか、何を養うべきか」など「占いの本質は人生指南」なのです、故に「真剣に生きる意味」を説く事が求められます、つまり「人生を教え説く」指南の現場は「学びの場」と言えるのです。
何にしても学びです、仕事の悩みでも家族の悩みでも、人間関係でも健康問題でも、全ては「学びに通ずる」という姿勢が指南者、相談者共に有って然るべきなのです。
昨今の占いの現場は「彼とどうなりますか?」「一流企業に就職は出来ますか?」「どうなりますか?」など「答えそのもの」を尋ねに来る相談者が非常に多い傾向と強く感じます。
確かに「悩みに対しての答えそのもの」を指南する事もありますが、時に「ヒントに始まりヒントに終わる」事もあるのです、それは本人に気付いて欲しい事があるからです、「自らが学び成長する」事が重要な時があるのです。
学校でも試験やテストがありますが、それまでの授業で試験問題やテスト問題が解ける学びを教えます、そして中間テストや試験などでその実力を計るのです。
学びの無い人生に運は付きません、故に人生そのものが窮屈で息苦しく、間々ならない人生と成るのです。
第百四十四指南 指南の現場は学びの場 其の二
先の「百四十三指南」では「指南の現場は学びの場」であると説きましたが、これは何も「相談者」に限った事ではありません、当然「指南者」にも同じ事が言えます。
「教える事は教わるに通ず」なのです、指南業を通して我々指南者も常に学び進歩、進化して行かなければいけません。
「学び」は「相談者」「指南者」共に高い水準で求められる事なのです。
「指南者」の学びが低い又は学ばない様ではどうなるか・・・「次第に指南の幅に限界が生じ気が付いたら同じ事を口にしている」とか、「程度の低い指南をする」とか、「本質的な指南が出来ない」とか「相談者が響く指南が出来ない」とかに陥ります。
又、難しい相談内容が来たら、どうすれば相談者を一歩でも前進できるかを指南する事は指南者側にも工夫と知恵が求められます、それを考え得る事によって指南者も学び進歩するのです。
どの道、指南の現場は「相談者」「指南者」共に学び成長する場なのです、ここに軸が無いと指南の現場が何をする場なのかにグラつきが生じます。
指南者は「指南の現場は学びの場」という「軸」と「全ては相談者の為に」という「情熱」があるから相談者に響く事が言えるのです。
「独楽」も軸があり、回転力があるからこそ回るのです、回らない独楽にならない様に。
第百四十五指南 本質的に役に立つ
今までも至る所で言って来た事ですが、指南者や占い師という存在は「社会や人に本質的にお役立ってこその存在である」のです。
重要な所は「本質的」という所です、「本質」とは「それが無くなれば存在し得ない要素」という意味で人が生きて行く上に於いても非常に重要な要素でもあります。
「霊界からの伝言」「死者からのメッセージ」「前世論や生まれ変わり」「生霊、悪霊」「アカシックレコードにアクセス」「過ぎる信仰心や神論」これらが現実を生きていく上で「本質」と言えるでしょうか?
其仙流はこれらの事は「まやかし、嘘、非現実的、妄想、無価値、無意味」としています、占い師がこの様な世迷言を口にするからこそ一般人も影響され在りもしない妄想の空論を信じてしまうのです。
この様な世迷言を口にする指南者や占い師は現実を必死に一生懸命に真剣に生きている人には通用しません。
生霊がそこら中にいるのならこの社会は成り立ちません、死者からのメッセージは何故本人に直接言わず縁も所縁も無いスピリチュアリストに伝言を伝えるのか、とてつもない苦労の時に神様が現れて助けてくれましたか・・・。
もう答えはとっくの昔に出ているのです、「この様な世迷言は有り得ない」と・・・指南者や占い師は現実を真剣に生きる事を説くお仕事です、どこまでも「現実に則した指南」をすべきなのです、それが「本質的に役に立つ」という事に初めに求められる心得なのです。
第百四十六指南 無限の未来に向かって
指南業や占い業とは「無限の未来創意に根差し、本質的にお役に立つ」という意識があって初めて意義が生まれます。
ファンタジーやメルヘン、神秘思想、オカルト霊感思想などでは決して本質的に人や運勢は救えません、あくまでも「人は現実の世界で生きており、その現実の世界で起こった問題に悩んでいる」のですから、当然占いも現実に則したものでなければいけません、占いは「現実的問題を現実的に解決する若しくはその手掛かりを示す事」です。
しかも、その取り組む姿勢の根幹には「無限の未来」を意識する事が望まれます。
普通では諦める事、例えば「医者に見放された、銀行に見放される、家族や親友から見放される」この様な出来事は一般的には解決し難い問題であっても、針で開けた小さな突破口を見出す様な指南、例えどん底に落ちても少しでも人生に希望を感じる様な生き方を説く姿勢は必要です。
この姿勢を生み出す力の源は「造化」です、この「造化」によってこそ人の人生は本質となるのです、故に「未来の創造」は「造化」により生まれ、どん底の人生にも僅かな光りが差し込むには「造化」による新しく切り開いた生き方を提示する姿勢が求められるのです、それも「無限の未来」という大きな意識が必要となります。
人の人生は「生き方一つ」で千差万別に変化をします、例え頭が良く切れ者でももう一つ誠意や礼儀に欠けているなら社会では通用しません、逆に不器用で要領が悪い人でも真心と丁寧さがあればその価値を分かってくれる人には真価を評価されます。
その生き方を説くお仕事が指南業や占い業なのです、無限の未来を指南できてこその指南者と言えるでしょう。
第百四十七指南 十年、二十年掛けて取り組めるか
指南者として「本物」になる為には技術や能力の鍛錬にも相当な時間が掛かります、その上に必須な事は何を置いても「人格の養い」です。
この「人格の養い」には先ずは「素直さ」を徹底的に養う事がかなり重要となります、ここを疎かにすると後々限界が生じます。
人は誰しもが「我(が)」を持っています、これは未熟になればなる程に困った状況を引き起こします、「周囲に不快感を与える、自分の殻を破れない、深く学ばない」などなど他にも様々な問題を起こします。
故に「学びの始めに素直さを学ぶ」のです、素直さをしっかりと腹に深く養い、それから様々な知識や技を学んで行く事が理想的な学び方となります。
又、「本物」になるには相当な時間が掛かると先にも言いましたが、ではどの程度の時間が掛かるかと言えば「十年」で「本物」に達する事が出来たならばかなりの才能の持ち主です、通常は真剣に取り組んで「二十年」は掛かるものです。
この「十年、二十年」を時間が掛かり過ぎるからと安易にそこらの巷にある様な「〇〇回学べば貴方もプロの占い師!」みたいな「占い師ごっこ」を生み出している様なものに乗っかかる様では永遠に「本物」には成れません。
これらの事は何も「指南業、占い業」に限った事ではなく一般のどの様なお仕事でも同じ事が言えます、「本当の本物」の領域に至るには「十年、二十年」は掛かるものなのです、深く人格を練りもせずに知識だけ、アイディアだけ、では必ず限界が生じます。
第百四十八指南 仕事とは人格と共に
どんな仕事でも同じ事が言えますが、「仕事とはその人の人格が仕事をしている」のです、つまり「仕事とはその人なりや人格が出る」のです、これはどんなに隠してもいずれはボロが出ます。
特に指南業はこの「人格」が重要となります、「人格」が不十分だったり未熟だったりでは、「必ず限界が生じます」「指南業」では相談者の生き方や性格、成長度合いなどを十分加味しなければいけません、言い方を変えれば、その人の「人生の輪郭」をある程度一撃で看破し、その人生の輪郭に欠けがあるか、へこみや出っ張りがあるかなどを一瞬で見抜けなければいけません。
それに、正しいバランス感覚と深い人生観が求められます、「正しいバランス感覚」とは生きていく上に「左右のどちらに舵を切るのか」という判断力、「深い人生観」とは「本質的な生き方と不本質的な生き方のどちらも受け入れ加味し考慮する姿勢」です、この様な「玄妙な姿勢で指南業に取り組む」には「深い人格の養い」が必須となるのです。
人生、運勢とは普通の人が普通に考えても判断に困る事があります、例えば「浮気」を続けている女性が「この恋愛をこの先どうしたら良いのでしょうか?」と相談しに来たとします、普通の感覚を持った人ならば「別れなさい」と言うのが一般的でしょうが、人生、運勢は奇妙なもので時に人により「そのままで良い」となる事もあるのです。
その様な判断には「普通の感覚」では到達できない領域があるのです、この普通とは「何が普通なのか」という「物事の本質を得る領域に達した」者でなければ分からない事も沢山あります。
故に指南業や占い業には「深い人格形成」が不可欠なのです。
第百四十九指南 指南者に最も求められる要素
指南者に最も求められる要素は幾通りか言えます、当然「正しい占法」や「正しい取り組み方」は必須ですが、ある意味で最も重要な要素は「人格」になります。
それも「高い人格」で所謂「人格者」と言われる者です、指南者や占い師は相談者に「人生や生き方、成功する為の学びや成長」などを説くお仕事です、当然「物事の本質を覚る」事が出来なければいつまでも「本物」には成れません。
「物事の本質を得る」には「東洋哲学を深く学ぶ事」が先ずは上げられます、又学びにはどこまでも「素直さ」が求められます、この「素直さ」を軽んじる者は「絶対的に限界が生じます」のでいつまでも「腕利きの指南者」には成れません。
この様に「物事の本質を覚る、物事の本質を得る」段階に来て始めて「本物の指南者」の入り口に立ったと言えるのです。
「人生や運勢」というものは「真剣」なものです、「真剣に生きる、真剣に考える」これらが「人生や運勢」には当然求められるのです、「優しい優しい占い」や「怖い怖いのオカルト霊感の占い」「あなたの心に光りを灯す事をモットーにしています」などのメルヘン的な歌い文句を口にする占い師ほど腕も無い上に、信じられないものです。
「人格者」の領域に達した指南者は常に「真剣」に占いに取り組みます、それは「生きる事は厳しい事、大変な事、苦しい事」と覚っているからです、故に「生温い」事を口にはしません、その大変な人生を苦労し乗り越え、その上で自分だけの幸せの生き方を見つける指南をする事が指南者のお仕事です。
第百五十指南 流行や時代の流れに流されない
指南者と言うものは単純に言えば「人生を説くお仕事」ですから、「物事の本質」を押さえなければいけません、そして「物事の本質」とは「不変的なもの」です、決して流行や時代の流れで変化する様なものではありません。
今「川」の流れの中に入って佇んでいます、その川の水が泥水に変化し見た目も汚くの濁り、透明感があった川の水はどこかに吹き飛んで行きました、この「川の本質」は何でしょう?
皆さん一度考えてみて下さい・・・。
「本質」とは「無くなったら存在し得ない要素」という事です、言い方を変えれば川に「絶対的に必要な要素」という事です。
ここまで来たら分かるかと思いますが、答えは「水」です、「川」に「水」が無くなればそれは「川」ではなくなるからです、「泥水」と言う状況に惑わされずに「川の本質」を見抜く事が出来る者は、流行や時代の流れに流される事無く、惑わされる事無く「本質を説く」事が出来ます。
流行や時代に流される指南者は「安易な指南」をします、例えば「浮気問題では、直ぐに離婚を勧めたり、浮気を悪と決め付けたり」又「上司が意地悪な職場、定時に帰れない問題を抱えている職場には転職を容易く勧めたり」とするなどの傾向があります。
「物事の本質」は「時代の流れなどで変化はしません」「物事の本質とは不変的なもの」なのです、この「不変性」を覚る事が出来ない指南者は伸び代も高が知れています。
第百五十一指南 安易な同情、安い言葉は禁物
相談者は様々な悩みを抱えているものです、よく耳にする仕事上の人間関係や夫婦の問題、嫁姑問題などなどから果ては、「この悩みは日本で起こっているのか」と耳を疑いたくなる様な深刻な相談など色々あります。
そんな指南の現場に於いて我々指南者が心得ておかなければいけない事は、可哀想な相談者や、苦しそうな相談者などに対して「安易に同情をして、安い言葉をかける」・・・この様な事は絶対的にすべきではありません。
其仙流の先人達も「安い同情、安易な同情」は「全くの無価値である」とし「帰って相談者を傷付けてしまったり、指南の価値を下げてしまったり」とします。
「安易な同情や安い言葉」は「正しくない指南をしてしまう」事に通じます、例えば「腹立たしいがそれを飲み込み弁えている」人に対して「切ないですね、悲しい事ですね」などと安易に口にしても相手の心の奥深くには何も響きません。
「腹が立っているけれども、それを出してはいけない事を弁えとして腹に飲み込んでいる」のですから「大変ご立派ですね、苦しいでしょうけれどもご立派です」というのが「本質的」です。
この様に指南の現場には「相応しい言葉選び」が求められるのです、又「安易な同情」も色々あって、相談者の悩みについつい深入りしてしまい、相談者と指南者との関係性が必要以上に縮まってしまう事も問題が生じる原因ともなります。
親しい関係性の中にも一定の距離を置く事が指南業には必要な要素です、必要以上に相談者と近しい関係になって馴れ馴れしく近寄って来る相談者もいます、どの道「安易な同情や、安い言葉」は禁物で、「相応しい」を心掛けましょう。
第百五十二指南 程度の低い指南者には、程度の低い相談者が付く
これは非常に重く受け止めて考えなければいけない事です、「神秘思想に染まっている指南者」や「ありもしないオカルト霊感占いをする」「自己満足に陥っている占い師」「占いをメルヘンやファンタジーと勘違いしている占い師」「守護霊や守護神などを口にする」などなど上げていたらキリがありませんが、これらは「程度の低い指南者の代表例」です。
そもそも「占いとは現実的問題を現実的に解決する、若しくはその手掛かりを示す事」です、更に「生き方を説く」「より発展、成長をする為の指南」これらをする事が「占いの本質」です。
どこにも「神秘思想、オカルト霊感、守護霊、メルヘンファンタジー」などは出て来ません、その様な事を口にする指南者や占い師は「偽物、紛い物」と言えます。
そして、この困った状況に更に輪をかけるのが「程度の低い指南者」には「程度の低い相談者が付く」にあります。
これに因り「程度の低い指南者」は「自信を付ける、場合により自分を本物と思い込む、自己満足に陥る」のです。
「今顧客になって頂いている相談者は質が高い、程度が高い」などと口にする占い師がいますが、実際相談者を見たら、その多くが「生きる力が弱い、神秘思想に染まっている、現実と非現実が混ざっている、常識が無い」など問題を抱えていたり、生き方をこじらせている様な相談者ばかりの上に、占い師がその様な問題点を指南するわけでも無いのです。
お互いが「自己満足な関係性」なのです、つまり「程度の低い指南者には、程度の低い相談者が付く」のです、これに付ける薬は「東洋哲学の学び」しかありません。
第百五十三指南 質の高い指南者には、質の高い相談者が付く
「百五十二指南」の対とも言えますが、「程度の低い人には、周囲に程度の低い人が集まる」もので、翻って「質の高い人には質の高い人が集まる」のです。
「類は友を呼ぶ」の原理です、似通った者同士は自然と寄り集まる傾向があるのが世の流れです、「程度の低い者同士、理屈屋同士、頭でっかち同士」などが寄り集まり「類は友を呼ぶ」のです。
一方「質の高い人には質の高い人が集まる」とは言ってもそもそも「質の高い人」が少ないのですから、当然、全体で言えば少数派になりやすくなります。
でも「本質」は「質の高い」を目指すべきで、その為には「東洋哲学の学び」を深める事です、「知る」だけでなく「行える」の域に達するほどの学びを自らに課するのです。
「東洋哲学」は「道」を説いています、特に「孔子の論語」は秀逸で、人としての基礎から生涯に渡る人生の導き書と言える内容です。
其仙流でも「素直、謙虚、感謝」をして「三徳」と呼び、人の基本にして根本であるとし、更に「仁義礼智忠信孝悌」のいわゆる「八道」それに「和の精神」を付け加え「九道」として「人として、指南者」としての「質の向上」を計り重きを置いています。
一言で言えば「質の高い指南者」とは「物事の本質が分かる者」という事です、故に「人格を高める」事が望まれるのです、「人格を高める」為に「東洋哲学を深く学ぶ」人自体が少ないとは言え、質の高い人は「本物、価値、本質」が分かるのです、これが程度の低い人との決定的な差と言えます。
第百五十四指南 指南業はお金を頂いてなんぼ
「指南業、占い業」は所謂「生業」に属するものです、時々耳にするのは「本物の占い師なら無料で占ってみろ!」とか「占い師のクセにお金儲けに走って、けしからん!」と口にする人がいますが、これは「指南業、占い業」の本質を理解していない程度の低い人の言い分です。
「指南業、占い業」は基本はあくまでも「生業」であって「奉仕活動、神社などの奉職者、ボランティア、慈善事業」などでは決してありません。
「生業」とは「暮らしを立てる為の術(すべ)」という事です、つまり「仕事」なのです、「仕事」は当然「対価を頂くのです」から、現代ではその対価の多くは「お金」という事になるのは至極当然の事です。
又「嘘や在りもしない神秘思想、オカルト霊感などいわゆるメルヘンファンタジーを口にする」などは論外ですが、「腕」があれば、高い鑑定料金を頂いても何も問題はありません。
本来、占いは「本質的に地域や社会、人のお役に立っているか、どうか」が真っ直ぐに突き付けられるもので、「遊びの隙間」などは無いものですが、現代の占い業界は「何が本物か、何が本質か」が抜け落ちているので、お金儲けに走っている占い師も沢山います。
そもそも「指南業、占い業」は「就職する様な仕事、生活基盤を成す様な仕事」ではありません、「人に本質を説き少しでも豊かに人生を送って欲しいと本気で思う気持ちから次第に成って行く」ものです、「憧れで始まり、憧れに終わる、自己満足」な占い師では「本物」には成れません。
一方「物事の本質を得る養い、人格を磨く学び、見識を高める意識、その上で本物の占法を習得し、実力が十分備わっているなら、お代を頂く事に誰の何の引け目も感じる事は有りません、堂々と商いをすれば良いのです。
第百五十五指南 本質を説く最後の砦
社会はいつの時代も「一定」というわけではありません、「戦争や紛争」「国民間の格差」「差別問題」などが原因で「社会は不安定」なものです。
又「平和過ぎたり、満たされ過ぎたり、便利過ぎたり」する事も実は知らない内に「社会の不安定」を招く要因となります。
これら「社会の不安定」な状態になるとどうなるか・・・「集団による調和より個を主張する流れが生まれる」「何が大切なのかを見失う」「本質が分からない」「主張の主張をする人が増えて来る」「価値や本物が分からない」などなど様々な問題が生じます。
そうすると「最後は秩序を失う」のです、更にその結果、「社会が大きく致命的に乱れる、崩壊する、無法地帯」となるのです。
始めは気付きにくい小さな綻(ほころ)びです、それが次第に社会を大きく揺るがす原因となるのです、例えば昨今「夫婦別姓」の問題が取り沙汰されますが、これ自体は左程、特別問題ではありませんが、安易に「夫婦別姓」を語り、二者択一の制度にすれば良いという事ではありません、一度本質的な議論をするという段階が必要なのです。
そもそも日本では「お嫁さん」は「夫」に「嫁ぐ」という意味があります、「嫁ぐ」とは「夫の家の家族になる」という意味が含まれています、これ故に「性」は旦那さんの「性を名乗る」事が日本の結婚観の根幹にあるのです。
この結婚観、家族観は日本の文化に根差した深いもので、欧米や西洋の様な「夫婦」を「パートナー」と見たり「結婚をしてもお互いの個を主張する」つまり「男女の立場に男女差が無い」という特徴がありますが、これは日本では馴染めないものなのです。
日本では古来、男性が外に出て狩猟をして、女性は家を守り家事や食事の準備をする、という形を純粋に受け継ぎながら家族観が徐々に形作られて来ました、これは日本の文化の根底にある強い概念なのです。
それを単純に西洋と比べて「日本は遅れている、日本は時代遅れ、日本は古い考え方」とするのは根本的に論点がズレています。
日本でも「男女に因る立場の違いはあるものの、お互いの立場や主張を尊重する」事は当然必要ですが、だからと言って夫の「姓」を名乗らないというのは一部にどうしようもない複雑な事情を抱えている人は例外的に省くとしても、一般的ではありません、恐らくは西洋文化に毒されて深く日本の家族観を善悪偏らずに客観的に理解していない人の主張だと思われます。
この様な問題は人によっては「感情的になりやすい、深く考えもせずに口にする、偏った考え方で反発する、本質を欠いた考え方」をしやすいもので、この延長線上に何があるかと言えば「日本の西洋化」が進むのです。
「西洋化しても良い部分」と「日本の文化や精神を守り後世に伝えるべき部分がある」のです、「夫婦別姓の根拠を西洋や欧米の結婚観に見出す事」これを「多様性」だと言う人がいますが、これは本質的には「多様性」ではなくただの「混乱」の元に成り得る主張なので、慎重さと弁えを持つべきです。
この様に何気ない問題でも実は深刻な問題が日常には潜んでいるのです、「国家の基礎は人であり、その人の基礎は家族であり教育なのです」故に国民性が高いか低いかはそのまま「親からの教育の質が高いか低いか」です。
例え親から質の高い教育をされなくても「学校」が「人を育てる教え」を昔はしていました、それでもダメなら「社会が人や心を教え育ててくれました」が現代では、親の教育にも「子供に哲学を教えるという姿勢が無い」「学校が人を育てる場でなくて知識を教える場になっている」「社会も個性を重視する様になっている」・・・。
この様な状態が日本の現実です、「人の基礎は教育」ですが、もう一つ質の高い教育が出来ていない、学校も教師が教育ではなく仕事をする場になっている、当然社会も徐々に質が下がって行きます。
こうなると、国民性が落ちます、これにブレーキを掛け、修正し、本質を説く事が出来るのは「指南者」しかいないのです。
昔から其仙流の先人達が口伝で言っていますが、「指南者は本質を説く最後の砦である」といって世の乱れを憂い、正して来たそうです。
「本物の指南者」は世の乱れも正す事が出来る存在なのです。
第百五十六指南 「発展の機運に寄与する」の構え
「指南者」は相談者の様々な「悩みに対して一定の方向性や答えを示す事」を務めとしますが、それだけで終わっている様ではもう一つ価値が低い指南者と成り得ます。
其仙流では「発展、成長、学びに寄与する姿勢」がもう一つ価値のある指南としており、いつも出来るとは限りませんが、可能な限り精一杯「発展、成長、学びに寄与する指南」をする事を「一つの美学であり徳であり本質である」として心得ています。
相談者の悩みに応える・・・更にそこに、「発展に通ずる指南をする」事が他の占法や占い師では出来ない事です、それは「正しい占法を会得し、尚且つ東洋哲学を以って人格形成を目指していない」からです。
「発展を指南する」には「本質の分かる人格と占法」の二つが必須なのです又、発展とは所謂「仕事での発展、お金など経済面での発展、出会いでの発展」なども当然含みますが、ここは「個人の成長発展」が重要と見なします。
様々な発展を人は望みますが、それに見合う「努力や自分作り、器作り」を無視しての発展はどこか歪で不自然であり本質的でないと其仙流は感じます。
どの様な発展を望むにしても、先ずは「自らの人作り」から始まるのです、この事をしっかりと腹に据えての「発展的な指南」が本質的であり、ここを飛ばしての発展などを口にする指南者は腕の無い指南者と言えるでしょう。
「相談者の悩みに応える」は当然として、その上での価値を考えるに指南者の真剣な姿勢が見えるのではないでしょうか。
第百五十七指南 何を当てるのかが肝心
現代では「カメラ」はとても身近な存在になりました、以前は「カメラ」は「一眼レフ」など専門機でしたが、今や「スマホ」にカメラの機能があるので、何気ない風景を取ることや食べる食物を撮るなど、昔では考えられなかった事を出来る様なりました。
そんな「カメラのピント」は映し出した画像を美しくも台無しにもする要素です、ピントが外れていたら、画像がボケたり、色ムラが出たりして、画像や写真としては台無しです。
「指南」もこれと全く同じ事が言えます、「いくら相談者が納得してくれた、喜んでくれた、感動してくれた」としてもそれが「本質的な指南」でなければ「本質的な意味や意義、価値」はありません、その様な事で満足している様な指南者は「自己満足に浸っている程度の低い指南者」と言えます。
「他占法の過誤や真正論、その他のテキスト」などでも言っていますが、「占いは言い当てる行為だ!」とする、一般人や素人占い師がいますが、これは全くの誤りであり、言い当てる事が出来る時は出来るが出来ない時は出来ないので、意味がありません。
そもそも「未来は決まっていない」のですから、「言い当て続ける事は不可能」です、では「何も当てなくても良いのか」と言われれば「否」です。
それは何かと言えば「占いとは現象を言い当てる事」ではなく「本質を当てる」事が必須なのです、でも本質を「言語化して、相談者に伝える事は時として必要無い」のです、問題は「本質を得たその後の指南」なのですから。
この「ピント」が正しく作用する人は占いに対する最低限の取り組む姿勢があると言えるでしょう。
第百五十八指南 占いは誰でも出来るのか
現役の指南者やこれから占い師を目指す人、一般人の人にも深く理解して欲しい事は「占いは誰でも出来るのか?」という事です。
これは皆さんが思っている以上に深刻な問題を含んでいます。
例えば、「お医者様」を例にしてみましょう、Aという医者、Bという医者の二名の医者がいます。
お医者様に成るには様々な知識を学び技術を習得し経験を経てやっと成れるもので大変な努力が求められるものですが、Aドクターは知識や技術は凄いが患者さん目線になる事が出来ないタイプのドクターで一方のBドクターは知識も技術もAドクターと同じくらいありますがその上に「患者さん目線」になる事で「安心感」を届ける事を心掛けており、又細かい変化などにも対応し、患者さんにも耳を傾ける事を意識しているドクターです。
「お医者様」にはAのタイプの人、Bのタイプの人でもどちらのタイプでも成る事は出来ます、現にこの様な「お医者様」は存在します。
でも「お医者の本質」と言われれば、答えは「Bのドクター」でしょう。
「お医者様」は「治療する」事がその本質ではあるものの、それだけでは不足であり、「安心を与える」事が出来て初めて「お医者様の本質」に達したと言えるのではないでしょうか。
これと同じ事が「指南業」でも言えます、誰しもが占い師には成れるものの「本物の指南者に成るには人を選ぶ」のです。
先ずは「正しい本物の占法を学ぶ」事から始まり、「それを扱う高い人格を養う」その上で「指南業への正しい取り組み方」などを高い水準で求められるのです。
「弁護士になりたい!パイロットになりたい、野球選手になりたい」と思っても可能性は誰しにもあります、又かなりの努力をすれば一定数の人がなれるでしょうが、「本物に成る」にはここから更なる努力が求められるのです。
「指南者や占い師」は初めから「高い水準でこれらを求められる」のです。
「占い師は誰でも成れるのか、占いは誰でも出来るのか」・・・本質的な答えから言えば「誰でも出来る仕事では無い」のです。
余程の覚悟も求められ、その覚悟も覚悟のし直しを迫れる事がしばしばあります、「占いの達人、名人」を目指す事は指南者ならば当然ですが、「達人、名人」は気が付いたら成っているものです。
「占いの本質、占い師の本質」を能々理解、学び、修養しなければいけないので、普通の人では到底無理なお話しなのです。
第百五十九指南 これで飯を食う覚悟
「指南業、占い業」は現代では一種「憧れ」の要素があるのでしょうか、日本では「指南者、占い師に成りたい」と思う人が一定以上いる様です。
「指南者、占い師に成りたい」と思う事は人の自由ですが、其仙流では段階を経ながらも「指南者」になる為の厳しい「覚悟」を教えて行き又、求めて行く事にもなります。
皆さんが指南者をどうイメージしているか分かり兼ねる所もありますが、「指南者、占い師」は決して「お金儲け」は先ず無理です、特に初めは「貧乏を強いられます」ですがこの貧乏も修行の内なので、避ける様ではいずれ限界が出て来ます。
この「貧乏」を経験しない様な指南者、占い師は「ネット占い、電話占い」などをしている様な本質から逸脱したやり方をしている占い師です、ネット占いや電話占いの全てが悪いというわけではありませんが、言葉だけでの指南は伝えるべき指南が伝わらないという側面があるので、その辺りの理解を相談者に伝える努力をする、電話占いに関しては「時間制限を設けない、又は長く取る工夫」が求められますが、これでもまだ不十分な部分があるので、更なる工夫は必要でしょう。
後は「占いの館的」な環境で指南業をしている占い師ももう一つ本質的な占い師とは言えません、そもそも「真剣な相談」をして来る相談者が「占いの館」に来るでしょうか?つまり根本的に「腕が上がらない」のです。
「貧乏も覚悟する、どの様な相談者にも向き合う姿勢、東洋哲学の深い学び、高い人格形成の養い、大きな徳を目指す純粋な良心、善意の養い」などこれらを何度も覚悟を求められる場面に強いられます。
これらを乗り越えいつしか「風格を纏う」ほどの指南者、占い師になると「お金で苦労する様な事は大それた事を望まない限り無いでしょう」
ここまで来て初めて「これで飯を食っている」と言えるのです、でもこの覚悟は最大限初めから求められるものなのです、初めから「これで飯を自分は食うのだ!」と言う強い自覚と覚悟がいるのです。
そうでなければ一人前の指南者や占い師に成る前に挫折したり、諦めたりするのです、それ程にこの「指南業」とは厳しいものなのです。
ですが、とても厳しい一方でこれ程「貢献度の高い」仕事もないでしょう。
第百六十指南 人格に難のある人は向いていない
指南業を目指す人の中に「自分探し」を目的にする人が間々いますが、それはお門違いです、指南業はそもそも「人に生き方や、成長、学びを説くお仕事」なのですから、「自分が分からない」様では務まるお仕事ではないのです。
又、生来の「発達障害者や精神疾患」などを患っている人も、指南業に「向いていない」というよりかは「出来ない」ものです。
軽度の発達障害者ならば可能性はあるかもしれませんが、「強い精神力や意思、物事の本質を説く」などには自らが事前に大変な努力を強いられます、恐らく多くの発達障害者の受け入れられない内容や努力も当然求められるので、先ずは初めに躓きが生じますので、「かなりの努力と自らの養いに重きをおかなければ」出来るものではありません。
指南業は「相談者の心に寄り添うお仕事」とも言えますので、「人の感情や気持ちに添う事が出来ない人」「自分都合な価値観を指南する様な人」「相談者の心の温度が分からない人」「物事の距離感が分からない人」には非常に難しいものです。
その様な人は「自らの心と精神を深く養う」か「作業的な仕事に就く」かしかないでしょう。
又、後は「独善的な人、傲慢な人、現実的思考が出来ない人、論理的思考が出来ない人、物事の本質が分からない人」なども指南業には向いていません、この様な人は先ずは「物事の本質を得る学び」つまり「東洋哲学の深い学び」から始め「素直さの養い」を十分に養う事が重要となります。
又、「人格が未熟」と「人格に欠けがある」とは微妙ですが、根本的に違います、「人格が未熟」は誰しもが通る道であり、「自らを深く養う事」で乗り越えられますが、「人格に欠けがある」場合は、非常に注意が必要となります、この様な人は「相手の感情や思いを掬い取る事が出来ない」とか「相手の心情を無視する様な事をする」などの行為をしやすい傾向が強いので、先ずは「素直さの養いと感情を修養する学びを深く行う事」が求められます。
この様に「指南業」と「人格」は密接に関係しており、普通の人間性などでも中々難しいお仕事と言えます、「人格形成が深い指南者」ほど物事の本質を得た玄妙な指南が出来るのです。
第百六十一指南 判断の重さ
我々指南者の務めは相談者を「開運させる、成長に必要な学びをアドバイスする、生き方を説く、禍を回避させる」です、つまり我々「指南者と言う人」が「相談者と言う人」を「判断」しているのです。
これは、とてつもなく「重い」もので、「指南業や占い業」に限らず「弁護士、お医者様、公務員、学校の先生」など人の人生に関わる仕事全般に言える事です。
特に昨今は「判断の重さ」の「怖さ、真剣さ」というものを理解していない、占い師が後を絶ちません、先ずは「指南やアドバイス」の重さを知るには「本物の師や先生」から教わる事と、真剣に指南業、占い業に対する取り組む姿勢が高い水準で問われます。
「指南」一つで「生き方や人生が良くも悪くも変わる」のです、「指南」一つで「命が助かるか終わるかが決まる」事もあるのです、「指南」一つで「幸不幸が決まる」事もあるのです。
この様に、非常に「責任や覚悟」を求められる仕事なのです、「生半可な者」では到底務まる務めではありません、「人が人を判断する」とは「重い」のです。
我々指南者の指南やアドバイスはそのまま「人の人生の重さを預かる」事と同じなのです、それを軽々に扱う事がどうして出来るでしょうか。
人の人生や命を預かる「覚悟」を何度もし直す事が問われる仕事です、遊びや趣味では出来ないお仕事なのです、「本物」の業を会得し生涯を掛けてそれを磨き、又、物事の本質を得る事が出来る人格を養う事が求められるのです。
第百六十二指南 現実に立脚せよ
今までも何度も言って来た事ですが、「占い」とは「現実的な問題を現実的に解決する、又はその手掛かりを示す事」です。
つまり「現実に立脚する」という事です、「立脚」とは「よりどころ、立場」の事です、これは指南者や占い師をする者にとって非常に重要な指針です。
「オカルト、霊感」に立脚する占い師は「オカルト、霊感」の視点で相談者の相談を聞き、それに答えます。
「スピリチュアル」の様な「神秘思想」に立脚する占い師は「スピリチュアル」の視点で物事を判断します。
「当たる当らない」に拘り立脚すると「当たる当らない」が全てになってしまう。
これは「何を信じるか」という人の根本論に基く価値観に関わる事でもあるので、「スピリチュアルは人為的に生み出されてもの」「オカルト、霊感に根拠は無い」と主張した所で、それらを信じている人の心には届く事は難しいものです。
故にここは「現実を信じるか」若しくは「現実の問題が神秘思想、オカルト霊感に機縁するものである」とするかの違いとなりますが、殆どの相談者の悩みや相談は「現実社会、現実世界」で「現実的に起こっている」事なのです、それを「守護霊や生霊」などを原因とする様な占い師、神秘思想で解決する様な占い師が「現実を見ている」とは思えないわけです。
占い師側の信じている「世界観や価値観」でアドバイスをしているに過ぎないのではないでしょうか?本当にその様な事で人の人生や運勢を救える事が出来るのでしょうか?
其仙流は「現実的問題は現実的に解決すべき」と定義しています。
いくら「原因が生霊です、守護霊が弱いから」とか言った所で「現実が改善する事はあり得ない」のです。
現実を一生懸命に生きて、真剣に人生を歩む人を助け、生きる勇気を与え、生きる意味を指し示すには「現実に立脚」するしかないのです。
「現実から逸脱」すると「現実から遊離、解離」してしまうので、「非現実を現実と取ってしまう」事になります、こうなると中々現実に戻れなくなるので、注意が必要となります。
第百六十三指南 本物の姿勢
「自分が本物の占い師である」と多くの占い師が思っている事と思いますが、「本物」とは「本物の占法」を習得すれば「はい、これで本物です」というわけではありません。
「本物」とは「本当に運勢を観る事が出来る占法」を習得するは当然としても、「占い業、指南業に真面目に取り組む姿勢」「相談者に真剣に対応する姿勢」「運勢学に真摯に取り組む姿勢」などの「取り組む姿勢」が高い水準で問われます。
更に「物事の本質が分かる人物性を養う」事も不可欠ですが、ここでは「取り組む姿勢」に拘りたい。
人は「取り組む姿勢」に「取り組む理由、その人の根本や本性」などが現れます、相談者の前ではリラっクスして笑顔で対応していても、本音はお金儲け、運勢など観えていないなどは取り組む姿勢を観ると分かるものです。
厳密にいえば「指南業」に「プライベートは無い」のです、人前であろうが、一人でいる時であろうが、「占いに真剣に取り組なければいけない」のです、そういった「真剣な姿勢」を積み重ねる事により徐々に「本物の片鱗」が磨かれて行くのです。
「本物」は常に「本物」なのです、故に「本物」なのです。
この様な言葉あります「善を行うよりも、善である事が優先される」、これは善を行う事は誰でも出来るが、その心や精神が事前に善であるかを説いているもので、善行を行う事は出来ますが、本心や真心から善行をおこなっているかという事です。
指南者もこれと同じ事が言えるのです、「本物であろうとする」という事は取り組む姿勢も求められるのです。
第百六十四指南 趣味では出来るものではない
この「指南業」という仕事は一般的には、恋愛相談、仕事の相談、人間関係、家族関係、健康相談などありふれた相談が大半を占めますが、こちらの腕が本物ならば時に想像を超える相談が入って来る事があります。
例えば「経営の相談、生死に関わる病気の相談、政治の相談」など非常にスケールが大きい相談、深刻な相談などは通常では考えられない相談の部類になります、ですが、「本物の腕」を磨いている指南者はこれに応える事が出来ます。
そもそも「占い」は古代中国に於いては「国の政治や戦、国政の人事」などの助言をしていたのですから、「本物」ならば当然の如くに事前に己を養っているものです。
でも現代では趣味で占いをやる人もいます、「お遊び」なら問題はないのですが、仕事として指南業をしている人の中には趣味の延長上の様な事でやっている指南者や占い師もいます。
「占い業、指南業」は本来は「趣味」で出来るものではありません、又いくら才覚があり情熱があっても難しいものなのです。
古書「麻衣神相法」の中に於いて「之妄りに教えるべからず」と書いています、よっぽどの才があっても運勢学を正しく理解出来るものではない、故に妄りに教えると運勢学が歪み、曲がって行くから教えてはいけない、という意味です。
それが「趣味」ならば尚の事、曲がって行くのではないでしょうか、「指南業」は趣味の構えでは本物になれないのです。
第百六十五指南 貢献度の高い仕事
「占い業、指南業」は普通は「好奇な視線、変わった人がやるもの」などと言う様に「普通ではない」という認識が世間一般的にはあります。
それは「偽物、紛い物」がいるからなのですが、又「本物の基準」が世間に浸透していない事も大きな理由の一つです。
「本物」であるならこれ程、「貢献度の高い」仕事はありません、「貢献」とは「力を尽くし、寄与する事」です。
「人に生き方を指南し、繁栄発展を指南し、学びと成長を指南する」仕事というものがどれだけ価値の高い事か、これは想像以上に大きく、深いものです。
その様な玄妙で価値の高い指南ができる指南者に成る為には「物事の本質を悟る学び、高い見識、大きな徳」を目指す事が必須となります。
貢献度が高いという事は、それだけでも「徳」に通じます、故に「本物」は「徳を積む」事になるのです。
又、「貢献」という事を誰かに知ってもらう必要はありません、知れる時は自然と知れ渡るもので、誰に知られる事も無いとしても、貢献する姿勢が「本物」の一つの在り方です。
又、「貢献」とは言っても「本質的な貢献」とは一体何なのか?という自らに問う習慣を高い水準で持ちたいものです。
「占い業」を以って「貢献する」を志す本物の占い師ならば深く考えたいものです。
第百六十六指南 多数の占法を取得する無価値
今までも言って来た事ですが、占法を複数取得する意味は左程もありません、占い師の中には「あらゆる占法に精通しなければプロとは呼べない!」などと口にする、占いの本質も分かっていない様な「占い師ごっこ」をしている輩がいますが、その様な占い師は人を不幸にする指南や適当なアドバイスしたり、本当に価値のある指南などが出来ない者です。
占法には「原理、原則」という「何故、運勢が観えるのか」という車で言えば「エンジン」の部分が無いと「運勢は観えません」、現代の殆どの占法は「正しい原理という思い込み」や「全く原理、原則が存在しない」という占法ばかりです。
又、複数の占法を取得する事は「パン」で例えるなら、「小さなパンを複数混ぜて大きなパンに見せかけているだけ」の事です、本物の占法は原理が一貫している占法を一つ二つで事足りるのです、それは「大きく膨らむ上質なパン」なのです。
「本物の占法」は「膨らむ」のです、一方「紛い物の占法」は「膨らみが無いので、複数の占法を足して誤魔化す」のです。
「占法」とは「付け足すのではなく、膨らませる」のです、其仙流も複数の他占法を取得しますが、それは本当にその占法が正しいかを謀る研究の為です、又其仙流内に於いても「無相」と「麻衣神相法」以外にも複数の占法が存在しますが、全て「原理、原則」が同じもので一貫されています。
ですが、「一般的でない」「習得に尋常ならざる構えが求められる」などの理由で一般に公開をしているのは「無相」と「麻衣神相法」となっています。
小手先の技術やテクニックを取得したとしても、玄妙な領域に到達出来るわけではないのです。
第百六十七指南 本物に成るに近道はない
どの様な職業でも「本物」になる為には「地道で苦しい修行」が求められます、大工さんでも、お医者様でも、料理人でも、何でもそうですが、「その道の頂」を目指そうとするなら、当然「地道で苦しい道を強いられます」これを避けては「本物」には絶対的に成れません。
①「本物」に成るに「近道は無い」
②「本物」に成るに「簡単な方法は無い」
③「本物」に成るに「自分流は一切要らない」
④「本物」に成るに「優しい方法など無い」
⑤「本物」に成るに「時間が掛かって当然である」
これらは「本物」になる為の必須な心構えです、でも現代占いの在り様はどうでしょうか?
「簡単で、近道できる方法を謳い」「相談者の耳に優しいばかりのアドバイス」「自分流の横行」・・・これでは「占いの真や占いの威力、威厳」というものはどこかに吹き飛んでしまっている状況です。
時間をじっくりと掛け「自分作り、占い師作り」を成しながらも先ずは「人格形成」を目指すべきで、そうしながらも「生業」を失敗、成功を重ねながら仕上げていく姿勢が求められるのではないでしょうか。
現代は「占い師を名乗ったら」それでもう、「はい、占い師です」・・・こんなものが本当に人の人生を説いたり、運勢を救ったりする「占い師」と言えるのでしょうか、「本物」は「本質的に相談者に寄り添い、本質的に運勢、人生を救い、本質的に道を開く指南をする」者の事を言うのです、その為には先の①~⑤が求められるのです。
第百六十八指南 予言は不可能
「他占法の過誤」で取り上げても良かったのですが、占い師全般に言える事なので、敢えてここで取り上げようと思います。
所謂「予言」というものが都市伝説なんかでもよく取り扱われますが「予言」とは「予め決まっている未来を見る」事と定義されていますが、この様な事は基本前提として絶対的に不可能です。
そもそも「未来は決まっていない」のです、それ故に「予め決まっている未来」というもの自体「存在しない」のです、「運勢」とはあくまでも「運の流れ」であって「定まった未来」ではありません。
ですから「何月何日の何時に○○が起こる」などという「予言、予知」は基本として無理な事です。
我々占い師は「運勢の流れ」を観て、高確率で起こるであろう運の流れを以って指南をするのです、そもそも古今東西予言、予知が的中し続ける様な人や現象は起こっていません、これがその根拠です。
例えば「ノストラダムスの予言」も「マヤの予言」もどれも、言われていた様な世界の破滅などは起こりませんでした、「予言」の殆どは「後の人が勝手に人為的に解釈したもの」であって、例えばノストラダムスが1999年に世界の破滅を予言したという様な歴史的根拠は一切存在しません。
但し、極々稀に「凄まじく直感が冴え渡り、無相と千里眼の併用を無意識的に使用してしまい」「超々高確率で起こる未来を予言めいて観える」事はあります、ですが、その状態がいつまでも続くわけでは無いので、「観たい時に観る」というわけには行きません、そんなあてにもならない事をするよりも「日々の運勢を観る」事が遥かに大事で大切なのです。
第百六十九指南 運は強める事が出来る
「占い師や指南者」である以上、「運を強める生き方」という事を指南出来る様にならなければ、そもそもが占い師の意義がなくなるというものです。
その為には「運についての深い学び」「人生の本質を悟る学び」「本物の占法」「物事の本質を悟る程の人格の養い」これらが最低限求められます。
「生霊や前世、神秘思想、オカルト霊感」などは一切無関係な事です、「運を強める」には「個人個人に合わせた生き方を説く」事以外にはありません。
「時に学び、時に忍耐し、時に迷い」そして「成長して行く」のです、問題は「何をどの様な姿勢で学ぶ」かです、「嫌々やる」のと「能動的にやる」のとでは得るものの質が変わって来ます。
嫌な苦労や努力も「嫌だろうけれども、歯を食いしばって気力で乗り越える」のです、「嫌だろうけど、前向きに捉えるのです」そうする事によって徐々に己というものが「磨かれて」行きます。
「刀」も最初は単なる鉄です、それを「熱し、叩かれ打たれ、水に入れられ、又熱せられる」そうする事により、徐々に「見事な刀に成る」のです。
人も苦労を成し、学び、努力する事によって「運を高める、強める」事が出来ます、問題はどこまでもやり続けれるかが問われます。
安易な道を選ばずに、可能な限り自分作り、自分磨きに打ち込むのです、運は強くなります。
第百七十指南 占いを自分都合に曲げない
古来より「占い」は「運勢を謀り、吉凶を元に指南をする」事です、つまり「人生を説く、学び、成長を説く、充実した人生の歩み方を説く」もっと分かりやすく言えば「個人に合わせた開運を説く」事です。
どこにも「オカルト、霊感、スピリチュアル、前世」などは出て来ません、その様なものは全て人が生み出した「人為的なもの」です、所謂「幻想」です。
昨今は「占いの概念」も様々存在しており、もはや「原形を留めていない」有様となっています、「本物の占い」とは「人の貴賤を謀る事、運勢を謀る事、本質を謀る事」と古書にも記されており、昨今の「占いリズム」とは根本的に相違なものとなります。
最近の占いに多いのは「占い」を「自分都合に曲げる」というのがあります、例えば昨今では「風の時代」という言葉がにわかに流行っている様です、これは「西洋占星術」から来る概念で「2020年12月22日」から「風の時代」に突入したそうです、「風」はその性質から、透明で自由だから「風の時代」ももっと多様化が進み、自由な時代になるという主張だそうです。
これを易者の人が口にするのです、全く意味が分かりません。
その人が言うには「易にも巽という八卦があり、巽は風を現わしています」・・・頭の中が???だらけになります、「風の時代」は元々はギリシャから生まれた思想でこの世は「土、水、火、風」の四つの元素から成り立っている、という「四元素」の思想が元です、恐らく18世紀に考えられた思想で、そもそもは「風の時代」などという概念すらなかったのですが、ルネサンス期に四元素の概念も変化が出て来ます。
西洋占星術に吸収され、「土水火風」はそれぞれ、200年周期で廻っており、先の2020年12月22日から風の時代に突入したのだそうです、これ一つ取っても分かる通り、初めには存在していなかった概念が徐々に人の手によって加筆されているのです、これは明らかに人為的なものと言えます。
話しを戻しましょう、易者が「風の時代」というものを口にする、それが何故意味が分からないのか、それは「八卦」に存在する「巽」は確かに「風」を象徴するものですが、「自由」を象徴するものでは無いからです、「巽」は「震」と相迫る事で「勢いを増す」と易の貴書「十翼」に記載されています、どこにも「自由」などとは記されていません。
この様に「占いを自分都合に曲げている」占い師が現代には沢山います、正しい解釈、理解をして深く学び、その上での「自分流の解釈」をするならまだ分かりますが、学びも底が浅く、自分流を振りかざす様な占い師に占い師の資格はありません。
「占い」とはすでにその「本質、作用、目的」が厳然たるもので定まっているのです、それを自分都合で曲げる、歪める様な人はその腕も高が知れています。
第百七十一指南 本物の基準は既に古来に決まっている
「自分を以って足れり」という言葉がります、「自分が決めた事が正しい、自分がいれば事が成る、自分の意見こそが正しい」という「傲慢、独善な人」という意味です。
現代の占い師の多くが、この「自分を以って足れり」という愚行をしています、「タロットは正しい」という思い込みもその一つです、何故正しいのか、「その根拠を客観的に説明、原理を論理的に説明」出来なければ、それは単なる「個人的私見、個人的感情論」に過ぎないのです。
他にも「九星気学は本物、姓名判断は間違いない」・・・これらは全て「感情論」にしか過ぎません。
遥か古の時代に「本物の基準」というものは既に確定、確立されているのです、それを今更捻じ曲げる様な事を何も根拠も無しに言っても、一般人を惑わすだけの有害な存在以外の何ものでもありません。
つまり「占い師」は「本物とは何であろう」と常に問う姿勢がないといけないという事です、「自分の占法」に「欠けや誤りが無いのか?」「もっと優れた占法は無いのか?」など、この様に自らの占法を疑う事でより洗練されて行くのです。
感情論や思い込み、根拠無き理屈などを口にしている様では、占い師の資格以前の問題です、「原理が有るのか、原理が有っても正しく作用しているのか、取り組む姿勢に問題は無いのか、人格の修養が十分なのか」などなどを自らに問い続ける事が出来る者だけが「本物に成れる」可能性があるのです。
感情論、思い込みで占い師をやっている人には「古きを尋ね、新しきを知る」の言葉が必要でしょう。
第百七十二指南 楽しい気持ち、嬉しい思いにさせる
「占い」とは「生き方を説く、人生を説く、運や開運を説く、学びを説く」事です、でもざっくり広義的に言うならば「占いとは・・・相談者を喜ばせる、楽しい気持ちにする、嬉しい思いにさせる」事です。
確かに時と場合に因りますが、基本の基本は「楽しい気持ち、嬉しい思いにさせる」です。
「難しい事、厳しい事、キツイ事」などをそのまま「難しく、厳しく、キツク」指南しても、それで受け入れられる人もいれば、もう一つ心の中にストンと落ちない人もいます、又心の中でも分かっていても行動に移せない人もいます。
その様な場合は「相談者を楽しい気持ち、嬉しい思いにさせる」を心掛けましょう、その「厳しい事を乗り越えたら、得難いものを得られますよ」と笑顔で指南してみる・・・その「苦しい事を突破したら、貴方は一回りも二回りも大きくなっていますよ」と優しく気持ちを込めて指南してみる・・・。
場合によって相談者は「よし、やってみよう」「頑張ってみよう」と思ってくれます、人生はどの道、厳しく、辛いものです、でも一方で楽しく、嬉しいものでもあります。
その片方の厳しく辛い側面だけを観ても心はどんどん暗く重くなります、でも人生は同時に幸せや充実感も得られます。
視点を少し変えるだけで、人生は見違えます、それを指南の現場で我々指南者が実践してあげるだけなのです。
指南者は相談者のお手本になるべき存在でもあるのです。
第百七十三指南 添い続ける姿勢、応え続ける姿勢
相談者の相談内容によっては、「その場での解決や数日、数ヵ月の解決」も有り得ますが、時に「数年、数十年も解決にかかる」事もしばしばあります。
この様な相談者を相手に、その場での解決方法を示しても、もう一つ相談者には響きません。
我々、指南者や他者からしてみれば簡単な解決方法なのに、相談者にしてみれば中々踏ん切りが付かない事もあります。
実際、いざやってみると「何だ、こんな事だったのか・・・」と思う事でも、それをやる前は、気持ちの整理や、勇気や気力、それに至るまでの成長に時間が掛かるものです。
そこに「添い続ける姿勢、応え続ける姿勢」が指南者には求められるのです、無理にその場での解決、数回での指南で片づける様な事は禁物な時には、ゆっくりと腰を落ち着かせ事に当たるのです、それが数年、数十年掛かる事でも、「人の成長には時間が掛かるもの」と言い聞かせるのです。
実際、皆さん「成長するには時間がかかります」、幼い頃親や先生に「嘘を吐いてはいけません」と言われて育っても、大人になって「嘘は確かに吐いていなくとも、では誠実ですか?」と問われれば、もう一つ「誠実」でないのではないでしょうか、これと同じ事でなくても似た様な事は経験があるのではないでしょうか。
この様に実は人は大人になっても「心の成長、道徳心の養い」が不十分な人が殆どと言えます、故にそこに寄り添う姿勢、応え続け様とする姿勢は求められるのです。
第百七十四指南 本質を説く指南を心掛ける
「ラッキーナンバー占い」とでも言うのでしょうか、「貴方のキーナンバーは3です」とか「会社が軌道に乗り出した時に貴方は8という数字に好かれていました、思い当たる事は無いですか?」など漠然と根拠も無しに「数字」を相談者に伝え、「そう言えば、あの時は38歳でした、母が無くなって3周忌でした」など「相手が心当たりがある、思い当たる節がある」というものを聞き出すやり方ですが、これは占いでも何でもないただのお遊びかまやかし、誤魔化し、詐欺師の占い師のやる事です。
又、「貴方の母親は我の強い人だったのではないでしょうか」とか「貴方、胃腸が弱いでしょう?」など俗に言われる「当てもの式占い」
そして「貴方の守護霊は貴方の亡きお父さんが憑いています、貴方を暖かく見守っていますよ」などという「オカルト霊感占い」
そして、「前世や霊界のメッセージを伝える」所謂、神秘論に傾倒する「スピリチュアル」など、これは全て「紛い物の占い」です。
「占い」とは「人生や生き方を説く、如何に成長すべきかを説く、何が欠けており何を養うべきかを説く、開運を説く」などがその務めです、どこにも「オカルト霊感、スピリチュアル、当てもの」など低俗な占いの出る余地などありません。
では更に、狭義的に指南業とは占い業とは何であるかと言えば、それは「本質を説く」に尽きます、故に程度の低い占いに惑わされず、苦労と修行と共に徐々に「本物を学び」そして「本物に成って行く」のです。
第百七十五指南 指南者は相談者から育てられる
「指南者は相談者から育てられる」とは其仙流の先人達からの口伝です、真以ってその通りです。
初心の頃は当然にその腕も未熟で、指南に重みや深味も不十分で、時に相談者に「叱られ、怒られ、蔑まれ」ながら少しずつ成長するのです。
故に、指南者は「謙虚さ」が求められるのです、故に「相談者と共に悩み」故に「成長したら共に喜ぶ」のです。
まさに「指南者」は「相談者」から様々学びます、「観念の正確性、表現力、解釈のクオリティ、接客の仕方、人間力」などこれらが全て「占い業」なのです。
「占い師は占いをすれば良い」故に「占いに集中すべき」とする様では、伸び代は左程でもないでしょう、「占い師」というものは例が無い程に「高度な仕事」です、多くの現代人からすれ想像を超える「学び」が求められます。
巷に溢れている様な「ハッピー占い」や「オカルト霊感占い」「神秘占い」「当て物占い」「スピリチュアル」などでは、お話しになりません。
相談者の「命懸けの相談、真剣な相談、覚悟のある相談」に「応える腕」が問われるのです、その様な「腕」を養うには「本物の占法を学ぶ、本物の人間になる学びをする、本物の取り組む姿勢を学ぶ」です。
後は「経験」を重ねるだけです、その経験には「相談者」から育てられるという事が大いに含まれるのです。
「相談者」を舐めている様では足元をすくわれます。
第百七十六指南 何が正しいかを心得る
指南者や占い師に最も必要な心得は「何が正しいか」です、物事の「正邪、成否、是非」などは全て「物事の本質」を悟る」事が出来れば殆ど問題無くなります。
何度も言っていますが、例えば「不倫問題」などは「正邪」で言えば「少なくとも邪ではありません」、家庭を顧(かえり)みずに浮気相手に本気になるにしても、その理由如何によっては致し方ない事もあります、例えば「家族が夫の存在を敬わない」などはその最たる例です。
又、政治家を批判、批評する行為も「弁えや一定の配慮、政治家を察しながらの発言」をする事が正しいのです、発言の自由があるとは言え、「政治と言う専門分野の事に素人があまりに感情的に批判する、批評する」事は自分がその立場になってからにするべきです。
この様にこの世は「成否、是非、正邪」を判ずる基準が「思い込みや多数決」によって成立している側面があるという事に気付かなければいけません、多数派が正しい事が往々にしても、「専門性の高い事柄や非常に高い見識が求められる事柄」などは素人は弁えが求められて然るべきです。
日本は民主主義国です、故に「多数派」の意見や考えがまかり通る事が往々にしてあります、でもいつでも「多数派が正しいのか」と言えばそれは違います。
この「何が正しいかを知る」事は「物事の本質を悟る学び」が必須となります、その為には「東洋哲学の深い学び」です、「孔子の論語、老子の道徳経、荘子の荘子」や他には「中庸」や「呻吟語」などもそこそこ優れています、又「格言、ことわざ」なども養うと良いでしょう。
第百七十七指南 何を観るべきかを判断する
相談者の相談内容が「あまりに重い相談であったり、真剣過ぎる内容だったり、スケールが大き過ぎる相談であったり」すると、相談者に飲まれてしまって何を観るべきかを見失う事があります、又占いの初心者も一回一回の経験が浅いので、何でもない様な相談でも何を観るべきかが分からなくなる事もあります。
この「何を観るべきか」を見失うと、指南そのものが出口が無くなり迷ってしまいます、故に「物事の本質を悟る学び」がここでも必須となるわけです。
ですが、今回は「物事の本質」からは離れて他の要素も考えてみましょう。
先ず初心の人は圧倒的に経験不足です、故に一回一回の経験は大変重要となります、例え失敗した指南でも、相談者が納得してくれなかった指南でも貴重な経験です、それが相談者の心に響く指南が出来たら尚の事その経験を大切にするべきなのです。
次いで、「相談者の相談に真剣に耳を傾ける」です、相談を「流しで聞いている」だけでは理解が出来ない相談もあります、その様な時は「意識を集中して、微に入り細に至るまで神経を高めて耳を傾ける」のです。
又、相談者の相談内容が一転二転する事もしばしばあります、この様な相談者は往々にして「説明下手、生き方下手、精神的に未熟」です、もしそうでないのなら「発達障害若しくは何らかの精神疾患」を患っている可能性があります。
一つ目の相談をしているにも関わらず、次の相談をして来る・・・このこと自体がこの人の生き方が現れていると言えます。
故に、飲まれずに落ち着いて「何を観るべきかを正確に判断する」のです、一つ目の相談をしている最中に次の相談の話しになっても、一つ目の相談に話しを戻しましょう。
いくら腕利きの指南者でも一辺に複数の相談を観る事は至難の業です。
「何を観るべきかを正確にしかも本質的に判断する」事が出来れば、後はそれを言葉にどう表現するかを考えたら良いのです。
第百七十八指南 勝負はすでに決まっている
「指南業、占い業」とはある意味で「相談者」と「指南者」との「真剣勝負」と言えます、相談者の相談に対して納得する指南、相談者の心に響く指南を言えて初めて「価値がある」と思ってくれます。
ですが、指南業の勝負は「いざ、これから観ます」ではもう遅いのです、常日頃からの「鍛錬、学び、研究、試行錯誤」で決まるのです。
「よーいドン」で戦っている様では、指南業に於いてはそれは負けを意味します、「よーいドン」の時点で勝負の七割八割は勝負が付いているのが「玄人の勝負魂」と言うものです。
一件一件を真剣勝負の如くに対応する指南者は「勝負勘」が磨かれます、それが次第に積み重なって行くと「玄人の勝負魂」に成って行きます。
「本物」は勝負の前に勝負の片が付いているのです、その為には日頃からの「鍛錬と学びと覚悟と真剣勝負の姿勢で指南に臨む習慣を持つ」事です。
ここまで来て初めて「プロの指南者」と言えるでしょう、そこまでの気概のある者だけが「本物」になる可能性があるのです。
「占い」は楽しい側面はあるにせよ「遊び」ではありません、真剣勝負に通用してこその「占い」であり、それが出来るからこその「本物」足り得るのです。
勝負はすでに付いている・・・の心構えが有るか無いか・・・。
第百七十九指南 相談者を包み込む心
指南業は様々な相談者が日々やって来ます、難問珍問を持ちかける人や、命懸けの相談を持って来る人、ありふれた恋愛の相談・・・十人十色、百花繚乱の相談をして来る相談者を包み込むほどの懐の深さを意識する事が「腕利きの指南者」「経験がかなり有る指南者」「山千海千の指南者」「搔い潜って来た修羅場の数が凄い指南者」などは一定心得ておく事が更なる伸び代になります。
「成長に悩む相談者、生き方に迷う相談者、独善で傲慢な相談者、人格的に優れた相談者」これらこの様な様々な相談者を「包み込む心意気」は構えとして持つ様に養いたいものです。
「包み込む」とは言ってもそれが「優しさ」なのか「情熱」なのか「喜び」なのか「同情」なのか「怒り」なのか「厳しさ」なのか「和み」なのかはその時々です。
何より「包み込む」という構えが重要なのです、「包み込む」構えがあると、相談者に飲まれる事がありません、又、相談者もどこか真剣になってくれたり、落ち着いてくれたり、理解しやすくなったり、感動しやすくもなります。
一方、敢えて「包み込まない」という事もあり得ます、指南の現場と言うものはまさに千差万別の現場なのです。
敢えて「包み込まない」事で「突き放したり」「冷静さを持ってくれたり」「依存をしなくなったり」と色々と心理的効果があります。
相談者を「包み込む」と「敢えて包み込まない」の両方を高い水準で使い分ける事ができるならかなりの腕前が付いて来たと言えるでしょう。
第百八十指南 相談者に前進してもらう
「指南業」は相談者に「生き方を説く、人生を説く、道を開く為の学びを説くく」のです、これらは言い換えれば相談者に「前進してもらう」為の指南なのです。
人生は「前に進まないと」意味がありません、少しでも、ちょっとでも良いから前に進むのです、その為の指南をするのです。
逆に後ろ向きになる指南をする指南者や占い師もいますが、その様なオカルト霊感占いやスピリチュアルを謳う占い師は詐欺師、紛い物です。
現実世界を生きる事は、人生を前進する事です、その為の指南に全力で臨まない指南者は指南者に非ずで、一からの学び直しや転職をすべきです。
又、相談者に前進をして欲しいが「前進をしたがらない、前進をしているつもり」などの相談者もいます、更には「進みはするが周囲を破壊しながら進む」人もいます、所謂自分勝手と言う人です。
前者の相談者には「前進する必要性を時間を掛けてでも諭す指南をする」事が望まれます、後者の独善的で傲慢な相談者には「素直、謙虚、感謝」を養う必要性を説く事です、これも時間が掛かる事が往々です。
どの様な相談者であろうが、指南業の大前程は「相談者に前進してもらう」です、この「前進する」という指南の中に「成長」という要素を入れる事で更なる学びや成長に繋がります。
この「成長しながらの前進」が指南業の真骨頂と言えます。
第百八十一指南 指南者は指南してこそ
其仙流が今まで何度も言って来ましたが「占い」とは「個人の運勢を観た上で、人生を説く、生き方を説く、道を開く為、成功する為、幸せになる為に必要な学びや養いを示す事」これを一言で言えば「指南」と言います。
「当てもの占い師」は「当てる事が全て」です、ですから「指南」とはかけ離れた価値を有しいます、「分析占い師」は「分析をする」事に重きを置きます、決して「占っているわけではありません」又「スピリチュアリストや前世占い師、オカルト霊感占い師、ヒーラー」などの様に「神秘思想、心霊思想」に染まっている占い師は「相談者の悩みを解決させる又はその手掛かりを示す」という事に大きく逸脱しています。
又、不確かな事をあまりに妄りに口にして占いそのものの価値を下げている行為を続けており、これらは全て占いの本質としては全く異質な事です。
指南者ならば「指南してこそなんぼ」のものです、厳密に言うならば指南とは「教授する、指導する」という事です、ここが「現代占い師」と「指南者」との大きく又致命的な違いなのです。
「人生を豊かに生きて行く為の指導、自分作りの教え、仕事に取り組む姿勢の心得、苦難に立ち向かう教授」などを「教え導く」事が指南者の引いては本来の占い師の在るべき姿です。
「指南が出来ない」占い師や指南者は「占い」をそもそも理解出来ていません、「指南が出来ない」占い師や指南者は「占い」を曲げている者です、「指南が出来ない」占い師や指南者は「相談者」に迷惑を掛けているのです。
指南者は指南できてこそ、その存在価値があるのです、これを其仙流は「指南道」としています、「指南道」を歩む事が出来ないものは「占い師、指南者」に非ずです。
第百八十二指南 指南者や占い師とは重い存在である
「どこかお遊び気分で占い師に恋愛の相談をする」・・・「どこかもう一つ悩みというよりも愚痴になっている相談」・・・「生き方がもう一つ定まっていない」・・・「自信があると嘯(うそぶ)いては実践では通用しない」・・・この様な生き方がまだ分からず、物事の本質が分からない「未熟者」を教え導く事も指南者の務めです。
一方「更なる繁栄を求め、胸に情熱を秘め尋ねて来る」・・・「生きるにブレない、仕事にブレない」・・・「実力を正しく理解し実力を正しく養う指導を受けに来ている」・・・この様な「円熟者」を教え導く事も同じく指南者の務めです。
一方は「生き方が分からない、人生観が出来ていない、主観に過ぎる」もう一方は「それなりに生き方を悟っている、それなりに人生観が形作られている、自分の分を弁える事ができる」両者ともに指南者の指南の領域にいる人達です。
基本前提として、指南者という存在は「人を教え導く」存在です、「遊びの存在、楽しみの存在」では無いのです、人を指導し、どう生きるかを説き、何を学び養うべきかを指南する存在なのです。
これは「重い存在」なのです、軽々しい存在の占い師、占いを軽々に語る一般人・・・これは「占いや指南」の存在自体が軽んじられている証でもあるのです。
これ一つ取っても「占い、指南、運勢学」などが本質的な意味合いからは落ちぶれている事が明白です。
占いの「威力、威厳、底力」というものは「重い」ものです、それを発揮する、示す事を意識する指南を心得なければ、どんどん占いの価値が下がってしまうでしょう、あまりにも占いの価値が下がってしまうともう修正が効かなくなるほどの段階になります、「占いの重み」を真剣に考えるべきではないでしょうか。
第百八十三指南 徳を含む指南を心掛ける
「人生を説く、生き方を説く、必要な学びや養いを示す」これらは「徳」に通じるものでもあり、又「徳」とは「他者や社会に対し行う深く本質的な善意的、良心的言動」と其仙流では定義しております。
「人を教え導く事」を「指南道」と言います、その「指南道」には「徳」の概念が大いに含まれて然るべきで、少しでも他者を思う、社会や地域の為を思う言動をする、この様に日本の社会は人の良心で成り立っている非常に稀な社会制度の国です。
日本の社会制度や在り方は「人の性善説」をその根幹にしています、他国からは少し驚かれる社会的風潮です、しかし「性善説」が本質的に人の拠り所であり、在り所でもあります、「性悪説や支配思想を持った統治」ではその社会は健全とは言い難い側面があります。
故に我々指南者の指南の中には「徳の概念」を入れ込んだ指南というものが求められるのです、それもそれぞれに応じた「徳の概念」です。
極端な話しをすると「会社が倒産しかけている相談者」や「お金に追われ、日々に追われ、現実に追われる様な相談者」などに「徳」を指南するにもそれを教える状況にいない人にいくら「徳」を含んだ指南をしても意味はありません。
それは、現実を生きるのがやっとの人には「徳」が「非現実」に見えるからです、でも「徳」は非現実でもなければ、幻想でもなく、誰でもいつでも発揮できるものです、しかし「徳行」というものは「心に余裕」が無いと行えないという側面があります。
この様な言葉あります・・・「倉廩満ちて礼節を知る」とは「生活が安定して初めて心に礼節を重んじる余裕が生まれる」という意味で「倉廩」とは「米倉」の事です。
これは小人の考えと言えどもある意味で核心を突いているとも言えます、本来は倉廩が満ちていようがいまいが「徳行」を行う事が望ましいのですが、世の中の大半は「小人、中人」です。
でも、この「徳」を誰かが教えなければいつまで経ってもこの世は「国で分割され」「民族で分割され」「権威、権力、歪んだ人為的な支配」などから解き放たれた「真の人類の平安」は成せません。
何を以って「人類の平安」かはまだハッキリとはしませんが、少なくとも「徳」を全世界の人が意識する世界は、少なくとも「人為的な歪み」は生じないと言えるのではないでしょうか。
どんなに小さい相談でも、とてつもなく大きな相談でも、相談者に「徳」を含んだ指南をする事が真に腕の有る指南者の務めでもあります。
第百八十四指南 背徳
「間違った占法を使う占い師」「神秘思想、霊感思想などを持つ占い師」などは「徳」から大きく掛け離れた行為をしている事に気付くべきです。
如何ほどにこの占い業界の占い師や占法が間違っているか・・・中には「あの占いで私は救われました!」「あの占い師は本物と思います!」と口々に言われる人はいます、でもそれは「偶然」か「思い込み」又は「感情論」です。
「神秘思想、霊感思想」など「間違った思想を元に指南する」・・・これでは現実的に相談者の悩みを解決できません、現実的に悩みや問題を解決できない占いの価値がどこにあるというのでしょうか。
又、「タロットを始めとした各種カード占い、九星気学、現代人相学、姓名判断」などその原理が誤っている、若しくは原理が存在しない占法ではそもそも「占えません」ので全くの「思い込みの占いと化して」います。
第百八十三指南でも述べましたが、指南業は「徳」を含んだ指南をする事が求められる務めです、でも多くの占法や占い師は徳を含んだ指南が出来ていません。
これを「背徳行為」と言います、本人は「徳を積んでいるという思い込み」「真心からの占い業」「良心から指南業」と信じているのかもしれませんが、間違いです。
前世を説かれた所で現実が救われなかったら何の価値があるのでしょう、守護霊、守護神・・・ではなぜ不運や不幸に見舞われるのでしょうか。
「現実を救ってこその徳」です、「徳」から遠ざかる行為は「背徳行為」なのです。
第百八十五指南 学びを忘れたら・・・
「指南者、占い師」も「相談者」も人類皆「学び」を目指す事が日々を充実させ、自分を養い磨く事に通じます、何を学ぶかも非常に重要な問題ですが、ここでは「学びを忘れた人、学びを忘れた人生、学びを忘れた運勢」にはどうしたら良いかを説きたい思います。
「学びを忘れたら」付ける薬は二種類・・・「限界を心底に感じてもらう」か「謙虚、感謝、素直」からの養いを一から始めるかです。
これは我々、指南者にも同じように言えるので非常に注意が必要となります、「学び」を休むと「悪運」が忍び寄って来ます。
例えば「個性を主張する世の中」になっていますが、その個性によって周囲や社会に害を成す様ではもう一つ学び不足感が否めません。
そもそも「個性とは主張するものではなく、言わずとも体から滲み出るものが個性です」芸能人や歌手などの特殊な立場にいる人はその芸を見せる為に個性を主張はしますが、それは主張する事が仕事だからです。
この様に「学び」が正しく積まれていない人が行う言動には「本質」から逸れてしまった様な人が多くいます、この様な人には「失敗を繰り返し、現実に自分では通用しない」という現実を直視させるか、「謙虚、感謝、素直」を通して一から出直すかの薬が効くでしょう。
でも、ここまで未熟な人が「出直し」を本当に考える事は非常に稀です、この様な人の特徴は自分勝手に、自分都合に合わせて学ぶ悪癖があります。
どんなに苦手な事でも「学ばなければいけない事」があるのです、それが出来ないからいつまでも未熟者なのです。
又、この様な未熟な人の共通の考え方に自分の中にある「一部分の欠点」と受け取ってしまう事が上げられます、それがどんなに一部分であろうが、その欠点は非常に自分の中で大きく重い個性、考え方、価値感、アイデンティティなのです。
つまり「価値観そのもの、生き方そのもの」を変える程の学びをしなければ変わらないのです、一部分を改善しても又悪癖がいずれ顔を出してきます。
「学ばない人、自分都合に学ぶ人」は100人いたら、本質的に学ぶ様になる人は10人もいません、精々2,3人と言った所でしょう。
それくらい、学びを忘れた人や、学びを自分勝手に曲げる人を教え導く事は難しいのです、故に我々指南者が先ずは「学びの尊さ、学びの重要性、学びの本質」を悟っておく事が重要となるわけです。
「学びの無い占い師」は「徳も無ければ、腕も実力も無い」のです、でも初めに言いましたが「何を学ぶ」かは非常に重要です、そこで一つの手掛かりは「人を作る、自分を作る、心を作る」事から学びましょう。
第百八十六指南 本人らしい生き方
「指南業」は「指南をする事」ですが、何でもかんでも指南したら良いという事ではありません、それには「本質」を含みながらの指南が求められます。
しかし、「本質」を述べていたら万事に於いて最良、最善かと言えば・・・それも少し違います、確かに「本質」は非常に指南に於いてかなりの重要度になります、「本質を欠いた指南」に一体どれくらいの価値があるというのでしょう、下手をすれば害を生み出す事にもなり兼ねません。
正則的な指南とは「本質」を説きながらも「本人らしさも含んだ指南」、と言うものが求められます。
これは非常に高度に難しい側面があります、単純な言い方をすれば「本質は正しい事」です、一方で未熟で生きたい様に生きる姿勢は「間違いを大いに含みます」でも、正しい事の一辺倒の指南は相談者も息苦しい人生や日常にもなります。
故に、「本人らしさを少し許した指南」、「本人らしさを少し含んだ指南」と言うものが求められるのです、あまりに本人らしさを優先し過ぎてもいけない、でも本質を言い過ぎてもいけない・・・又、それぞれの成長段階によってもその強弱の塩梅はまさに絶妙さを求められます。
この采配、塩梅を見事にこなす事が出来たら、顧客も付く事に通じるので、売り上げの安定にも繋がります、これは指南者も商売人である以上、非常に有効的な考え方です。
「怒る指南、叱咤する指南、厳しい指南」ばかりするよりも、時に「優しく、受け止めてくれる指南」もあって然るべきなのです。
第百八十七指南 元気を与える指南
相談者が優れた人物でも、もう一つ程度が低い人間でも、指南をする一つのコツは相談者に「元気を与える、勇気を与える、気力を与える」指南が求められるという事です。
無相や麻衣神相法で観えた事をそのままに口にしアドバイスする事も初めの内は構いませんが、経験を重ね腕が少しずつ付いて来たら「元気、勇気、気力」を加味した指南を心掛ける様にするとまた一つ腕が上がり、顧客も少しずつ付いて来る事になります。
多くの相談者の悩みは「不幸や苦労からの脱出」が大抵です、後は「恋愛、人間関係」です、これらの指南を指導する事は相談者にとっては「嫌な事」を指南するのが定石になってしまいやすいものです。
その「嫌な事を指南する」にあたり、一つのコツは「元気、勇気、気力」を加味した指南です。
「嫌な事を強いる」指南だが、同時に「希望、明るい未来、成長の先にある未来」などを指南する事が求められ、その為には「元気、勇気、気力」を加味するのです。
「嫌な事を指南」されても多くの人はそれが必要であると頭では分かっていても、中々に直ぐに行動に移せない事も多いものです。
多くの相談者、凡そ相談に来るお客様の99%は物事の本質も分からない未熟者です、その未熟故に恵まれない、道が開かない、思い通りにならないのです、それを打開する為に成長するしかないのです、その成長を指南するという事は、相談者にとって「学びを強要する」事と同じです、それ故「元気、勇気、気力」が必要なのです。
第百八十八指南 分析をするべからず
よく巷にいる占い師で「分析、解説」をするスタイルの占い師がいます、「四柱推命、算命学、紫微斗数、九星気学、姓名判断」など「命占」を用いる占い師に多い傾向ですが、「分析、解説」をしても左程の意味もありません。
指南とは「生きた指南」であるべきだからです、一定の分析は必要としても、分析に重きを置く占いは価値と意味はありません。
この「分析型占い」は「リーディング」も多用する傾向があります、「リーディング」は「聞き取り」の事で、占いの現場に於いて一定は必要な事ですが、「リーディング=占い」ではありません。
話しを戻しましょう、「分析型占い」は「分析をする事が占い」であるかの如くに振舞うので、本質からは遠く逸脱します。
「指南」とは「悩みに対しての解決法やその手掛かりを示す」「生き方を説く」「道を開く方法やその手掛かり」「学びや成長を説く」事です。
いくら「分析」をしても「生き方を説く、状況を好転させる、何を学ぶかを説く」などの領域に届きませんので、本質的意味は無いのです。
「分析に始まって、分析に終わる」様な占い師は「偽物、紛い物」です。
これは占い師や指南者に限った事では無く、相談者にも「分析」をする相談者が間々いますが、指南者の指南を分析する様では本質を得ていない証拠と言えます。
第百八十九指南 一占百学
「一つの指南の現場からは百もの千もの学びをする」・・・これを其仙流は「一占百学」といって口伝で伝わっております。
一つの指南の現場に「命懸けの姿勢で臨み」「真剣な構えで臨み」「相談者の為にという思いで臨み」その結果、多くの得難い経験を得る段階は指南者にとって掛けがえのない経験です。
初心の頃でも、中堅の段階でも、玄人の段階でも、達人、名人の段階でも「一占百学」の姿勢で臨む事を積み重ねて行くと相談者の心に「見えなかったものを観る事が出来る、聞こえなかった聲が聴こえる、気付かなかった事を気付いていける」そういう質の高い指南が出来る様になって行きます。
一回の指南で「多くを学び、深く学び、高く学ぶ」のです。
相談者を教え導く事が務めのはずの指南者が、その現場から「学ぶ」事が出来る様になる・・・これが「指南者と相談者との健全で本質的な関係性」だと先人達は言っています。
一方的に求めて来る相談者も沢山います、一方的にアドバイスする占い師もいます、どれも正しい側面はありつつも、本質的に言うなら「指南者と相談者の両者が富、豊かになり、幸せになって行く」事が本質なのです。
どんな指南の現場でも手を抜けないのです、どんな指南の現場でも学ぶ事は出来るのです、高を括る事無く、謙虚に真剣に指南業に取り組むのです。
「一占百学」を常に心の片隅に・・・。
第百九十指南 真剣を指南する
指南の一つのコツと言える事は幾つかありますが、その一つは「真剣を指南する」事です。
「真剣」とは「本気で取り組む事、それも命懸けで取り組む事」です、この「真剣」を「理解出来ない、真剣なつもり」な状態の相談者は実に沢山います。
「仕事に取り組む姿勢、目標を成し遂げる姿勢、出世を目指す姿勢、人を愛する姿勢、生きる姿勢」・・・「真剣なつもり」と「命懸けの本気」では大きな差が当然生じます。
この「真剣な姿勢」は常日頃の「意識の問題」です、「どこか気が抜ける人、気が付いたら意識を忘れる人、どこかフワフワして生きている人」などは特に「意識」を高い水準で求められます。
「真剣」の意味を体現できる人と、もう一つ真剣に生きて行けない、取り組めない人は人として致命的にどこかに欠けがある人です、先ずは身近な事からで良いで「真剣に取り組む習慣」を持ちましょう。
この「真剣を指南」する事は実は非常に難しい側面があります、多くの相談者は「自分は真剣だ」という思い込みがあったり、真剣さの重要性に気付いていないなどの問題は深刻なレベルです。
少しでも相談者に「真剣」を伝える為には「指南者も真剣に指南業に取り組む姿勢を持つ事」から始まります。
その上で「東洋哲学の深い学び、素直さの養い、物事の本質を悟る学び」これらを養って行く事で「本質的に真剣さを持つ事が出来る様になります、「真剣」を指南出来る指南者は真剣に生きている指南者と言えます。
第百九十一指南 自分に溺れるな!
初心の頃に相談者が自分の指南で響いてくれた、喜んでくれた事でその日一日有頂天になる・・・これ位なら可愛いもんですが、そこそこ腕が付いて来た頃に下手に自信が付いて来ると、「自分の指南に酔う」様な状態に陥る事があります。
これは「傲慢」以外の何ものでないのでよくよく注意が必要となり、そのまま成長すると「破滅の道を歩む」事になり、又それまでにも周囲に多大な不快感や迷惑を掛ける事になります。
「自分に溺れる」事を「自惚れ」と言います、「自惚れ」とは「事実より自分が優れていると思い込む事」を言います、これは非常に危険な段階にいる事に早く気付かなければいけません。
其仙流の先人達よりの口伝で「正自齊信(せいしせいしん)」という言葉あります、「正しい自分を持つ事で正しい自信が整う」という意味で、つまり「正しい自信を持ちなさい」という意味です。
これが出来ない無相使いはゆくゆく限界が生じたり、伸び悩む事になります。
無相使いに限らず、麻衣神相法を用いる玄相師やその他の指南者にも同じ事が言え「自分に溺れる様な指南者」は高が知れています。
「自分を褒めてあげる」と「自分に間違った自信を持つ」は似て非なる事です、常に「真剣にして謙虚に指南に臨み、結果を謙虚に受け止め、次の肥やしにする」これが正しい自信を持つ一歩です、重要な事は「謙虚の精神を腹の底から持つ」にあります。
第百九十二指南 自分の指南に責任を持つ
昨今の占い師に非常に問題な事は「自分の鑑定結果に責任を持たない」があります、これは非常に問題で、何を言っても「外れたら、顧客にならないだけ」、「多少の愚痴や評判をSNSで言われるだけ」と高を括ったり。
又、「責任を負わない様なスタイル」=「癒し系占い、分析解説式占い」などを用いて「本質を当てる行為と違うスタイルを用いる事によって」責任を負わなくてもよいスタイルで占ったり、後は「カードが言っています」とか「卦がそう言っています」とか「相がそう現れています」とか後は「貴方が大きく道が開けたのは数字の3がキーナンバーだったからです、心当たりはありませんか?」などと相談者の本人に心当たりを自ら探ってもらい、責任を負わなくてもよいスタイルで占っている占い師もいます。
これらは例外なく全員「紛い物、偽物占い師」です。
「人生のど真ん中を、どの様に生きて行くべきかを指南する事」が占い師や指南者の務めです、これが出来ない占い師はそもそも「占い業、指南業」を勘違いしているので、「占い師一年生」から出直しましょう。
では責任とは言ってもどう責任を取るのか・・・「責任を取る」とは指南業で言えば、その多くは「外れた時」つまり「相談者に被害が出た時」です。
「弁済するのか、謝罪するのか」・・・それは様々でしょうが、其仙流では「指南者が取るべき責任とは」=「罰を受ける事」と定義しています。
「責任を負う」とは言っても「お金、謝罪」などでは、場合により相談者の思う様な責任を負い切れるものではありません、故に「相談者からのどの様な罰を受ける事をも厭わない姿勢」を「指南の責任」として覚悟するのです。
第百九十三指南 現実を見なさい、現実を生きなさい
昨今の占い師の特に多いのが「メルヘンやファンタジー、神秘思想、オカルト霊感思想」などに軸を置く占い師の台頭です。
昔から一定この様な輩はいますが、昔は当人も、又、それを見る一般人も「偽物、紛い物」と分かっている上での「お遊び」で行う占い師ごっこの様なもので、所謂「野師(やし)」の様な存在は昔からいますが、近年になるに連れて「メルヘン、ファンタジー、神秘思想、オカルト霊感思想」などを「現実的」に口にする人が出現している事に驚きです。
「現実的問題の解決」を「非現実に求めても全く解決しません」、個人の精神的なアプローチにはなるかもしれませんが、それで問題の根本が解決したり、その手掛かりを得る様な事はあり得ません。
又、「私の占い師としての役割は終わったので、占い師を辞めます」とか「私の今までの使命は決着したので、次の使命の為に別の場所に移動します」とか、「神からのメッセージを受けました」とか「天からの御言葉を頂きました」などと口にする占い師は例外なく全員「偽物、紛い物」です。
どうしてこの様な事が起こるかと言えば、一つには「平和ボケ」が大きな原因の一つに上がります、現に貧しい国の様な発展途上国などでは古来より伝わる、信仰、伝承を大切にし、又、古来より伝わる占法を大切にする姿勢が有り、新しい思想や考え方、概念を取り入れ、全く新しい形の信仰や占いは殆ど出現しません。
「平和過ぎ」「豊か過ぎ」は「余裕による甘え、油断」に通じ「生温い生き方」をしても生きる事ができる社会が生じ、結果として「有りもしない、存在もしない」世界観や価値観を夢見る人が生まれるのです。
占いは「現実を見て、現実を生きる人にこそ意味と価値がある」ものなのです!
第百九十四指南 豊かになる指南
人生は人それぞれ、十人十色・・・でも「人生に望む事」と言えば、「お金持ちになりたい、苦労知らずな人生になりたい、幸せになりたい、仕事で出世したい」など大方の人はこの様な願望を共通して持つのではないでしょうか。
中には想像を超える成功を収める人もいますが、殆どの人・・・実に99.9%の人は「望み通りではない人生を歩みます」、ここで一番気を付けなければいけない事は、その「思い通りにならない人生を諦めの境地で受け入れる事」はどこか「人生の炎が小さくなり、運も下がり、人生や運の質も下がります」ので注意が必要です。
つまり「苦労や不運、不幸、貧乏」などに「負けた人」になるか、どんなに苦しくとも「諦めず、目標を小さくとも持つ」かは後の人生に大きな差となります。
又、人生は目標を持つ事が重要です、「生きる意味、日々の活力」など様々な良い事があります、でも中には当然、形に成らない人もいます。
人生とは「失敗」=「不幸、不運」ではありません、例え自分の望みが叶わなかったとしても、その人生丸ごと受け止める事が肝要で又、「幸せ、満たされた人生、望み通りの人生」よりも「豊かな人生」の方がずっと上なのです。
不幸でも、不運でも、絶えない苦労続きでも、その「人生を豊かに思えるか、豊かと思えないか」でその人の人格の高低が伺い知れます。
十個のやりたい事のうち例え一つ、二つしか形に出来なくとも、それを拠り所に「卑屈に成らず、怨まず、ねたまず」その一つ二つの宝物を胸に豊かに感じる人生を歩む人こそが「本物」であり、それを指南する、その様に人生を歩める指南をする構えを持ち、腕を磨きたいものです。
第百九十五指南 成長の速度と本人の歩む速度
社会や他者、又は仕事を意識しながら人生を生きる事が殆どの人の共通する事ですが、その様な時に必須な考え方と言いますか、構えや姿勢は「速度や速さ」です。
Aの仕事を10分で終える場合と、一方で30分かかる場合とでは当然10分の方が良いわけです、両者を比べると20分もの開きがあり、20分分のゆとりが生まれます、又この積み重ねをして行くともっと大きな時間的余裕が生まれる事になり、他の作業や仕事もこなす事が出来ます。
この様に、環境に適応した「成長や適応力」は当然いつの時代でも一定は求められるものなのです。
例えば、Aという物事に適応するのに平均1年掛かるとして、ここに1年経っても適応できない人がいるとします、少しの遅延なら左程問題ではありませんが2年経っても、3年経っても適応できない様では、中々人生が間々ならない事になります。
「若い人は柔軟で器用」なのでその分「適応力や成長が速い」事が特徴ですが、一方で「人生経験が浅く、未熟な思考で判断する為に間違いが多い、人生観が出来ていない、見識が備わっていない」などの問題があります。
「人生を重ねた人は、不十分さを含みつつもそれなりに人生経験を重ねている」ので「経験値が違います、見識も若い時と比べると高い」はずです一方では「未熟な人生を積み重ねただけの人」もいます、故に本質を悟れない人もいます。
この様に、両者ともに一短一長な所がありこの問題は、「環境や物事が求める速さ」と「自らの発揮できる適応力や成長の速さ」の問題なのです。
指南者は当然、人の「成長を指南する事」が大きな務めの一つでもありますので、ここは適当には出来ない問題でもあります。
「周囲が求める速さ」と、「本人が発揮できる速さ」がほぼ同じなら問題はありません、又、環境や仕事、物事が求める速さよりも速くに適応する、成長が間に合っていると更に飛躍する事もあります。
問題は「周囲が求める速さ」と「本人が発揮できる速さ」に著しい差が生じる事です。
周囲の求める速さは確かに無視できるものではありません、ですが一方で過剰に周囲の求める速さを意識し過ぎも問題で、どうしても「本人の限界速度」を超える様な速度の「学びや成長、適応力」は重大な弊害も生み出します。
「周囲の求める速度」を指南しながらも、「本人の限界速度」を考慮した指南も同時に求められるのです。
この「周囲の求める速度と本人の限界速度」の微調整を以って指南する事が「成長の速度、適応の速度、学びの速度」には不可欠な要素となり又、質の高い成長を指南する事にも通じます。
又「成長の遅い人、適応力の遅い人」は「全体の輪郭を意識した上でのピンポイント」の考え方をする様に指南してあげましょう。
例えば「車」を例に上げましょう、「車のハンドル」を説明しても理解が遅い場合や適応が遅い場合は、先ずは「車の全体像」を意識する、観る事を意識させましょう。
物事のピンポイントをいきなり指南するよりも、物事の全体像をある程度説明した上でのポイント的な指南をする事により、少しずつ理解力が培われ、次第にポイント的な話しをいきなりしても理解出来たり、適応出来たりします。
「適応力が低い、遅い人」「成長が遅い人」「学びが遅い人」などは、そもそも始めから色々な事に躓きを生じさせやすい人なのです。
この様な人に指南する時は「速さを指南」すると共に、「丁寧さ、慎重さ、多角的指南を端的に述べる工夫」も同時に求められるものです。
第百九十六指南 銭を稼いでなんぼ・・・
指南業とは時に「献身的」な構えで相談者に接する事も求められる時があり、場合により「料金を無料にする、金額を下げてあげる」「いつもより寄り添ってあげる様な、優しい構え」などが必要になる事もあります。
ですが、「指南業の本質」は「相談者を導く事」それも「道が開ける程の成長を指南する、運が付く学びを指南する、本質が分かる指南をする」事です、故に「厳しい指南、心に響く指南、魂が震える指南、深く共感する指南」などが求められます。
この様な非常に質の高い指南をするには「一定の緊張状態」が必要となります、故に「お金を頂く」 のです。
鑑定料金は「指南に対する対価」であり同時に「自らに緊張を課す為の方法」でもあるのです。
ワンコインの五百円や低料金の千円などでは、外れても相談者は「安いから、まぁいいか」と生温い目で見てくれますが、三千円、五千円、一万円、三万円、十万円以上ともなれば、それなりに厳しい目で指南者の「指南を吟味」します。
又、「占いという神聖な行為でお金儲けをする様な事はしてはいけません」とか「占いは売らないと言って、占いを商売にしてはならない」などと口にする様な者は、間違いなく「偽物、紛い物」です。
その様な宣伝文句を言って「自己満足に浸る輩」か「知名度を上げる」為の外連味のあるキャッチフレーズにしか過ぎません。
占い師や指南者は「お金を稼いでなんぼ、銭を稼いでなんぼ」です。
第百九十七指南 指南業とは兎角至難な生業である
ここ迄、「指南論」を読まれた皆さんであったら、「指南業や占い業」が「如何に難しく、如何に成し難く、如何に敷居が高い」ものか少しは分かって頂けると思います。
・憧れで始まり憧れで終わる様な務めではありません。
・直ぐには顧客も付きませんので当然、貧乏もします。
・時に想像をはるかに超える様な相談をして来る事もあります。
・どこまでも深く人格を磨き養う姿勢が求められます。
・占い業界が如何に間違いが多く濁りに塗れているか、その上で本物を養う。
と、ざっと上げただけでも非常に難しい事が分かると思いますが、指南業の一番難しい所は「本質的な人格形成、本物の占法を習得し生涯を掛けて鍛錬する、物事の本質を悟る学び」の三つが先ずは上げられます。
法律家、お医者様、公務員などなど難しい仕事は沢山ありますが、「本物か偽物か」を疑う事はありません、又、著しく周囲や社会に迷惑を掛けないならそれほど高度に「人格形成」を求められる事もなく、「本質を得ない」と仕事として作業が出来ないわけでもありません。
しかし、占い業や指南業は、先ずは「本物か偽物か」の選別が求められます、この世の99.9%の占法は偽物ですから、厳しい選択を本来ならば強いられるはずです、そして「人格形成」を高度に求められ、「物事の本質を悟る学び」も深く大きく必要となります。
又、この三つの「重要性」を軽視する占い師が殆どで、多くの占い師が正則性を持っていません、「自己流の学び」「自己流の考え方」「自己流の取り組む姿勢」そして「自己流の占い師」となってしまうのです。
指南業や占い業は先ずは、「スタート地点を間違うと、その先の道はずっと間違いの道を歩む事」になります、途中から軌道修正が効かないのです。
「始まり」が間違っていたら、一度全てを捨て去るしか方法がありませんが、染物が一度染まると染め直しが中々難しいのと同じで、どこまで「捨て去る」事が出来るかが、その後を決めます。
そして、「始まり」が例え正しくとも、その後の歩みが脱線するとこれまた、「初めからやり直し」となります。
指南業が兎角難しい生業だという事が少し理解出来たのではないでしょうか、故に日々を大切に思い、一日も無駄にせずに指南業、占い業に取り組む姿勢が求められるのです。
①「人として本物の師と呼べる人との出会い」と「正しい本物の占法との出会い」は二つでワンセット
です。
②そして「正しい学びと指南業に正しく取り組む姿勢」も二つでワンセットです。
大変、大きく言うのならこの四つが「本物」になる為の最低条件となります、①と②を深く考えたいものです。
第百九十八指南 人の在るべき姿
其仙流は「人の在るべき姿、人の目指すべき道」などを一定の定義を見出しています、それは・・・「先ずは子孫繁栄」つまりは「子供を残す」という事ですが、これは一夫一婦制の名の元に行わなければいけないという事はありません、浮気をしようが、相手が何人いようが「子宝を得る」という意味合いに於いては全く関係ありません、昨今では「不倫や浮気」は「悪である」という風潮が強いので、中々難しいでしょうが、時代がまた変わるとこの考え方もより本質的に自然な在り方に戻るでしょう。
次に「人の在るべき姿、人の目指すべき道」は「学び、成長、進歩、進化」を目指す事です、又、学びでも出来れば「進化」に値する「学び」を目指したい。
ここで「進歩と進化」との違いを少し説明しておきましょう。
例えば「進化」とは「猿人が初めて道具を使用して狩猟した」という事でこれは「進化」に値します、「進歩」とは「その猿人が木の棒を使用して狩りをしていたのが、木をより殴るのに適した形に加工するとか、木をもっと丈夫な石を使用して斧の様なものにする」事を「進歩」と呼びます。
この様に説明すると「進歩と進化」の違いが分かると思いますが「成長にしても、学びにしても」先ずは「進化」するほどの「学びや成長」を目指すべきなのです、後はそれを「工夫する」という「進歩」の積み重ねです。
大きく分けて「子孫を残す」というのは動物である我々の「本能的に備わっている宿命」に属する事で、「進化、進歩」を目指すは「人類という種としての目指すべき道」の事で、「造化運に属する」事で、これらを下地に指南業に取り組む事が肝要となるでしょう。
第百九十九指南 原理を曲げること勿れ
「原理」とは「物事を成り立たせている根本的な法則」の事を言います、つまり「原理を曲げる」という事は、「それではなくなる、その存在ではなくなる」という事です。
例えば「占法の原理を曲げる」と当然、それはその占法ではなくなります、相学の原理を曲げると相学ではなくなります、易の原理を曲げるとそれはもう易ではなくなるのです。
又、「本物の基準」も同じ事が言えます、既に「占いの在るべき姿や本物の基準は数千年前に成立、確立しており」それを知らない者達が「占いとはこうだ、占いとはこういうものだ」と口々に主張しているだけの事で、それは「占いの本質ではありません」
例えば「生霊や悪霊などは人が生み出した概念上の存在に過ぎず、神の存在も同じ事が言え人が生み出した概念でしかありません」他には「前世が有ろうが無かろうか、人生は今からどう生きるかに全てが掛かっているのです、決して過去生の行いが現世に関係はしません」
何が「占いで」、何が「オカルト霊感で」、何が「神秘で」、と言う様に実は住み分け、分類がしっかりと存在するのです、ですが今や「占いも霊感も、神も生霊も悪霊も全部一緒にゴチャ混ぜの状態」になっているのです。
これは「車のハンドルに自転車のハンドルを付け、車のブレーキに原付のブレーキを付けている」様なものです。
それでは「車でないし、正しく作動もしない」のです、「占いの原理とは何か、占法の原理とは如何なるものなのか」を知り、理解し、それを決して曲げない事が重要なのです。
第二百指南 現実に通用する、人生に通用する、本物に通用する占い
この世の占いは結局の所、「本物か偽物か」でしかありません、「本物の占い、本物の占い師」とは幾通りかに言えますが、「現実に通用する指南、人生に価値を生み出す指南、本物に成る指南」が出来るものが「本物」と言えるでしょう。
「偽物、紛い物」では「現実に通用しません、人生に価値を見出す又、生み出す事が出来ません、本物に成る為の流れが分かりません」故に「偽物、紛い物」なのです。
「本物は本物」故に「人を豊かにさせる」事が出来ます、「偽物や紛い物」は「人を迷わせます、人を弱くします、人を愚かにします」故に「偽物、紛い物」なのです。
又、相談者の中にも「本物の相談者」という人がいます、この「本物の相談者」に通用する「人格と腕」を磨く事が「本物の占い師」には求められるのです。
又、「本物の相談者、本物が分かる相談者」には「偽物や紛い物」では全く通用せず、どんなに取り繕うとしても一発看破されます。
そもそも「占い」とは「レベルの高い人、見識の高い人、人格の高い人、本質を悟る事が出来る人」に対しては「厳しい腕が問われます」生半可な腕では返り討ちに合うか、本質を見抜かれて終わりです。
本物の占法が先ずこの世に中々存在しない事も非常にハードルが高い原因の一つですが、いくら「本物の占法」を身に付けてもそれを扱う指南者側の人格も反映されるのが「占い」というものです、故に本物の占法を学びつつもその人格形成をどこまでも養う事も同時に求められるのです。
「メルヘンやファンタジー、根拠も無いオカルト霊感、神秘思想、前世論」などに傾倒せず、現実に通用して更に、人生のど真ん中に通用し、本物が分かる相談者に通用する・・・これが「本物の占い師、本物の指南者の取り組む姿勢」です。
決して「占いを自己流に曲げず、それが本当、本物なら素直に受け入れ、常に己も進化、進歩する姿勢」が求められるでしょう。
人を救うお仕事です、人の運勢を救うお仕事です、人の悩みを解決するお仕事です、「真剣に取り組む」姿勢が必須です、占いはお遊びではありません、「厳しく、過酷なお仕事」です、故に手応えのある結果になった時、相談者が心から喜んでくれた時が最高の報酬なのです。