占いの歴史



『占いの歴史』

現代の占い業界の歪み様を説明するに、古来よりどの様に占い業界の流れがあったかを説明する必要があります。

故に其仙流が先人達より口伝で聞き及んで知っている範疇ではありますが、占いの誕生から、徐々にどの様に占い業界が曲がって行き、現代に於いて更に致命的に淀んでしまったかを知る大きな手掛かりになるものと存じますので、出来れば最後までお読み下さりましたら幸いです。


『第一章 誕生』

占いが誕生する切っ掛けとなったのは「三皇五帝」の一人「伏犠」が「陰陽論」を確立した
 事から端を発します。

今から五千年以上前の中国です、中国では「夏(か)の時代(紀元前1900年ごろ)」より以前の時代を「神話の時代」と呼びます、この「神話の時代」が「伏犠」の時代となります。

「陰陽論」とは「この世の理、自然の理、森羅万象」などは「陰と陽の二極」から成り立っているという理論です、「陰陽の二極」の例としては「男と女、剛と柔、上と下、昼と夜、夏と冬、天と地、能動的と受動的」などです。

「陰陽論」とは「この世の理、自然の理、森羅万象」などは「陰と陽の二極」から成り立っているという理論です、「陰陽の二極」の例としては「男と女、剛と柔、上と下、昼と夜、夏と冬、天と地、能動的と受動的」などです。

更に「伏犠」と同じ「神話の時代」に「三皇五帝」の一人「神農」が「八卦を天地思想の基
 に上下」に重ねて「上卦=天、下卦=地」という概念定義しました。

更に時代は進み「夏の時代(紀元前1900年頃)、五帝の一人の「舜(しゅん)帝」から帝
 位を譲られた同じく五帝の一人「兎王(うおう)」が「洛書」を基に「八卦を数字化」しま
 す、これが後の「九星の原型」となります。

紀元前1200年ごろ「周王朝(しゅうおうちょう)の文王(ぶんおう)が易の六十四卦に卦
 辞を付与」し息子の「周公(しゅうこう)」が「爻辞を付与」しました、これにより「易
 占」はより深く広く発展、解釈できる様になったのです。

紀元前800年ごろの「春秋戦国時代」に「孔子」が「易」を十篇の書物に編纂し「十翼」を
 作成する、これにより「易」という占いが「哲学と運勢学」という体形化を成す事となる。


【まとめ】

これが占いの歴史の発端の流れとなります、世界の占いの原型はそれぞれの地域や国の「宗教観」から来る「呪(まじな)いや神や天から降りて来る啓示的」なものが主だったものであったが、「伏犠」は「自然の移り変わり」から「生成消滅」を見出し、この世の様々なものは「陰と陽の二極から成り立っている」という「陰陽論」に辿り着き、終には紆余曲折ありながら「占い」というものを見出します。

つまり「占い」を「呪いや神、天からの啓示=非現実的なもの」ではなく「自然、宇宙の理=現実的なもの」と見なしたのです。

これはガリレオの「天動説と地動説」と同じくらいの発見だったと思われます、当時の多くの庶民は太陽が昇り、夜が訪れるのは「神の所業」である、と信じていたので、これが「自然現象」であると気付いた「伏犠」をはじめ古来の人の「自然から本質を感じる取る力、自然を深く観察する力」にはとてつもなく高い感性があったと思われます。

又、夏の時代の主な占法は「易」と「相学」でした、この二つ以外の占法もあったと思われますが、恐らくは曖昧で漠然としたオカルト霊感的なもので、「易」の様な学問として体系化されたものではなかったと思われます、即ち「易」がこの世で初めて体形化された正式な「占い」と言えるでしょう。

又「相学」の起原は紀元前700年頃と言われていますが、実際はこれよりもずっと歴史は古く紀元前二千年頃には存在していた様で、その原理も「易の陰陽論」から来ており、占いの創始がどこから来たのかと言えばやはり「易」から来たと言えるのです。

又、この「春秋戦国時代」以降に異常なまでに様々な「占法」が生まれる事となり、これが切っ掛けで多くの誤った原理、原則が生まれ出し、占い業界は「歪み、淀み、濁り」の時代に突入して行く事になるのです。


『第二章 歪み』

紀元前770年から紀元前221年の約550年間は「春秋戦国時代」です、この時代になって
 からは中国は更に小さい地域や国で戦乱が起こり、中国大陸のあちらこちらで革命、クーデ
 ター、戦争が生まれます。

この時代は同時に中国の文化が一気に花開いた時期でもあります、いわゆる「文明開化」です中でも当時の中国社会に於いて「占い師」の社会的立場が急に確立され、一定の地位を得る「占い師」が出て来た事は特筆すべき事です。

この時代は同時に中国の文化が一気に花開いた時期でもあります、いわゆる「文明開化」です中でも当時の中国社会に於いて「占い師」の社会的立場が急に確立され、一定の地位を得る「占い師」が出て来た事は特筆すべき事です。

それが、突然に「社会的立場を得る事が出来る」という事に多くの「占い師」は歓喜した事
 は想像に難しくはありません、それまでの中には神聖視されていた占い師はいたものの基本
 的には多くの占い師が「詐欺師、落ちぶれ者」といった占い師の立場が突然「社会的に確立
 された立場を得る」事が出来る可能性が出て来たのですから。

これを機に一気に「春秋戦国時代」は「占い師」の人口が爆発的に増える事になります、そ
 れと同時にそれまで「占い」と言えば「易と相学」しかなかったものが、様々な「占法、思
 想、理論、説、原理、原則」を謳う「占い師や風水師、運勢学者」が出現する事となりま
 す。

この爆発的に占い師が増えた事により、それまでに存在していなかった「説、理論、原理、
 原則、思想」を謳う占い師が溢れ「占い業界」は一気に「歪み、淀み、濁り」始めます。

立身出世の為に「嘘の説、紛い物の理論、在りもしない原理」を基に「新たな占法」が多数生まれる事となるのです、これが大きな原因で現代に残る多くの間違った占法が溢れる事となるのです。

その代表格が「五行論、五行説」と言われるものです、「五行」の創始者は「陰陽家の鄒衍(すうえん)氏」です、万物の元素を「木火土金水」の五つとし、「相生関係、相克関係、比和の関係」で説明しているものですが、これは全くの「人為的思想、人為的原理」以外の何ものでもない紛い物で、多くの占法に止まらず、暦学の隅々に至り、果ては料理や宗教的習慣などにも見事に浸透したものです。

そしてこれに更に拍車をかける様に「国のトップ達」が、「本物」を隠す為に多くの「偽物
 を流布させた事」です。

そしてこれに更に拍車をかける様に「国のトップ達」が、「本物」を隠す為に多くの「偽物を流布させた事」です。

有名な例を上げると618年~907年の「唐の時代」の「玄宗皇帝(唐の国の第九代皇帝)」は時の有名な風水師「邱延翰(きゅうえんかん)」という人物の風水の技術や知識に驚き、万が一、彼の風水が唐の皇帝の地位を脅かす様な、より強力な人物を民衆の中から生み出すかもしれないと思い、又この方位学が他国に漏れたら大事だと恐れました。

玄宗皇帝は「邱延翰」を宮殿に呼び、その風水の秘伝書の「海角経」を押収しました、又、唐の時代には風水は全盛期を迎えており、外国からもその知識を学ぼうと多くの外国人が入唐しており、玄宗皇帝は「真言八祖」の一人「一行禅師」に間違った「偽書の風水書」を書かせ多くの外国人にそれを教えました。

又、大雑把な説明になりますが、隋の時代、唐の時代、五代の時代、北宋、南宋の時代などは日本では飛鳥時代、奈良時代、平安時代ですが、この時代には多くの占法や思想、理論、説などが中国から輸入されて来た時代です。

「方位学」「易」「相学」「暦道」などが日本に入って来た時代ですが、方位学もデタラメなものばかり、インチキ占い師がやる様な易も当て物占いとして輸入され、「暦道」にも「五行の思想が入った」ものが伝わって来ました。


【まとめ】

「春秋戦国時代」を境に「梅花心易、算命学、四柱推命、紫微斗数、現代相学の元となる相学、五行易」など様々な占法が生まれる事になります、如何に「春秋戦国時代」が一つのターニングポイントだったかが分かるのではないかと思います。

所詮は人の浅知恵の結果、これ以降「本物」はスッカリと鳴りを潜める事となり、占い業界は暗黒の時代に突入する事となるのです。

①占いが一気に市民権を得て、身を立てる手段に成り得る事となり、そのせいで多くの偽物、
 紛い物が世に出る事となった

②国のトップが本物を守る為に偽物を多く流布させた

この二つが今の時代にまで続く占い業界の歪みの原因で、歴史が古いから「本物である」という理屈は通用しないのです。


『第三章 過去からの負の遺産』

1「占いや方位学」が日本に入って来たのは、飛鳥時代ですが、奈良時代、平安時代には本格
 的に日本に輸入される事となります。

 ですが、先の章でも述べました通り日本に入って来た「占法、方位学」またそれに付随する「学問、文化」は中国側は「紛い物」であと分かっていてワザとに偽物を送っていたので
 す。

 中国では周辺国を「朝貢国(ちょうこうこく)」という認識で、簡単に言えば「中国の属
 国」の一地方国という扱いです。

中国から見れば島国の小さな属国に誠心誠意、対応する必要は無いとの判断だったのでしょう、ましてやその様な国に「本物」を教える訳もない・・・

実際、本格的に「易」が輸入されたのは奈良時代~平安時代と言われていますが、「易の六十四卦」の「解説」の部分しか日本には当時入って来ていないのです、しかも中国の巷にいる様な正しく易を学んでいないエセ占い師が書いた書物を基に「六十四卦の解説」が「当てもの式」の内容に書き換えられていたのです。

本来ならば「易」を相手国に文化の交流という意味で「対等に対応する」のなら「易経、十翼」又は「周易本義」を送るのが筋というものです。

この誤った「易、相学、方位学、これらに付随する学問(暦学、天文学など)宗教的習慣(五行など)」などを基に当時の日本は「陰陽寮」などがこれらを統括し研究を重ねました、そして徐々に市井の者にも「易学、相学、方位学」以外の占法「四柱推命、算命学」などが商人を介して日本に入って来て江戸時代になり、加速的に誤った原理を基にした偽物の占法が世に広まる事となります。

江戸時代には「南北相法」の「水野南北先生」や「儒学者で易者」でもあった「新井白蛾先
 生」などは有名な占い師ですが、南北先生の相学は「麻衣神相法」を伝えていると言われて
 いますが、「麻衣神相法」の原型とはかけ離れたもので、新井先生の易の解釈本には「当て
 ものの解釈」が載っている始末で、どちらも「原型」とはかなり逸脱しているものとなって
 います。

江戸時代の末期、明治時代、昭和の時代には「占い」は社会的に宜しくない影響があるとい
 う事で、何度か「許可制や廃止令」などが政府によって検討、発令される事がありました、
 つまり、もうすでにこの時代では「占い」はその威厳や威力、社会的地位は失っており、実
 践で通用する様な占い師は殆どいない状況でした。

【まとめ】

日本に於いて如何に原理、原則の誤った占法が誤ったままに輸入され、その紛い物を多くの後に有名な先生方が信じてしまい、又間違った占法を生み出したのかが分かると思います。

この様に「間違っている占法」を「基に更に新しい占法を生み出す」という「負のスパイラル」が現代にまで続いているのです。

「九星気学、姓名判断」などはその最たる例です、「九星」は「易を深く」理解しなければ到底「九星」の神髄には辿り着くべくもないのですが、肝心の「易」の聖書とも言える「十翼」や「周易本義」などが当時は伝わっていないので、ある意味では致し方ない事かも知れません。

「姓名判断(熊崎流)」の原理は「易」に出て来る「奇数は陽数で偶数は陰数」という「数理」から来ています、ですが「易」は「数字自体」に作用があるとは説いていません、「自然の理を数字でも表わす事が出来る」というものを創始者の熊崎先生は理解出来なかったのでしょう。

これより後の時代は更に取り返しの付き様が無い程に占い業界が乱れ、落ちぶれる事となります。


『第四章 混沌』

昭和の時代は第二次世界大戦後からは急速に日本では復興を成し、経済成長著しく、より強
 固に「平和」な状況へと社会全体が変化し民衆にも自由の幅が生まれます。

こうなると人や社会はより「娯楽」を求めます、そんな「娯楽」の対象の一つに「占い」が出て来ます。

そして、新聞や雑誌が庶民の手に気軽に入るようになり、更にラジオが普及し、次いでテレビが一家に一台の時代へと移り変わります、これらの情報を得る手段の広まりと共に「占い」も徐々により庶民に身近な存在となって行きます。

特に昭和の中期以降は「マスコミ」の影響は大き
 く、これにより「占い」は又今までとは違った形で広がりを見せます、この頃から次第に
 「霊能力者、霊視、チャネリング、タロット」など今までに聞いた事も見た事も無い様な
 「占い」の存在が出現して来ます、又、同時に東洋の占いだけでなく、西洋の占いも徐々に
 日本に入って来て、少しずつ「占い」が「人生指南、運勢指南」という枠から外れだし「メ
 ルヘン、ファンタジー、根拠無きオカルト霊感」のいわゆる「奇跡を謳う、予言的な事を口
 にする」という「お遊び的」な存在へと落ちぶれて行きます。

そして、平成、令和のネットの時代が来ると一気に占い業界ではある変化が出て来ます、そ
 れは「異常なまでの数の占い師」がネット上に出現します。

その背景には「スピリチュアル」という存在は無視は出来ません、「スピリチュアル」とは一体何なのか?という「一定の定義が無い」ままに一人歩きをはじめます。

何故ここまで「スピリチュアル」が市民権を得たかというと、「非常に扱いが単純、何でもありの言ったもん勝ち、一見神秘性が高い」などが上げられますが、更に「テレビなどで番組が組まれる、雑誌、ネットニュースでも取り上げられる」などマスコミが「スピリチュアル」を取り上げた事により一気に、それまで存在もしなかった「スピリチュアル」が身近な存在として認知された事が大きいと思われます。

占いの東西に境は無い様な状態で、例えばメキシコでは全く知られていない「マヤ暦占い」
 というものが何故か日本で生まれたり、チャネリングも神や天と交信をするというものが果
 てには宇宙人だったり、高次元の存在とだったり、それまで既存であった占いやオカルトの
 類の内容に幅が生まれたり。

発達障害の子供は「アセンションを導くクリスタルチルドレン」などという、「占い」なのか「新興宗教」なのか「第三の存在」なのか分からない存在まで出て来る始末で、占い業界は「白も黒も、成否も、理屈も屁理屈も」ごちゃ混ぜの稚拙でどうしようもない程に落ちぶれたものになったのです、この状態を「混沌」と言います。

「混沌」とは「区別もつかず、物事が入り混じっている状態」の事です、そもそも「占い」を取得するには最低でも10年はかかるものです、それが数回の講義を受けただけ、○○回の講習を受けたら占い師になれる・・・そんな馬鹿な話しがあるはずも無いのに、現実はこの様なものが我が者顔で占いをしているのです。


【まとめ】

第四章の段階、昭和の中期からの歪み様は加速的に又異常な程に「占いが産業化され過ぎて」しまい「占い」の本質はどこにあるのか?と思ってしまう有様です。

本来占いとは「生き方を説く、道を開く指南、成長の指南、学びの指南」などを説く務めです、一言で言えば「開運を説く」事が占い師の意義であるはずですが、その面影はもう今はありません。

「情報化が進み過ぎ、平和に過ぎ、不必要に多様性が進み」今や、一定の秩序も無く、言ったもん勝ちの無価値な業界へとなってしまった事に深い憤りと憂いの念を禁じ得ません。


【総まとめ】

これで占い業界の歴史を全て説明出来たわけではありませんが、何となく占い業界の流れや歴史が見えて来たのではないでしょうか?

この文書の中には「ネットや書物」を調べれば出て来る内容もありますが、中には其仙流の先人達からの「口伝」で伝わって来たものも多数あります。

故に信じる、信じないも皆様次第ですが、普通は嘘でこの様な事は言えないはずです、どうかその辺りを汲んで頂けたら幸いです。

占い業界が歪み始めたのは「春秋戦国時代」に「占い」が市民権を得て身を立てる事が出来
 る様になっ
た事と、王族、貴族、高官などに雇われる事によって社会的立場を得る事が出来
 る様になった事が原因
で沢山の「偽者、紛い者」が出現する事になった。

近代になるに連れてマスコミやネットの影響もあり、一つの分野の占いが爆発的に広がる状
 況がある事
と、個人個人の想像で占いを創作する流れが生じ、それまでは存在もしなかった
 新しい占法や占いの
念が生まれた。

この二点が「占い業界」が歪み、混沌となってしまった大きな原因です。

現在の「占い業界、占法、占い師」は五千年前の純粋な「在るべき姿」は失われ、五千年前とは根本的に違ってしまったのです、「占いの本質」が失われている状態では、それは「占い」ではなく「占いごっこ」なのです。

古書「麻衣神相法」に「これ妄りに教えるべからず」と載っております、余程の覚悟を以ってしても又、類稀なる秀才が求めても、正しく理解する事は難しいから、簡単に教えてはならない、という戒めの文です。

現在の多くの占い師が本当に「占い師」なのでしょうか?占いとは時に「命懸け、真剣勝負の如く」の姿勢と覚悟が求められる事があります。

ある日突然、国の総理大臣が来て「明日からのこの国の政策を指南して欲しい」と尋ねに来たら、応える覚悟があるのでしょうか?又、通用する腕を持ち合わせているのでしょうか?

其仙流はもう一度「占いの真の威力と威厳を取り戻す」活動をして行きます。