其仙流の歴史 其の二



『第二章 動乱の時』

周の時代(紀元前1046年~紀元前771年)には「易」は多くの一般の人の手にす
 る所となり、文王や周公、孔子などの賢人達の手によって誤りを大いに含みつつ
 も、徐々に体系化がより進みます。

春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)に中国は文化、文明が一気に花開きます、それと共に「占い」が市民権を大いに得る事となります。

その背景には「王族、貴族、高官、地域、国」などに「人材雇用、適任人事、軍略、政治」などに「意見を求められ、指南する」事によって「お抱え雇用」や「贔屓(ひいき)」にしてもらえる可能性が出て来た事が上げられます。 

その為に「立身出世の為」「身を立てる為」に多くの「偽者の占い師」が現れ安易でデタラメな「原理、原則、説、論、法則」を謳い「実践に通じない占法」が溢れ、偽物の占いごっこをする占い師の大量生産の状態へと陥ります。

そんな中、当時の其仙流の継承者の「華翠老子(かせんろうし)」はこの「占い業界」の落
 ちぶれ様に深い憂いの念を感じました。

「華翠老子」の才は幼い頃からすでにその片鱗があり、後年その才は「伏犠」に匹敵すると其仙流で伝えられています、又指南の腕前は「その運勢を観る事人知を超え、その人生を語るに玄妙で、死生吉凶を語るに神(しん)である」と悩みを相談した相談者から言われていたそうです。

「華翠老子(かせんろうし)」は次第に当時の中国の占い業界が「あまりに大衆化して行く様や、在りもしない原理や論を説く事、非現実的な指南の仕方」などの広がりように深く嘆く日々に心が打ちひしがれ、搔きむしられる思いだったと伝えられています。

そこで「華翠老子」は其仙流を大々的に表に出し「本物」を示す事で業界の修正を図ろうとしましたが深く考える所、下手をすれば其仙流をも曲げられかねないと思い至りました。

そこで「源流」を「一子相伝」として「門外不出」の戒律を決めました、それまでの其仙流も無暗に教え広げる様な事は無かったものの、「一家相伝」的な側面があり、時に複数人の弟子を取る事もあった様です

そこで「華翠老子」は完全に「一子相伝の門外不出」として体系化をより図り流派の名を「其仙流」とし「本物を守る」事を決めたのです。

つまり、春秋戦国時代になって初めて其仙流は「其仙流」と名乗ったのです、因みに現在の継承者は「178代目」ですが、これは「華翠老子から数えて」という事で、伏犠や神農の神話の時代、夏の時代の継承者は含まれておりません、恐らく伏犠から数えていたら300代は越えるものと思われます

※「伏犠」の神話の時代から「華翠老子」が其仙流を建てるまでの間を「源流」と呼んでいま
  す。

ここから、其仙流は長く現在まで孤高の存在を強いられます、一部の権力者、識者、などから乞われながら、時に流派を守る為に貴族のお抱えになり、時に長くはそれを嫌いまた野に下る・・・この様な事を繰り返しながら中国各地を縷々転々とする事となります。 

春秋戦国時代も時代が進むと占い業界は更に混迷の時代へと突入します。占い業が「生活の
 基盤を成せる職業」として庶民の手に広がり、占いが大衆化するのと同時に「偽物、紛い
 物」の大量生産の状態が深刻化します。

一方、その「偽者、紛い物」を「信じる貴族、高官」など、「本物を観る眼を失った」者達の出現や、「本物を隠す為にワザとに偽物を流布させる王族」などの出現なども相まり、たった数百年で占い業界はすっかりと「価値の無い」稚拙なお遊びの代物に成り下がり、春秋戦国時代の中期から後期にかけて、この惨状を深く嘆く者がいました。

其仙流の第九代目伝承者「荘周(そうしゅう)」その人で「老荘思想の荘子」と言えば分かる人も多いのではないでしょうか。

一般に「荘子」は世間から距離を取り、俗世に塗れる事を嫌う傾向があると言われていますが、それは 占い業界の落ちぶれ様が「人為に因る」ものだから、ある意味での俗世に対する「皮肉の念」を込めたものであると其仙流では伝わっています。

徹底的に「人為」を嫌い「自然に在る事こそが本質である」と生涯に渡り信念に持ちます、又「荘子」は「人の完成、人格の完成」を深く研究した先人でもあり、「指南者、占い師」として「本質的な人の在り方」を深く追求しました。

そんな「荘子」は其仙流の後の者にこの様な言葉を残しています。

「人為に過ぎれば真の姿を失い、自然に過ぎれば理不尽極まりない、しかし自然を失っては人は存在し得ない」

これは「人為に過ぎれば発展もあるが、そこに過ぎる欲があると本質を見失い大切なものを永遠に失う事になる、自然に過ぎれば自然の驚異に晒されその力の前に人の力などでは太刀打ちのしようも無い、しかし、それでも人は自然と離れ過ぎても又存在出来ない、それは人も自然の一部なのだから」と言う意味です。

 

「春秋戦国時代」以降というもの、占いは「曲がり、歪み、淀み」聞いた事も無い
 様な「嘘偽りの原理、原則、説や論」で溢れかえる始末、「華翠老子」の患いは見
 事に現実と成って行きました。

そんな時代に深い憂いを禁じ得なかった先人がいます、「後漢」末期の「左慈元放仙人(さじげんほうせんにん)」です。

昨今では「左慈」の名はゲームや小説でも語られるので若い人でも知っているのではないでしょうか。

「左慈仙人」は其仙流、第66代目伝承者で様々な逸話があり「三国志演義」や「神仙伝」などにも出る程有名な仙人です。

正史では「魏」の曹操が左慈の噂を聞き及び、左慈を宴に招待します、その宴席の場でのやり取りで曹操の人財収集癖が出て、左慈を迎えようとしますが、左慈はそれを嫌い断り続けその結果、曹操に追われる事になりますが、最後まで逃げ切ります。

「左慈」は何故、召し抱えられる事を嫌ったか・・・それは曹操の相を観て「器量に欠けを観たから」だそうです、「戦、政治、観る眼、どれにも抜きん出ているが、惜しむらくは和する事を知らない」とその最大の欠点をして「覇者に一番近いが、恐らくは叶わぬだろう」と身の回りの世話をする傅(かしず)きにもらしていたそうです。

又「左慈」の弟子に「葛玄(かつげん)」と言う先人がいました。「葛玄」と
 は、後の「太極左仙公」と言えば分かる人もいるかもしれません。「葛玄」は幼少
 の頃より「老荘思想」に親しみ、その才は驚く程のものだったそうで、八歳の時
 には易占を暗記し、出た卦の六十四卦に及ばず、更に各爻の384種の意味さえ暗
 記していたそうです。

「左慈仙人」と十代の頃に出合い三十代に立派な方士になっていたそうで、『呉の孫権が「葛玄」を賓客として招き干ばつによる被害をどうにか出来ないものかと問うと、護符をしたため雨を降らした』

という「葛玄」は水にまつわる逸話がありますが、それは「葛玄」が「気象(天の氣の相)を読み、小規模ながら雨を降らせる方法に精通していたから」です。

兎角「相を観る」事に秀でており「左慈」と三国時代の激動の時代を師弟で駆け抜けます、ある土地に来た時にひどく旅疲れをしており、見かねた村人から手厚い歓待を受けたそうです。

「葛玄」は村人にお礼として、こう村人に指南しました・・・

「葛玄」:「この土地は見た目は非常に肥えている様に見えるがこの土地独特の風土病が潜ん
      でいる様です、また近い将来にこの土地は戦乱の渦中の場になりそうです。」

「その様な流れがこの土地の相となって観えます、一つ東隣の山に広い盆地があります、そこに移住すれば戦争に巻き込まれる事も無く、又作物も豊かに育つでしょう」

と述べ、それを信じた村人はその年中に東に聳(そび)える山を越え、そこに移住しました。

その翌年に何とその土地が敵国との戦乱の境界線になり、砦が築かれしてしまったそうです。

この様に「葛玄」は「自然の相を観る」事に精通しており、人の相を観るよりも得意だったそうです。

「葛玄」は後の其仙流の継承者にこの様な言葉を残しています「相は見るのではなく、観るものである。相は凝視するものではなく、察するものである。無を無として見るではなく微かを観るのだ」と非常に重い言葉であり、又占いの秘訣を述べている言葉でもあります。

その其仙流第67代目伝承者の「葛玄老子」の弟子に「鄭隠(ていいん)」
 と言う者がいました。

師匠譲りの相の見立てに秀でており、若くしてその才は「葛玄老子」と子弟ならんで「葛玄瑞鳳(かつげんずいほう)、鄭隠龍雛(ていいんりゅうすう)」と呼ばれていたそうです。

「瑞鳳」とは「良い兆しに鳳凰が現れる」と言う意味で、「龍雛」とは「龍の才と徳を持っている雛(ひな)」と言う意味で、そこから転じて、二人の旅先には「吉兆が訪れる」という意味です。

「鄭隠」は性格が穏やかで、又素直にして謙虚という絵に描いた様な好人物で、其仙流の精神や秘伝を砂が水を吸い込む如くに次から次へと修得し、それでいて驕り高ぶらない態度を取り何よりも「義を重んじる」生き方をする人物だったそうで、「葛玄老子」も「鄭隠」を眼に入れても痛くない程に可愛がり大切に育てたそうです。

 又、「葛玄老子」の甥っ子に「葛洪(かつこう)」という者がいました、「葛洪」は漢時代からの名家のお家柄でしたが、13歳の頃に父親を亡くし薪売りなどして生計を立てる様なります、恵まれたお家柄から薪売りをして生計を立てる様な有様に何一つ落ちぶれる事もなく素直に自分の状況を受け入れ日々を真面目に過ごす姿勢に「葛玄」は「純粋朴然(じゅんすいぼくぜん、混じり気が無く透明な心を持つという意味)」な子だと言って、何かと気に掛けていたそうです。

そんな「葛玄老子、鄭隠、葛洪」の其仙流に伝わる逸話を紹介しましょう。 

「葛洪」十六歳の時、叔父の「葛玄」とその弟子「鄭隠」の影響から「易経、老荘思想、孝経、論語」などに興味を持ち自ら学びます、そんな「葛洪」の学ぶ姿勢を叔父の「葛玄老子」が見て光るものを感じ哲学や思想学を直接「葛洪」に指導しますが、あくまでも一般学問を教えるに留め、其仙流の精神や秘伝、業(わざ)などは教えませんでした。

其仙流は一子相伝が絶対の伝統、又、自分には「鄭隠」という自慢の弟子がいる、弟子を超えて「又弟子」を取る事は出来ないと自分に言い聞かせていました。

そんな「葛玄老子」にまだ少年の「葛洪」は本当は其仙流を学びたい思いを伝えましたが、叔父の其仙流に対する厳格な姿勢を尊敬している事も伝え、「自分のわがままでありました」と言い自重したそうです。

そこで「葛玄老子」はそんな「葛洪」に一つの玉璽(ぎょくじ)を渡します・・・

「葛玄老子」:『葛洪よ、そなたの学ぶ姿勢と謙虚さは高潔に通じ評価できる、だが其仙流は
        一子相伝、そなたを弟子に取ると将来、鄭隠の才とそなたの才のどちらか一
        人だけを継承者にする事は忍びない、よって私はそなたを弟子には取らな
        い。その代わりにこの玉璽を渡そう、これは其仙流に深い縁のある者に渡
        す、其仙流のある種の伝統とでもいうものだ、ある時は其仙流を守ってく
        れ、ある時は其仙流を救ってくれた人などに渡し、何か困窮し困った事があ
        れば駄賃を取らずに其仙流も手助けする、という誓いの証だ、これを持って
        いるという事は「其仙流の縁者」と見なし「其仙流の家族であり、一門であ
        る」という事だ。

「葛洪」は叔父のこの計らいを痛く感じ入り、こんな年端の行かぬ若輩者にここまでの誠意を見せてくれる事に嬉しさが溢れんばかりに喜んだそうで、そんな「葛洪」の姿を「鄭隠」もまるで自分の年の離れた弟の事の様に喜んでいました。

そんな日々を送っていた「葛洪」がある日、街を歩いていると数人のチンピラ風情に絡まれている商人の翁がいました、翁は困っている様子ですが、周囲の人は止めに入りたくても相手はチンピラ、ゴロツキ、止めに入って何をされるか分かったものではないと、恐れをなし知らぬ素振りをしている様子。

それを見かねた「葛洪」が「大の大人がご老人に集るとは情けないやめなさい」と言って割って入りました、ゴロツキ達は「葛洪」を見て、邪魔をされた事に面白くない様子・・・そのまま思いに任せて「葛洪」を殴る蹴るの始末、その時に胸の袂から叔父から頂いた「玉璽」が零れ落ちました。 

その「玉璽」を見たゴロツキが手に取り・・・

「ゴロツキ」:小さい「印」だが売ればそこそこになりそうだ、こいつ良いもん
        持ってるじゃないか・・・

その「玉璽」を拾い、ボロボロになり横たわっている「葛洪」を尻目にその場を立ち去ろうとします。

それに気付いた「葛洪」はそれまでの優しい顔つきが変わり憤怒の形相になり・・・「それを手放すわけには行きません、それが下賤の者となれば尚の事、その玉璽を返しなさい!」とボロボロの身を起こして立ち向かっていったそうです。

「葛洪」がそんな事に巻き込まれているとは知らない、「鄭隠」の所に数人の街人が焦る表情を見せながら、その中には先程ゴロツキに絡まれていた、翁もいました。

「翁」:「鄭隠」さん、「葛玄老子」の甥っ子さんが街のゴロツキに絡まれていた私を助けて
     くれ、今ひどい仕打ちを受けている、「葛玄老子」にこの事を・・・どうか助け
     てやってください。

「鄭隠」:「師匠」は今、古いお客さんに呼ばれ遠い町に一人で出向いています、私が行きま
      しょう。

「鄭隠」は一目散にその現場に走りました、「私の大事な弟分よ、どうか無事でいてくれ!」と心の中で念じながら駆け付けましたが、その場には更にボロボロになった「葛洪」が街人に介抱されている姿でした。

「鄭隠」:な、何があったんですか・・・?

「街人」:ゴロツキどもに絡まれていたご老人を「葛洪」さんが庇ってくれて、逆にそのゴロ
      ツキに「葛洪」さんが絡まれたんだが、その折に何やら「玉璽」を落としてしま
      ったらしいんだが、その玉璽に気付いたゴロツキどもが、それを拾い売りさばこ
      うと言って立ち去ろうとしたら・・・

「街人」:いきなり顔つきが変わりその「玉璽」を返せと大声で怒鳴りながら、ゴロツキに立
      ち向かって行ってしまって、更に暴力を振るわれて・・・

「葛洪」:あ、兄様・・・

「鄭隠」:どうして、玉璽をそこまで・・・

「葛洪」:お、叔父から頂いたこの玉璽は、き、其仙流の先人達の「誇りと歴史」が込められ
      たもの、私がどの様な目に遭っても、この玉璽を守る事は其仙流の「誇りと歴
      史」を守る事です・・・

と、言い気を失ってしまいました、そこに町医者が来て、「取り敢えず私の診療所に運びましょう」。 

町医者と「鄭隠」の処置のお陰で「葛洪」は大事に至らず、ぐっすりと眠っていました。

「葛洪」の処置が終わり、一息つきながら「鄭隠」は町医者に・・・

「鄭隠」:「件のゴロツキどもはどういった連中なんですか?」

「町医者」:三ヵ月程前から他の街から流れて来た連中で、「脅し、カツア
      ゲ、かっぱらい」と見た目には分からないが、恐らく殺しもやって
      いるんじゃないでしょうかね。

「老若男女」お構いなしに、金になると思えば何でもやる、鬼畜な連中ですよ。

「鄭隠」はそう聞いて、握り拳に力が入るのでした。

「鄭隠」は次の日に街の役人の所に行き、そこの役人長に会い「昔、貴方は私の師匠に恩がありましたね」、その時の恩を少し返して頂きたいのです・・・。

その次の日の夜、あるボロ屋に数人のゴロツキがたむろしている所に・・・突然、「鄭隠」が現れ・・・

「ゴロツキ」:誰だお前は!何しに来た!!

「鄭隠」:数日前に私の弟分が痛く世話になった様だ、その借りを返しに・・・

「ゴロツキ」:ん?あぁ、あの時の玉璽を守っていた小僧の事か!おまえ、あの小僧の家族か
        何かか?

「ゴロツキ」:何でもいいや、ここに来たからにはどうなるか分かってるんだろうな?

と言いつつ、他のゴロツキが「鄭隠」に襲い掛かりました・・・半時程が経ち。

ボロ屋の周囲を囲んでいる数十人の役人が固唾(かたず)を飲みながら見守っていました、そうしたら、中から「鄭隠」が出て来て・・・

「鄭隠」:終わりました、後の事は宜しくお願いします。

「役人長」:今更ですが、これで良かったのですか?我々は単に市民からの協力を得たという
       事で問題はありませんが、「葛玄老子」は・・・

「鄭隠」:恐らくはこの様な事をした私を許しはしないでしょう。

「役人長」:では何故?

「鄭隠」:例え、師匠の甥の事を思っての事だとしても、無暗に他者と争い、又それが「私
      怨」であるなら尚の事「師匠」は許しません。

ですが、其仙流の誇りを継承者でもない「葛洪」が命懸けで守ろうとした、その思いに私如きですが報いたいと思ったのです。

「役人長」:では我々が口裏を合わせて黙っていれば良
       いのではないでしょうか?

「鄭隠」:「師匠」には嘘が通用するとは思いません、我々は占い師なのですよ?もう、腹を
      決めての事ですから、気にしなくても良いですよ。

数日後、旅から帰って来た、「葛玄老子」が「葛洪」の怪我を見て・・・「葛洪、その怪我はどうしたのじゃ?」そうしたら「鄭隠」がここ数日の出来事を何も隠さず洗いざらい全て「葛玄老子」に報告しました。

「鄭隠」:其仙流は俗世との係わりを無暗に持たない、無暗に争わないと教えられました、そ
      れが「私怨」によるものなら尚の事・・・私は「師匠」の言い付けを破ってしま
      いました、どうか破門でもどの様なご処分でもお言い付け下さい、お受けいたし
      ます・・・。

「葛玄老子」:・・・そうか、事情は分かった、「鄭隠」よ己のしでかした事は許されぬ事、
        ではお主の望み通り処分を下そう・・・お主を「其仙流第68代目継承者」
        する!

「鄭隠」:なっ!そ、そんな、言い付けを破った私を何故?

「葛玄老子」:お主は素直過ぎるのじゃ、それは得難い事ではある、だがの「道」を踏み外さ
        ぬ人も又いないのじゃ、「道」を踏み外した者を教え導く事もまた我々指南
        者の務め。

それには、当の本人が「道」を外した経験が無ければ指南のしようが無いというものよ。

「葛玄老子」:ただし、ここからは本当の罰を与える!心して聞くが良い!

お主が其仙流の規律事を破った事は事実、その罰は受けねばならない、その罰は・・・

お主から「弟子を取る資格を剥奪する」その代わりに私が弟子を決める「葛洪」を弟子として育てよ!

「鄭隠」と「葛洪」はお互いに顔を見合わせ泣いて抱き合い喜んだそうです。

その後に「鄭隠」の元で「葛洪」は立派に成長し「其仙流第69代目継承者」となりました。       

 


『まとめ』

周の時代後期から春秋戦国時代に偽物、紛い物が溢れ返り「本物」が如何に時代の陰に身を潜めて行ったかが少し分かるのではないでしょうか。

これは現代でも同じ事が言えるのではないでしょうか、「安易な占い、安易な言葉、安易な世界観」に簡単に影響され、偽物、紛い物を本物と思い込んでしまう・・・。

まるで「本物か偽物かは自分が決める!」と言わんばかりの人で溢れている様に感じます。

「本物」とは遥か古の時代に既に完成されているのです、それを皆が寄って集って壊してしまったのです、その行為は現代も続いていると言えるでしょう。

人は価値のあるものを壊し、価値の無いものを価値があると一喜一憂する・・・人はいつからこの様な本物と紛い物の見分けが付かなくなったのか・・・

占いとは「人を、国を、未来を価値あるものにする為のもの」です、現代の占いにそこまでの事ができるのでしょうか?

「華翠老子」は濁って行く占い業界を嘆きつつも「本物」を守る為に其仙流を表には出さない決意をしました、「荘子」はどんどん大衆化して行く占い業界や世俗がどんどん人為に塗れる事を「蔑視」するかの様に俗世と距離を取ります。

そんな、先人達の中にでも少しではありますが、俗世と関わりを持ち又必要以上に関わらない、という微妙な距離感を持つ「左慈仙人」も世の移り変わりや占い業界の流れを見守ります。

又「葛玄老子、鄭隠老子、葛洪老子」の様に一定は俗世と関わりながらも時代をそっと見続ける先人もいました。

ですが、占い業界はどうしようもない程にどんどん「濁りが増し、歪みが治らない程になり、淀みも極まって」行きます。

その様な時代でも「葛老子、鄭隠老子、葛洪老子」の様に其仙流の師弟の絆は紡がれて行きます。

 続きを読みたい場合は「其仙流の歴史3」をお読みください、こちらをクリックして頂ければ「其仙流の歴史3」に飛びます。