其仙流の歴史 其の一



『第一章 三皇五帝』

今から五千年以上前、三皇五帝の時代から夏の時代(紀元前1900年ごろ)に於いて其仙流の始祖の一人「三皇五帝」である「伏犠」が「陰陽論」を自然から見出し、「八卦」を作成、次いで同じく「三皇五帝」の一人の「神農」がその「八卦」を天地思想を基に上下に二つ重ね、六十四卦を作成します、この事によって「易」という概念が形作られます。

※ちなみに神農が八卦を上下に重ねた事は事実ですが、実は、八卦を上下に重ねて占うやり方(現在、伝わっている易占)は間違っており神農はこれを占いで使用する目的で作ったわけで はありません。

「伏犠」は幼い頃から「空を見上げ、星を観たり、太陽や月の移り変わりを観る」事にとても興味がある人だったそうです、又「季節」や「自然」に深い造詣を示し、研究を重ねました。

「季節」は「変化をする」しかしその「変化の中にも春の次に夏が訪れ、夏の次に秋が訪れるという不変性を見出します」これを切っ掛けに「陰陽論」や「三義論」を見出すのです。

又、「神農」も「伏犠」と同じく「季節」に深く惹かれるものを感じ、大いに研究し「三才論(天地人)」の原理を見出します、又、「神農」は「薬草学、薬膳、栄養学、生薬」などにも通じ更に「呼吸法、煉氣法(現代言う所の気功法)運動法」などの研究も行い、所謂古来の「健康法」の創始者でもあります。

これ故に「其仙流」は「健康問題を観る事」や「治療の指南」などをする事も非常に得意な領域です。

更に後の「伏犠、神農」達「三皇」の意思を継いだ「顓頊(せんぎょく)」や「堯帝(ぎょ
 うてい)」「舜帝(しゅんてい)」など「五帝」達が研究研鑽を重ね「兎王(うおう)」が
 「洛書」を手掛かりに「八卦」を数字 化する事によって更なる発展をします。

※ここで「三皇五帝」の説明をしたい所、俗に言われる「三皇五帝」とは「後の中国人が伝説や神話、言われ、地域の伝承を基に畏怖し称える意味で「三皇五帝」としたもので、其仙流の先人達やその縁の者が言い出したわけではありません。

又、伏犠から始まった其仙流の源流は五帝の「湯王(ゆおう)」に至るまで実に二千年ほどあるわけで、決して「三皇五帝」の八人だけで継承されたわけではありません。

その様なわけで中国でも誰を以って「三皇五帝」とするか定まっていません、三皇も「伏犠、神農、隧人」説や「伏犠、神農、女媧」説。

五帝も「黄帝、堯帝、舜帝、兎王、湯王」説、他には「黄帝、顓頊、嚳(こく)、堯帝、舜帝」など複数の説があります、其仙流ではこの時代に源流に非常に貢献した者を選んで「伏犠、神農、女媧、顓頊、堯帝、舜帝、兎王、湯王」の八人をして「三皇五帝」と呼んでいます。

又、五帝の筆頭に黄帝が含まれる事がありますが、もともと黄帝はその元となる人物モデルはいた様ではありますが、その人物を後の時代に五行の思想を基に黄帝(黄色が方位の中心である事から)と加筆したもので人為的に作成された感が強い為に長年其仙流内に於いても疑問点、疑念点がある上、其仙流は強く「五行を否定」しているので、「黄帝説」は取っていません。

夏王朝の祖である兎王から約300年続いた王朝に陰りが出始めた16代王の「帝發(ていは
 つ)」の時代に深刻な人材不足が起こりました、ここで言う「人材不足」とは「王の器」と
 「其仙流の継承者としての器」の両方を資質として持たない、と言う意味です。

そこで「帝發」は家臣の中にその資質を持った者を見出します、それが後の「殷王朝の始祖、天乙(湯王)」です、「帝發」は「天乙」に其仙流の源流の精神と秘伝、奥伝を教え、更にその人物性の深さに故に「帝發」と「天乙」の間に一つの約束事を交わしました。

それは・・・「私の次代より、不徳不心得な王が生まれたらそれを打ち倒し、民の為の国造りをするか、それが出来る者を立てその助力をする事を約束して欲しい」

「帝發」の次の帝の時代、「帝傑(ていけつ)」の暴政の時が訪れ、「帝發」の患いは残念ながら現実となります、民草の心は夏王朝から離心して行き、「帝傑」は「肉山脯林(にくざんほりん、肉を山の様に盛り宴を行う事、贅沢の極み)」の贅沢ぶりの上に我がまま三昧でまさに暴君に相応しい行いばかりを続けていました。

そして、「天乙」は「帝發」との約束を果たす為に「帝傑」を見事打ち、幽閉する事を果たし、「殷王朝(いんおうちょう)」を打ち立てます。

時は紀元前1200年中期の頃、「殷王朝23代王」の「祖庚(そこう)」の時代に其仙流の
 源流にまたもや深刻な問題が生じ始めていました、「祖庚」の時代に「其仙流の精神、秘
 伝」を受け継ぐだけの人物がいなかったのです。

しかも「夏王朝の帝發」の時と違い「家臣」の中にも「遠縁」の中にも「資質者」が認められなかった事はかなりの深刻度でした。

「祖庚」はこの事を傍に仕える信用できる家臣の「震尤(しんゆう)」に相談をしていたそうです、その震尤の案として、「市井の者に伝承されては如何でしょう」との言葉でした、「祖庚」は悩みに悩んだそうです、「王族の受け継ぎし伝統、秘伝を一民草に伝えるなど前代未聞の事」だったからです。

そこで「祖庚」は震尤からの「何の為の秘伝と伝統かをお考え下さい」との言葉で意を決したそうです、そして「其仙流の伝統と秘伝」は震尤の目利きに適った者が厳選され、その者の名を「潤恵(じゅんけい)」と言います。

この「潤恵」以降、代々王族の手によって受け継がれて来た「其仙流の精神と秘伝」は民草の出の者に受け継がれて行く事となります、又「帝發」の時に受け継がれて「暴政を強いる王が現れた時はこれを打ち仁政を行うか、それが出来る者を立てその助力をする」という心得も教え伝えました。

どの時代の王朝にも言える事は長く続く王朝は「愚王」が生まれる事です、殷王朝の「祖
 庚」の患いは「帝發」の時と同じくして、残念な形に成ろうとしていました・・・
 そして「祖庚」の次の帝の24代王の「祖甲(そこう)」は暴虐な性格でこれ以降「殷 
 王朝」は徐々に衰え始めます。

そして時代は進み第30代王の「紂王(ちゅうおう)」の時代は殷王朝最後の時代です、「紂王」はまさに「酒池肉林」の暴政、放蕩三昧で民の為に心を砕く様な事は一切なく、「義を残(そこ)ない、善を損なうを紂と曰う」と「暴君」の代名詞に後に言い伝えられる程の無知暴君の有様でした。

そして、「紂王」を打つべく立ち上がった者が其仙流の継承者に現れる事となります、その者の名は「呂尚(りょしょう)」別名を「太公望(たいこうぼう)」と言います。

「呂尚」は「紂王」臣下の中でも仁政を重んじる「姫昌(きしょう、後の文王)」に接近しその軍師となります、「姫昌」亡き後はその息子「姫発(きはつ、後の武王)」と共についに「紂王」を打ち「姫発」は周王朝を建てます。 

これより後、周公より太公望は「斉の国」を封じられ、長く「斉」の地を領地とします。

又、太公望は斉の領主になった後、其仙流の研究に没頭し先人達の研究と自らの研究を以ってこの様な言葉を残しています「卜占の占具を用せず、即神即応無形を察す、これを相と曰う」・・・

これは「運勢を観るに占う為の道具を使っている様では駄目で、無形を察する事が重要であり、これを即神即応と言う」と言う意味です。


『まとめ』

これが其仙流の原初の時代の歴史です、非常に掻い摘んだ説明となっており、全てをここでお話しするには到底尺が足りませんのでご理解下さい。

「三皇」の「伏犠、神農、女媧」から始まり「五帝」が受け継ぎ、太公望の時代辺りまでを一つの区切りとします。

この様に其仙流は代々「仙人、賢人」を輩出して来た古流派であります、この三皇五帝の時代から周の時代の始め頃までは、其仙流の歴史があまりに古く、全てを受け継げていない部分もありますが、後の先人達が研究研鑽を重ね、失われた秘伝を掘り起こし形にしたり、新たな発見をしたりと、古の時代から現代に至るまで其仙流は日進月歩で「運勢学」に取り組んでいます。

其仙流でも「三皇五帝の時代」の事は全てを知っているわけではありません、当時の中国は数千年にも及ぶ長い戦争の繰り返しを行います、そんな中に於いて失伝してしまった秘伝や教えなども当然にあります、又当時は「紙」と言うものが存在しない時代、その主な伝達方法は「口伝」です。

其仙流の源流から伝わる「精神と秘伝」を「口伝」で受け継ぎ現代も「本物」を守っています。

これよりは、「周の時代」に本格的に突入して行く事となります、この「周の時代」からは其仙流は「孤高の道」を歩む事となります。

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