「大学」という古典は、「四書五経」の「五経」の一つである「礼記」の中の一篇に過ぎず、しかも、いつ誰が書いたものなのか明らかではありません。一説では漢の武帝は高等教育機関として大学を設けたとき、その教育理念や教育方針をまとめたものではないかと言われていますが、定説となってはいません。

いわば、「大学」とという古典は「朱子学」以前の儒学では格別注視される事の無い「礼記」の片隅でひっそりと忘れられた存在になっていました、その「大学」に初めて光りを当てたのは「朱子学」である。当流、其仙流は「四書五経」もその修行の段階で学ぶものだが、決してその全てを秀逸と見ているわけではありません、「論語」に関しても、その中には劣る一文もあるとして、「論語」だからだと「全てを賞賛」している訳ではありません、「孟子」も孔子の思想を継いだと言われていますが、当流は「孟子」は当流の修行の科目に「孟子」をおいておりません、それは何故かと言うと「孟子」の時代は「戦国時代」です、まさに一時の平穏を手に入れては直ぐに戦乱を起こす、という事の繰り返しです、孔子の時代も戦乱の時代とは言え、孟子の時代はさらにその戦乱は苛烈を極める時代です。
故に、孔子の思想を元にしつつも「受け身の姿勢で生きて行く事が美徳である」とも取れる内容になっています、これは読み手の印象で違ってくるかも知れませんが、当流は孟子を「受動的思想家」としており、孔子とは根本的に違うと見ています。
孔子は「能動的思想家」であって、能動的に生きながらも「如何に弁え、道理を得て、本質を悟る」のかを説いた人物です、生きる姿勢が孟子とは根本的に違うのです、故に「道を開く生き方、人生を豊かに生きる、運や縁に恵まれる生き方」を説く当流は「孟子」を重要視していません。これは「中庸、呻吟語」なども一部は良い所もあるが全体としては「受け身な生き方」を喚起させる内容となっており、庶民が希望を以って、志を持ち生きて行く事を本質的には説いていないとしております。
そんな中で「大学」は「人としての本質的基礎を育てる哲学」として当流では修行の段階で学ぶものとしています。
大学の学びで「仁義礼智」を説いている一文です。
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